78話 雪辱2
【78】雪辱2
「ああ、そうか。ミンディ、逃げたのか、これ」
壁の外、荒野の只中で一人佇むテオは、はたと気が付いた様に呟いた。
テオの手にはレジーから借りた細剣が握られている。代わりにテオが持っていた大薙刀は唯一それを担いで移動出来るエイダンへと一時的に預けられていた。
戦場に出るにも拘らず大薙刀を手放すという話になった際に、焦れに焦れたテオだったが、最終的にはレジーとジルの口先八丁によって丸め込まれて今に至る。
「ミンディ、あんまりこういうの好きじゃないし、嫌な役目だもんなあ。仕方ないか」
襲い来る狼型の魔物の首を借り受けた細剣で突き穿ちながらテオが呟く。突き刺さった死体ごと血を払い、次に備えて構え直したテオへと更に一匹の狼が飛び掛った。
「俺だって嫌だよ! 人選ミスが否めないだろう、これは!」
最早やけくその様に吐き捨てたテオが、襲いかかる狼の顔面を靴底で受ける。がちりと噛み合った牙がブーツの表面を抉る前に、その顎を割開くように押し返し踏み潰した。
脳漿を撒き散らして絶命する狼の死体を蹴飛ばして遠ざけるテオは今回の作戦を思い出す。
釣りだ。
その作戦を聞いた時、シンプルに言うならばそれ以上の言葉はないとテオは感じた。
約二キロ先で確認されたオルトロス。
それが到達する前に辺りの魔物は大体数殲滅し、開けた戦場にたった一人の餌を置く。
オルトロスは種や他の魔物同様人口密集地を目指して接近してくるはずなので、最短距離と地形を考慮すれば、通るルートはある程度割り出せた。
街へ向けて接近するオルトロスは、基本的に人間を見つけ次第襲撃する。それは食糧として獲物を狩るという意味でも、相容れない種族の生物をただ虐殺する為に踏みにじるという意味でもあった。
なればこそ。
たった一人であろうとも、そこに人間がいる限り、オルトロスは必ず食らいつく。
そして食い付きを確認した“餌”は、釣り針に付いたかえしの如くその体を張って、水面に当たる罠までオルトロスを誘導する。
後は罠にかかったオルトロスを水を失った魚のごとく調理してやろうと言うことらしい。
シンプルだ。確かにシンプルであり、数という意味では犠牲は少なく済むだろう。
だがそれは“餌”役の心情を少しばかり軽視しすぎてはいないか。テオは今ここで必死に叫びたくて仕方がなかった。
「ソロなら少しは減ってもいいか、とか思ってんだろう! そうなっても騒ぐやつがいないから!」
更にテオの喉元を食い破らんと襲い来る狼の眼孔を突くことで脳を破壊したテオが叫ぶ。
串刺しにした魚の如く喉を通して深く突き刺さった細剣を頭上経由で振り払い、狼の死体を抜き去る。
刃を伝って手元に垂れる狼の体液を血振りするついでに、追撃の狼の喉を断ち切った。
あのメンバーの中で武装を下ろせば最も足が速く、オルトロスに追い付かれる可能性が他と比較して最も少ないという理由で、“餌”役として選ばれたテオは悪態を吐かずにはいられない。
その上、あの元聖騎士の指揮官は、餌役になる人間が“聖教嫌い”の冒険者であり、聖教より離反した聖骸ミダスの弟子であるテオだと知った時、“丁度いい”などと言って笑ったのだ。
またその手の扱いか、と慣れてしまった現状にテオは辟易した。
しかし自分の隣で珍しく感情を削ぎ落とした表情を張りつけたレジーが、聞いたことも無い程に低い声で何がしかを呟いていることに気がついた時は背筋が凍るものがあったと思い出す。
微かながらリオの名前が聞こえたので、恐らくは指揮官の態度がそれ絡みのレジーの地雷を踏み抜くとは言わずとも刺激したのだろう。
彼ら二人の事情は知らないし、レジーが言う“そのうち”を待つ姿勢を取る事に決めたテオは、その場で深くそれを追求するつもりは無かった。
しかし、いつもにこにこしている人間が怒ると怖い。そう思うくらいの人間性はテオにも未だ存在したらしい。
