36話
【36】
自分の体の一切が自由に動かない気味の悪い感覚。死の瀬戸際、血を失い過ぎた際に陥る前後不覚さとは異なるその感覚に、テオは混乱を禁じ得なかった。
「出発進行です!」
舌すらも微動だに出来ず、言葉を発することが出来ないテオに代わり、ソフィアが細い腕を突き上げて言う。
腕と共にぴんと伸ばされたソフィアの指先がくるくると揺れ動き、その指先の動きに合わせてテオの体が独りでに立ち上がった。抵抗しようとしても、テオの体は自らの意思から下される一切合切の指示を無視していた。
幽霊のようにふらふらと立ち上がる男を気にも留めず、ソフィアはテオに背中を向けて歩き出す。
「さあ行きましょう!」
溌剌としたソフィアの声が暗がりに転がる。その後ろから、テオの体が本人の意志とは無関係に動き、少女の生き生きとした行進に加わった。
体を自由に動かせないが、筋肉が硬直している訳では無い。実際、テオの体は前を行くソフィアの足取りに十分着いていけている。足を踏み出す度に背中や左腕が痛むので、痛覚を含む様々な感覚は残っているようだ。
だと言うのに、指が、腕が、足が、口が、全くと言っていいほどに自分の意思で動かせない。無意識に呼吸を繰り返す肺を含む、生命維持を図る臓器以外の全てが、別の何者かに動作の権限を奪われたかのようだ。
ソフィアの足取りは迷いなく、テオがアーニーの体を抱き上げて走った道を逆戻る。テオが言葉を吐き出せないせいで生まれた沈黙を疑問に思ったのか、前を歩くソフィアがテオを振り向いた。テオの姿を見て、緑の少女は思い出したように口を開く。
「ああ。すいません、これじゃあ喋れないですよね」
ソフィアの顔の横で、その細い指がリズムを取るように軽快に振られる。テオの強化された聴覚が、ぷつりぷつり、と何か糸のようなものが切れた音を捉えた。
その途端に、それまで微動だに出来なかった口元が自由になった事に気が付く。テオは慌てて口を開いた。
「どう、なってるんだ。体が勝手に動いている。何かしたのか」
「権能でしたっけ? それですよ。私の権能って、操作することなんです」
指を揺らしたソフィアが立ち止まり、くるりと首を傾げながらテオの顔を見上げた。未だ自由にならないテオの足が少女の側まで歩みを進める。
足を止めたままのソフィアは、歩み寄ったテオを受け入れるように腕を広げ、上へ向けて扇ぐように指を折り曲げた。
ソフィアの向かいまで辿り着いたテオの垂れ下がった両腕が、少女の小さな手を取るように持ち上がる。
「とは言っても、動かせるのは生物に限ります。もっと正確に言うなら、自力で動けるもの、ですね。ただの箱などは筋肉がある訳では無いので動かせません。箱を運ぶのには箱を運んでくれる人間、ないし、何かしら別の生物等が別に必要になります」
話すソフィアの小さな手が、痛みを無視して伸ばされたテオの手を取る。
暗闇の道の中心で、テオの体と立ち位置を入れ替わるようにして、ソフィアはくるくると回り出した。まるで踊るような少女のステップに、テオの重たい足取りが振り回される。
「ここまで来るのに人間や魔物の操作はある程度練習してきたんです。わんちゃんみたいに四つん這いの生物だってちゃんと動かせるようになったんですよ。でも、蟻さんみたいに足が沢山ある生き物はここに来るまで会った事が無かったんです」
くるくるとテオを振り回すようにして二回ほど回ったソフィアが、満足したようにテオの手を離した。両手を後ろで組みながらテオの右手側に着き、目的地へと歩き出す。
「動かせるのは体だけで、心とか、意志とか、感情とか、そういう精神的なものには作用しません。アーニーが、私の権能は“操作”と呼ぼうねって言ったので、私もそう呼んでるんです」
