39話
【39】
細枝のような指を口元に当てたアーニーは、吐息を漏らす様に小さく笑った。
「まあ、そうは言ってもね。まだ話は終わらないんだ」
長くて悪いね、と言葉を続けたアーニーが長い髪を後ろに流す。浮き上がる髪の先端が、ランプの明かりに照らされて波打った。
「全ての人格を纏め終えたベルは、その後鉱山で君と会うまで、全く表に浮上することは無かった。引き篭ったベルの代わりに、聖骸リリーの体は僕が仕切ることになった。僕自身元々仕切り屋の部分を持つ人格だったからね。適材適所とも言えるけれど、一番の理由はベル自身がこの体の主導権を僕に投げて寄こしたからなんだ」
今まで報告されていた聖骸と転生者の関係は、基本的に一対一だ。ひとつの聖骸に複数の転生者が宿る事も、一人の転生者が複数の聖骸に宿る事も無かった。
前例がない故に、テオがアーニーの言葉の真偽を容易に確かめる術はない。けれどテオは目の前で言葉を紡ぐ少女を疑う気にはなれなかった。
「現在、この体で最も強い権限を持つのは僕だ。主人格であり、聖骸リリーに最初に宿ったベルを差し置いてね。ベル自身がそう決めて、そう施した。僕は聖骸リリーに宿った六つの人格全てに対して、優位に立てると同時に責任がある」
細い指を自らの胸に当てたアーニーが語る。
元は一つの人間であったとしても、六つに切り分けられ統合しなかった時点で、アーニーはそれぞれを別の命として見ていた。
たった一人で、六人全ての行先を決めなければならないのはどれほどの重責だろう。自分自身の生き方すら、人に教えを請わなければ決められなかったテオは思う。
「聖骸の記憶を読み込んで現状を理解した僕は焦ったよ。僕達のレゾンデートルは既に決められている。ただ戦い、そして勝て。その過程で負う損失も死も、全てを無視してね」
嘲笑う様に口角を上げたアーニーが言う。口元とは反対にきつく寄せられた眉が、アーニーの心に巣食う怒りを表していた。
「僕には大義に対する熱い情とかそう言うの、全然無いんだよ。むしろね、折角今生きているのだから、まだもう少し生きていたいと思う程さ。その為には危険に背を向け、人命から目を逸らし、悲鳴に耳を塞ぐのだって構わない」
そう言いつつもアーニーの表情は晴れない。言葉の節々でテオを見つめる瞳が揺れ動いた。
テオはその視線を受け取りながらも、言葉を吐くことが出来なかった。自分の命を守ろうとする行為に、責められる謂れなどない筈だ。それでも、力あるものに寄せられる期待は時として強制よりも遥かに鋭い棘を持ってその対象に襲いかかる。
「何せもう、僕らは別々の六人になってしまった。進行役の僕が道を誤れば、死ぬのは僕一人じゃない。聖骸リリーに宿る六人全てが道連れだ。保身に走ったと罵られても仕方ないのは分かっている」
用いた言葉で自らを守ろうとするアーニーの頬には冷や汗ひとつ流れない。種と戦う為だけに作られた聖骸は、死体であるために体温がない。彼らの動力はその身に宿る魔力だけだ。劇人形のように動かされるのを待つだけの体では、筋力すらあまり意味をなさない。
「けれどソフィアは受動的過ぎて自らの行きたい道を選べないし、他の人格は僕が方針を問い掛けてもまともに答えてくれない。誰がどうしたいのか、どう思っているのか。僕にはもう分からないんだ。別れる前は自分の事だったことも、もう全部が他人事になってしまった」
先程アーニーが自分で言っていたように、疲れが滲んだ声音が揺れている。持ち上げた腕で顔を覆ったアーニーが、手のひらの隙間から溜息を吐いた。
「だからね。僕は逃亡を選んだよ」
顔を覆った手のひらをゆっくりと下ろしたアーニーが、再び眼前のテオを見詰め返して言った。言葉の内容とは裏腹に、少女の強い瞳はテオから一切逸らされる気配がない。
アーニーが逃げたと言ったものは損耗を度外視して強制される戦いであって、今向かい合っている男ではないからなのだろう。
その眼差しが、一度でも聖骸の権能に期待を寄せてしまった自分を責めている様で、テオは思わず息を詰まらせた。