もしもミンディがいれば、餌役をすることになるのは彼女だっただろう。斥候であるミンディは、テオと比べるべくも無く足が速い。
自分でも嫌な役目を、人に押し付けるのも気が引ける。それ故に、テオはミンディがさっさと帰って作戦から逃げたことも責めはしない。
しかしそれはそれとして、この埋め合わせは何れして貰いたい所存だった。
「大薙刀まで取り上げやがって! 重いから走るには邪魔だけど、あれなしで立ち向かう俺の気にもなれよ! ただただ怖いわ!」
テオの叫びに招かれるように襲い来る狼を顎下から蹴り上げる。蹴りあげられた衝撃で飛び散る鋭い牙を腕で払い、無防備になった腹部を細剣の切っ先で横一文字に切り裂いた。
聞き耳を立てるものすら傍に居ないので好きなだけ不満を撒き散らせるが、それを受け止めてくれる人間も同様に傍にはいない。
オルトロスを待ち伏せする区域の殲滅から逃れたのか、新たに別の区域から移動してきたのか、ちらほらと増え始めた魔物の相手をしながらも、テオは少々激しい愚痴を止めなかった。
オルトロスに気が付かれやすいように精一杯騒いでいろ、という指示もある。
ここに至るまで、一人で一体どう騒げと言うんだと困っていたテオだったが、意識して狙わずとも存分にその役目を果たしていた。
「大体! 速いって言っても俺とエイダンじゃ大差ないじゃないか! エイダンがやれって言う話じゃないけどさ! どうせ俺が一人でやるなら大薙刀返せよ! ここで首を落としてやる!」
振り抜いた細剣の先に突撃した狼の首を掻き切ったテオが叫ぶ。
噴水の如く撒き散らされる血液を回転するようなステップで避けたテオは、逆手に持ち替えた細剣で背後から迫る狼の胴を横から貫いた。
いくら小型の狼を殺そうとも、それが今回の件において何らかの証明にもならないことは、テオにもよく分かっている。
オルトロスを相手にするということは、人程の大きさのこれらの狼を殺す事とは訳が違う。
五年前のオルトロスが数多の命を蹂躙し、奪っていった事実は伊達では無い。
三人の人間を担いだシャトルランを終えて疲労していたものの、あの時のテオはその身の全力を持ってして手にした大薙刀を振り抜いた。
あと少し腕が上がれば首が落とせた。そう嘯くように吐き捨てたあの日の自分の強がりが、現実味を帯びてなどいないことは、他でもないテオが一番よく理解している。
骨格が違うのだ。
縦に四メートルを越えるオルトロスの体は、それを支える骨組みの太さも、それ程の巨体を馬並に走らせる筋肉も、それらが崩れないように押さえ付ける毛皮をも含んだ何もかもが、桁違いに頑強だ。
筋を切り裂き骨を断ち切り、確かにあの日のテオはオルトロスの前足を一本切り飛ばした。
だが、それだけだった。
致命とならないその傷は駆け回るオルトロスの進行を止めたものの、その命を奪うには至らなかった。
聖骸ミダス謹製の大薙刀を持ってして、テオに出来たのはそこまでだったのだ。
テオは、今の自分の手に収まる細剣を見下ろす。
レイピアのように突く事に長けた細身のそれは、しかし一応は両刃の形状をしていた。
しかし反りもなく厚みもない直刃のそれは、オルトロスの硬い体を穿つには心許ない。
レジーが魔物を殺すメインの手段に魔術を選ぶ以上、腰に差すこの剣に近接戦闘の護身以上の役目を求めなかったのだろうと予想が出来た。
「来た」
それまでの喚き散らし様が嘘のように静まったテオが呟く。
横に長く縦に低い四足歩行の体躯であるにも拘らず、縦方向に四メートルを越える巨体。
下手な馬車よりも太い首の先は二股に分かれ、二つの頭に繋がっている。
人間を丸呑みにも出来るほど大きな口から、その一つ一つがエイダンが構える大剣の如く巨大な牙を覗かせていた。
頑丈な金属鎧を卵の殻の様に踏み砕く太い脚には鋭い爪が生えており、その足でどんな馬よりも早く駆け回る事をテオはよく知っている。
オルトロス。
その名で呼ばれるらしい超大型の狼型の魔物が、太陽が夕日の様相を見せ始めた荒野に姿を現した。