まるで近所を散歩しているかの様な気軽さでソフィアは足場の悪い道を歩く。あまりにもあっさりと晒されたソフィアの言葉に、テオは二の句を継げない。
どれだけ異能の力に優れていようとも、少女の肉体はテオよりもずっと貧弱だ。先手さえ取ることが出来れば細い首を折る事は容易い。だと言うのにも拘わらず、ご親切に手の内を解説したソフィアには、目の前のテオと言う人間を疑う気配が欠片も感じられなかった。
結果論で言うならば、確かにテオはソフィアを、正確には聖骸リリーを害する事は出来ないだろう。そんな事が出来たのなら、こういう生き方はしてこなかった。
問題なのはテオに限らず、全ての人間に対してこうもあけすけであった場合だ。少女の姿は油断を誘うが、世の中そういう輩だけではない。
知られた所で抵抗は出来ないと思っている可能性もある。実際、後手に回ったテオは操り人形の如くされるがままに、己が体の主導権を握られていた。
「あの、さ。自分で歩けるから、俺の事を操作するの止めてくれないかな」
「……んー、んー? 駄目です。テオドールさんはさっき早く外に出ようって言ったので、上着をお返しするまではこのままです」
鼻歌を歌うような気軽さで、ソフィアはテオの提案を蹴った。再度口を開こうとしたテオに対し、指を振ったソフィアがその権能でテオの声を塞いだ。
声も出せない状態に逆戻りしたテオとソフィアが並んで歩く。やがて分かれ道に差し掛かり、左右を見比べたソフィアが指を振りながら、玩具を弄ぶように声の自由を戻し、テオに向けて問いかけた。
「ここ、どっちでしたっけ?」
「……右だよ」
数分ぶりに再度発言の自由を得たテオが短く答える。嘘を吐いて出口方面へと誘導しようかと考えたが、直ぐに考えを改めた。
ソフィアという少女は指示されたことを成し遂げる事を最重要視して活動している。
ここで口先ばかりで誤魔化して出口へ辿り着こうとも、目的が達成出来ないうちは、ソフィアは踵を返して何度でも坑道の奥地へと戻るだろう。
暫くの間、二人はテオの道案内を受けながら暗い道を歩いた。やがて、テオが気絶から目覚めた場所へと辿り着く。五つの巨大蟻の死体が相も変わらずに転がっていた。
「あった! ありましたよ!」
地面の上で土に塗れて放置された上着を見付けたソフィアが、声と共にその上着へと駆け寄った。土の地面に落ちて薄汚れてしまった上着を、ソフィアの小さな手が拾い上げる。
「えへへ。テオドールさん、お返ししますね」
ソフィアが酷く満足気な笑顔で、上着に着いた土を払いながらテオへと近付いた。テオは未だに自分の意思で動かない体に歯噛みする。ソフィアの権能によりテオの意思に関係なく上げられた腕が、手渡された上着を受け取った。
「……その、ナイフもあるんだ。回収したい」
テオの言葉に、ソフィアが辺りを見渡した。しかし肝心のナイフは三本とも巨大蟻の体に隠されてしまっている。
「どこですか?」
「自分で拾うから体の自由を返してくれないかな」
「分かりました! どうぞ!」
ソフィアは強制的にここまで連れてきた事が嘘のようにあっさりと、テオの体の自由を返却した。痛む左半身を庇いながら、テオが三本のナイフを回収する。
丸腰の状態から抜け出したテオが、ほっとしたように息を吐いた。テオがナイフを回収している間、頬に手を当てて待っていたソフィアが口を開く。
「アーニーがテオドールさんとお話したいそうなんですけど、落ち着いて話せる場所ってありますか? 安全が確保できてないと、アーニーは出て来れないんです」
「俺が泊まっている宿でもいいかな」
「エイの宿ですね!」
「ああ。そうだよ」
三本のナイフをそれぞれ所定の位置に片付けながらテオが答えた。テオとしても、出来るだけ早く聖骸リリーについての詳しい話を聞きたかった。巨大蟻が活性化しているらしい危険地帯から少女を遠ざけたい思いもある。
