43話 癒術師ジル4
【43】癒術師ジル4
淡い青の光。
ジルの指先に灯る魔力を帯びたその光は、どこか神聖な力を持ってその空間を照らしていた。
警戒したアーニーが戦闘に特化した人格に呼び掛ける寸前、虫でも払うように手を振ったジルが鼻を鳴らした。
「……怖がらせたか」
「なんの、つもりなの」
深くフードを被り直したアーニーが問い掛ける。テオからは事前に、この上着は案外防御に向いている品だと聞かされていた。
当の本人がこの場に居ないのは非常に納得が行かなかったが、無い物ねだりをする気は無い。ましてや診察室の中を見ていないアーニーにはテオの安否すら分からなかった。
身構えるアーニーに対し、腕を組んだジルが問いかける。
「君の体は聖骸だね」
ジルのその言葉に、目を見開き息を飲んだアーニーが沈黙する。その反応が否定を指していると言うのは無理がある程に、白衣の男の言葉を肯定していた。
「お前が聖骸であろうとも、教会に売り渡すつもりなど毛頭ない。私とて奴ら聖教は好かないのさ。君が身分を明かさずここで油を売っている事も、奴らに対する一種の当てつけになるならば好ましい」
どこか自虐じみた笑みを浮かべたジルが言った。驚いたアーニーが別人格への切り替えを中止し、目の前の白衣の男の一挙一動に注目する。
「ただし、気をつけなさい。この世界において癒術師の元に運ばれた患者の完治を疑うことは不自然だ。癒術師の手にかかった人間は、助かるか死ぬかの二択だからね。君の中にある幼子の知識を過信しすぎないように」
そう言って、ジルは白衣を翻し、診察室へ続く暖簾へと歩み寄る。しかし三歩程歩いた所で、ベンチの前に立ち尽くすアーニーを振り返り、少女が直前まで読んでいた本を指さした。
「ここにある本は好きに持って行っていい。読み終えたら後でテオドールにでも返しに越させなさい。お前も聞いているな、テオドール。出歯亀をする暇があるならさっさと出ていけ、小児性愛に目覚めた変態め」
「……俺はロリコンじゃない」
「どうだか。信用ならんわ、口先ばかりの脳足りんが」
ジルの呼び掛けに診察室の暖簾から顔を出したテオの肩をドア枠へと押しやり、白衣を揺らしたジルは診察室へと消えていった。
突き飛ばされたことでドア枠に強かに肩をぶつけたテオが、入れ違いに待合室に戻る。
「どうして上を着てないの?」
「……ちょっと、急いでて」
テオの姿を見て気の抜けたアーニーの言葉に、肩を竦めたテオは、手にしたシャツを頭から被って着直した。ドア枠にぶつけた肩を摩りながら、アーニーのそばに近付いて目線を合わせるようにしゃがみ込む。
「ええと、待たせたね」
「僕びっくりしたんだけど」
「俺も少し驚いた。ごめんね」
「ソフィアにするみたいにしなくていい。僕は子ども扱いなんてされたくない」
腰に手を当てて肩を怒らせるアーニーは言う。体全体で怒りを表現した少女の仕草とその言葉に、テオは思わず小さく笑ってしまった。
テオの記憶の中のリリーは、良くこういう表情をしていたが、その矛先にテオが選ばれることは決して無かった。いつもその勝気な顔を見るのは横や下からだけで、その正面から見た事など終ぞ無かったのだ。
「何笑ってるのさ!」
「いや、なに。悪かったよ。そう怒るな」
そう言って立ち上がったテオは、小さく少女の肩を叩いた。指先でノックするように宥めるような触れ方に、アーニーが大きく溜息を吐く。
「はあ。芋虫じゃないんだからそんなにおっかなびっくり触らなくても壊れやしないよ。もう、気が抜けちゃうったら」
「はは、悪い」
灰色の瞳を細めて笑うテオから目を逸らし肩を竦めたアーニーが、読みかけの本を抱え上げる。少女の細い指が埃を払うように表紙を撫でた。
「これ、借りて行きたい」
「良いんじゃないか。あ、待ってくれ。代金置いてくるの忘れた」
ぱたぱたと忙しなくテオが診察室に戻ろうとすると、それを待ち受けていたようにテオの目前の暖簾が割開かれた。呆れたように目を萎びさせたジルが、青や白や緑、茶色と言った様々な色の布を抱えている。