「僕は戦いが怖かった。僕達の中の誰かが明確に、戦いたい、逃げたくない、と言うまでは自分の感情を優先することにした。その逃亡の協力者がグレッグだよ。教会で目が覚め、まあ、その、……人格の取り込み合戦の際に相応に暴れた僕達を、グレッグが逃がしてくれた」
結構派手に暴れたから聖骸が六つも無くなっているなんて中々気が付けないと思うよ、とアーニーが冗談交じりの様な気楽さで続ける。
懐かしい名前がやっと話題に上がったことで、テオの目の色が変わる。先を促す真剣なテオの目に、アーニーは一度深呼吸をして言葉を続けた。
「混乱に乗じたおかげもあってね、途中までは割とあっさり逃げられたんだ。けれど道中、教会からの追手に追い付かれてね。グレッグは僕達を逃がすために、足止めとして残った。テオドールを頼れと言われたのはその時さ」
「……グレッグは今どこに?」
「彼とはこの街に入る前に別れたから、何処にいるかまでは分からない。生きては、いると思う。……ううん、あまり自信はないな。ごめん。本当なら巻き込むべきではない人だったのかもしれない。彼は、あまり上手く戦える人ではなかったから」
「……いや。俺に謝ることじゃないだろう。グレッグが決めた事だ」
テオが頭を振ってアーニーの謝罪を否定する。テオもグレッグも、互いにもう子どもではない。自らが決定した事を、力不足を理由に他者に謝罪されては立つ瀬がないだろう。
いつの間にか俯いていたアーニーの姿は、年相応の少女より大人びて見える反面、酷く弱々しかった。
「……そう、だね」
「続きを話してくれ」
「ああ、分かったよ」
テオの言葉に、俯いていたアーニーが顔を上げる。
「まあ、そのね。リリーの記憶で君の存在を知ってはいたけれど。彼女の記憶は彼女が聖骸になる瞬間で途切れている。正直に言うと、その時の君に対する印象は意思が弱そうな子どもでしかなかった。だからあまり期待もしていなかったんだ。既にリリーと同じ聖骸になり死亡しているか、もしくは聖教に従事し聖職者となっているものかと思っていた」
しかし、現実はアーニーの予想とは真逆だった。テオは教会から逃げ仰せ、師匠に拾われ、聖教から距離を保ったまま目的に向かって生きている。
種の破壊という点では聖教と目指しているものは同じでも、その手法は大きく異なった。聖骸に頼り、種の破壊を目論む聖教。それに対して、聖骸であるテオの師は種の破壊を人間に頼った。種への接近に耐えうる人間を、種への攻撃を行える人間を、それぞれ選び育てた。その一人がテオである。
「まあ、そんなこんなでね。情報を集め、この街に辿り着いたんだ。幸いにも君はある程度有名人だったので探しやすかったと言うのもある」
「有名なのは、俺じゃなくて師匠だろう」
「うん。まあそうだね。けれど探す側からすれば大差なかったよ。聖骸ミダスが弟子を一人、最前線の街に配置した。そう、あちこちで噂話になっていたよ」
聖骸ミダス。慣れ親しんだその名前にテオは目を細める。教会から逃げ出した幼いテオを拾い上げ、ここまで育てて来た師匠。顔に大きな火傷を負った一本足の女、その正体である。数代前に目覚めた転生者であり、聖教に確認されている転生者の中でも最も長い活動歴を持つ女だ。
アーニーはテオが聖骸ミダスの指示により、この最前線の街ポーロウニアに配置されたと言ったが、それは事実ではない。正確にはテオはこの街とホゾキの名前を指定されて師の元を追い出されただけで、別段種との戦いにまつわる指示は受けていなかった。敢えて言うならば、待機を命じられたとも捉えられるが、それも明確ではない。
一つだけ。戦いとは関係ない事ならば、確かに師から言い含められた。テオは五年前に自らを見送った師の姿を思い出し、あの時の自分に送られたたった一つの言葉すら、満足に達成出来ていない自分自身に歯噛みする。
あの日の師は、兄弟子に転がされて泥だらけだったテオに、“友達を作りなさい”と言って送り出した。だからこそテオはこの街に到着してまず冒険者パーティに加入することに固執した。そして結果は見事な失敗だった。
ホゾキに勧められた事もあるが、結局は自発的にソロに落ち着いてしまった現在、師の言葉を十分に達成出来ているとはテオ自身どうしても思えなかった。