そこまで考えて、ふと気が付いたテオがソフィアに尋ねた。
「このキラーアント達は君が使ってたんだっけ」
「はい……、その節は本当にごめんなさい」
「いや、それは、ううん。もういいかな。それよりも、キラーアント達におかしな様子は無かったかい? 俺がここに入る前に、物凄い音がしたんだ」
テオの言葉を聞いて、ソフィアは謝罪のために俯いていた顔を上げた。きょとんとした少女の顔が、何かを思い出したようにはっとした物に変わる。
「ああ! それでしたら、多分私のせいですね! ここに入って、蟻さんに会って、操って。そしたら残りの子達から、がちがちーって怒られました」
「……怒られた」
「はい! うるさかったですね!」
可愛らしく小首を傾げたソフィアが言う。花が散るような笑顔だが、言っている内容は可愛くない。
「じゃあ君達はあの時既に中にいたのか。え、あれ? どうやって中に入ったんだ。番兵は女の子なんて見てないって言っていたけど」
「番兵さんには見られてないです。入口から番兵さん達が離れないから悩んでいたら、下から馬車が登って来たんです。なので、お馬さんを操って馬車を壊しました。それでどさくさに紛れて中に入りました」
あっけらかんと話すソフィアであるが、あまりの暴挙にテオは言葉を失った。あの大きな広葉樹の下、馬車を直していた御者に同情を禁じ得ない。ただ居合わせただけで巻き込まれた彼の不運には頭が下がる。
「だから、出る時もこっそり出ます。宿の場所だけ詳しく教えて貰ってもいいですか? そちらで合流しましょう」
「ああ。分かった。俺もギルドに偵察結果の報告をしないといけない。ああ、そうか。何て、なんて言おう……」
頭を抱えたテオがぶつぶつと呟く。額に触れた指先が乾いた血液を撫でた。
巣まで見に行った訳では無いので活性化の有無は分からない。ここに転がっている五つの巨大蟻の死体はテオが留めを刺しているので“死因だけ”は不自然ではないので、少女の存在は誤魔化せるだろう。
問題はテオが先行調査を始める切っ掛けになった警戒音の原因だ。素直に、聖骸リリーを使用した転生者が坑道内部に忍び込んで遭遇した巨大蟻と敵対した為に警戒音や活性化が起こったようです、とは言えない。
目覚めてしまった聖骸リリーについて、テオは自分自身がどう行動すべきか、未だに結論を出せていない。
聖骸リリーの体を簡単に壊されたくないのは本心だ。しかし、戦いに赴く聖骸を止められないことも、一度その力に期待を寄せてしまった自分では出来ないことも分かっている。
アーニーは保護をしてもらうためにテオに会いに来た、と漏らしていたように思うが、話の流れが混乱していた為に確かでは無い。
戦わない。聖骸リリーがそう言ってくれるならば、きっとテオはそれに甘えられる。けれど少女が戦いを選ぶ時、その背中を押し遣る人間が自分自身である事が怖かった。
その恐怖に負けて、テオは聖骸リリーについて思考する事を一時的に放棄し、ここまで大人しくソフィアに連れられて来てしまっていた。
戦闘能力のある聖骸の存在が他に知られれば、直ぐにでも聖骸リリーは城壁での戦闘に駆り出されるだろう。恐らく、そこに本人の意思は多分に考慮されない。戦える力があるにも拘らず逃亡を選ぶ聖骸など世間は受け入れないだろう。聖骸リリーが戦わない未来を選ぶなら、少女の存在は隠匿するに越したことはない。
未だ結論が出ない以上、また、聖骸リリーに宿る転生者一同の意思が聞けていない以上、その選択は一度保留にしたかった。
ここは素直に巨大蟻の活性化の有無も、警戒音の原因も、双方不明と報告するしかないか。そう結論付けて、テオは思考を締める事にした。
「……誤魔化して、くれるんですね」
そよ風のように微かなソフィアの囁きが、坑道の暗闇に転がった。