ポケットから財布を取り出そうとしていたテオが慌てて足を止めると、暖簾を潜って待合室に出てきたジルが手にした布をテオの顔面に投げ渡した。
「ぶ」
「金は倍置いていけ。あと彼女のその服は脱がせろ。お前を知っている人間が見たら怪しまれるどころじゃない。痛い胸探られたくなければ自衛くらいしたらどうだ。……少女に欲情した挙句マーキング代わりに着せているのでなければな」
「……ご忠告感謝しまーす」
受け取った布は聖骸リリーの体格にはほんの少し余るサイズの子ども服だった。手にした数枚の服を、分厚い本と引き換えにアーニーに手渡す。
「着替えは奥でしなさい」
「あ、ありがとう」
暖簾の向こうの診察室を指さしたジルにお辞儀をして、アーニーは暖簾の向こうへと消えていった。その背中を見送り、言われた通りの金額をジルに手渡したテオが口を開く。
「先生、本当に子どもには優しいよね」
「ふん。お前は自分の手で首を折れる者にまで警戒するのか、度の過ぎた小心者め」
「自分の手で折れてしまうからこそ怖いことってない?」
「そう思うなら半端に手を出さずに三つ折りにでも畳んで仕舞っておけ。どっちつかずだから恐れを抱く。どうせお前は器用じゃない、これと決めた方に傾いていろ。地べたに額を擦り付ける位で丁度いい。都度思考を挟むから鬱陶しい事になるんだ」
「鬱陶しいかあ」
へらりと笑ったテオが頭を搔く。それを横目で見たジルは、呆れたように溜息を吐いた。
「気色悪い顔でへらへらするな。暖簾の奥から睨んでも効果はないぞ、へたれ。頼り甲斐の無い保護者のせいで、無意味に怯えさせられて可哀想に」
「怯えさせた張本人がそれを言うの……」
開いた口から乾いた笑いを零しながらテオが言う。焦げ茶の髪を散らすように後頭部を掻きながら息を飲み、じっとジルを見詰めると、やがておずおずと口を開いた。
「先生、どうしてあの子が聖骸だって分かったんだ。俺、何かぼろ出したりした……かな……」
「何でもかんでも自分の行動が影響を及ぼすものだと思っているならば、とんだ思い上がりも甚だしいな。あれはこちらに知見があったに過ぎない」
爪先を鳴らしたジルが腕を組み、丸椅子に腰掛ける。診察室から少女が出てくる様子が無いことを確認したテオも、ジルと同じく丸椅子へと座った。
「聖骸と話すのは初めてではなかった。奴らは根本的な所で死体であることに変わりはない。癒術師に死人の見分けがつかないわけが無いだろう。そも、始めは鎌かけだったが、癒術反応の光すら知らないようではないか。あれに警戒する人間など、そういるものか」
「あー、あ、あー……」
「あれくらいの子が癒術を全く目にしたことがないと言うのもおかしい話だがな」
「見た事は、あるはずなんだけど……」
テオが丸テーブルに肘を着き、額を押さえて言った。がたり、と肘の間で乱雑に置かれた本が抗議の音を上げる。
リリーとテオが育った教会には癒術師のシスターもいた。リリーが生きている間、テオやグレッグ、それこそリリー本人でさえ、その手を借りて怪我を治したことは何度もある。
「記憶、もしくは記録か。それが知識止まりになっている。経験として身に染みていない為に反応に反映されていない。お前達が何故共にいるかは知らないが、面倒を見る気があるならぼろを出さないよう気に掛けてやれ。雑極まりないお前の頭に可能かは知らんがな」
「ああ……出来るだけ気を付けるよ」
「ならば決して彼女を癒術師に触れさせるな。当面はそれだけでも事足りる」
「分かった。ありがとう、先生」
テオの言葉に、ジルは組んだ腕を解き、猫を払うように手を振って答える。眉間に皺が寄っているが、ほんの少しだけ目尻が柔らかく下がっていた。
丁度その時だった。診察室へと続く暖簾が小さく押し上げられる。その影から小さく顔だけを覗かせる少女、アーニーがじっとテオを見詰めていた。
暖簾の長い布の影に隠れたまま出てこない少女の姿にテオが首を傾げる。
目が合って暫く待っても出て来ない少女の様子に、何かあったのかとテオが腰を上げかけた。しかし、半端に椅子から離れた尻を持ちあげ切る前に、意を決した様な表情を浮かべたアーニーが暖簾の奥から姿を現した。