「前置きが長かったけれど、結論を言うとね。僕は君に聖骸リリーの保護を頼みたいんだ。勿論、リリーの内にある六人の人格を含めて」
自虐と後悔に沈みそうになるテオの思考を、アーニーの言葉が拾い上げた。その声に釣られて、テオはいつの間にか下がっていた視線を持ち上げる。そこにはじっとテオを見詰める聖骸リリーの姿があった。
今更それを放り投げられるのであれば、例え誰に導かれようと、きっとこの道を歩んでは来なかった。
テオは自らの中で決まりきってしまった答えを吐くと共に、譲れない条件を提示する。
「保護をするのは構わない。だが、俺はこの街を離れられない。あと十数キロも種が移動すれば、この街を囲う城壁のそばまで辿り着く。それまで城壁を防衛出来れば、人類が今まで種に挑戦した中でも、最も有利な状態で戦いに挑めるだろう。そんなチャンス、逃がすつもりはない」
テオの言葉に、アーニーは微かにその夕焼け色に混ざりあった瞳を見開いた。薄暗い部屋の中、あまりに小さな変化だった。しかし、ベットに腰かける少女の姿と向かい合ったテオは、その変化を見落とすことは無かった。
続きを言おうとした口が一瞬の間怯んだが、それでもテオは言葉の先を吐き出した。
「この街は確かに最前線の街だ。だからこそ、ここには他の聖骸も集まる。世間は戦わない聖骸を容易には受け入れないだろう。お前達と同様に強い権能を持つ他の聖骸による強制力があるなら尚更、お前達の存在が明るみになれば今のような“戦わない”を続ける事は難しくなる」
「そうだろうね。だからこそ、あの教会のシスターは僕達を追いかけて来たのだし、グレッグは彼女達を止めなければならなくなった」
「……はっきり言って、戦わない聖骸がこの街に留まるのはデメリットしかないと思う。聖教に見付かれば、問答無用で戦場に引き摺り出されるのが落ちだ。外へ逃げるのなら手引きはする。だが、俺はそれに着いてはいけない」
幸か不幸か、テオには聖骸狂いの知り合いがいる。正確には聖骸の持つ権能の力に魅入られた半ば狂人の様な女だが、欲求がはっきりしている分、その行動は信用出来た。
彼女ならば戦いたくないと言う聖骸を戦場に追いやって無駄遣いすることも無ければ、本人の意思を過剰に度外視して何らかの行動を押し付けることもないだろう。彼女は聖骸と言うリソースに対して、ウィン・ウィンの関係を求めている。だからこそ、彼女であれば聖骸リリーを含む聖骸全てから搾取しようとはしない筈だ。
「……いいや。外、へ。……どこかへ、は……、もう……もう、いいかな……」
独り言のようにそう呟いたアーニーの目は、酷く疲れているように見えた。あまりに苦しげなその姿に心配の声を漏らしかけたテオを遮るように、アーニーが口を開く。
「僕はこの街で、君と共に過ごしたい。デメリットならば承知している。その上で改めて君に頼みたいんだ、テオ」
そう言ってテオを見詰め返すアーニーの瞳には、先程浮かんだ疲労等どこにも無いように見えた。
「どうか僕達を、聖骸リリーを、守ってはくれないか。いつか僕達が何かを選べるその日まで、この街から出ないままに」
言葉と共に差し出された少女の手が、緩く指を開いてテオに握手を求める。気丈に振る舞われた少女の動作や言葉と裏腹に、室内の薄暗さに紛れてしまいそうな微かな震えが、その手を覆っていた。
アーニーが何を思ってこの街に固執したのかは分からない。しかし、デメリットを知って尚、飲み込み求めたその願いを、簡単に否定する事は出来なかった。テオもまた、聖骸リリーの行く末を見届けたかったのだ。
例えその結末まで、自らの命がある確証が無かったとしても。
「分かった。この街にいる限り、俺はお前達を守ろう」
柄では無い例えを挙げ連ねたテオは、震える少女の手を取った。
いつか。その手をもう一度握るのは、恐ろしいと考えていた。なのに、どうしてか。
柔らかく小さな少女の手は、あまりにも呆気なく、傷だらけで固くなったテオの手の中に収まった。
第一章はこれにて終了です。
次話より第二章が開始いたします。