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錫の心臓で息をする  作者: 只野 鯨
第一章
35/144

35話

 

【35】




 高らかに宣言された殲滅の言葉。

 岩壁に体を押し付けられたテオの腕の中で両腕を掲げた緑の少女が屈託なく笑いながら、その細い指を弦楽器を掻き鳴らす様に折り曲げた。


「きっと今度は上手にできます! 六本足でも大丈夫です! きちんと動かして見せますよ!」


 溌剌と話す少女の吐息とは違う柔らかな何かが、テオの頬を撫で上げる。風と言うには確か過ぎる物質的な触覚に、テオは反射的に顔を仰け反らせた。

 強化した視界で辺りを見回すも、目に入るのは笑顔の少女と石、五匹の巨大蟻だけだ。頬に触れた様な柔らかな触感を齎す物など見当たらない。


 腕の中の少女は、不可思議な感触と自分たちを取り囲む巨大蟻に警戒するテオに大人しく抱き上げられている。その状態のまま、くるりくるりと天井に向けた指で空気を掻き回す。


 それはまるでお遊戯会で披露される幼児の踊りの様だった。揺れ動く少女にテオが気を取られたその瞬間、唐突に周囲の巨大蟻の気配が変化した。


 前方の三匹。後方の二匹。その五匹の全てが、巨大な胴体に接続された六本の足をびんと伸ばしきり、重たいはずの胴体を高く持ち上げて停止した。


 起き上がり小法師のようにゆらゆらと揺れながら、不自然な姿勢の巨大蟻が、その巨体を少しずつ動かし始める。

 海月のように揺れ動く不気味な巨大蟻の姿を見たテオが息を飲む。おかしな動作をする巨大蟻には見覚えがあったからだ。テオが気を失う前の戦闘の中、彼の背中に頭突きを食らわせた個体の動きと酷似している。


 再度目にした巨大蟻の異様な姿に、テオの頬に冷や汗が流れる。この姿の巨大蟻の動きは予想が付かない。負傷し、疲弊した体で腕の中の少女を守り切れるだろうか。


 一本道の前後を塞いだ巨大蟻が、じりじりと互いの距離を詰める。

 やがてその内の一匹、後方からテオを追い抜いた巨大蟻が、大きくその顎を割り開いた。


「ばっくん!」


 同時に、愛想を振りまく猫のように愛らしく丸い掛け声で、少女は振りかざした手のひらを打ち鳴らした。


 ぱちり、と小さな掌から空気が弾けた間抜けな響き、少女の体を抱き上げているテオの鼓膜を微かに揺らした。

 可憐と表現するには幼さが勝る少女の仕草に、悪意のような暗い物は欠片も混じっていない。


 けれども。少女の言葉、その幼い手拍子を合図にするように、それは始まった。


 顎を開いた前方の巨大蟻が、傍で胴を持ち上げて首を晒した別の巨大蟻の頭に噛み付く。頭部を守る硬い殻に拒まれて、噛み付いた巨大蟻の顎が締まり切れずにぎしぎしと軋みを上げていた。

 無抵抗に頭を食まれ続ける巨大蟻の目玉に、外殻の上を滑った大顎が突き刺さる。潰れた目玉が体液を垂れ流し、てらてらとその黒い体を濡らしていた。


「ばっくん!」


 少女の掛け声に合わせて、ぱちり、と再度手を打つ音が響いた。

 それを合図に、前方にいたもう一匹の巨大蟻が、仲間に目玉を潰された巨大蟻の足に齧り付く。大きな顎が甲殻の上を滑り、関節部分の窪みに収まった。硬い顎が甲殻の表面を叩く音が、やがて筋肉を引き千切る音へと変わっていく。


「ばっくん! ばっくん!」


 少女が同じ言葉を繰り返す度、ぱちりぱちりと、小さな手が柏手を打った。手を打ち鳴らす音が暗い洞穴に響く。

 気が付けば前方の三匹と同様に、後方の二匹も互いの甲殻すら食い破らんとする、苛烈な共食いを始めていた。


「ばっくん! ばっくん! あ、足! 足なら千切れる! あし、あし、あし、あし、ばっくん! ばっくん!」


 リズミカルな手拍子と、少女の無垢な様に聞こえる声音に合わせて、巨大蟻が互いの足を食い千切り始める。


 がち、がち、と顎と甲殻がぶつかり合っていた音が、やがて殻よりも柔らかい肉を引き千切る音へと変わる。ぶちり、ぶちり、と断続的に耳に入る音は五匹の巨大蟻全てが息絶えるまで鳴り止まなかった。


 眼前の光景に、テオは言葉を失う。混乱に飲み込まれないよう深く息を整えて初めて冷静を保てた。

 ここまで走った事により、高くなっていた体温が急速に下がっていく感覚がテオの背筋を逆撫でる。


 五匹全ての巨大蟻が息絶えた空間に、沈黙が戻り、辺りを包み込んでいた。テオと少女の呼吸の音だけが、恐ろしいほどの静けさを取り戻した二人の間に転がっていた。


「あの、テオドールさん。もう降ろしてもらっても大丈夫です。ありがとうございました」


 少女の手に襟元を引かれて、呆然としていたテオが我に返った。少女の氷のように冷たい指先が首筋に触れる。低過ぎる少女の体温に恐怖に近い寒気を感じたテオは、少女の体を恐る恐る地面へと下ろした。


 倒れ伏した巨大蟻の姿が視界に飛び込む。

 絶命した巨大蟻はどれも硬いはずの顎が割れ、足を失い、首を晒して息絶えていた。


 その様子を、そこに至るまでの様子を、それを齎した少女がどこまでも殺意を抱く事のない様子を、テオはこの目で見てしまった。冷や汗がテオの背中を伝い落ちる。


「き、君は、一体」

「私はソフィアです! はじめまして、テオドールさん! よろしくお願いします!」


 ぴんと背中を伸ばした少女がテオの問い掛けに答えて可愛らしいお辞儀をする。ひらりと薄緑の髪先が揺れて、少女の肩口で小さく踊った。立ち振る舞いや格好だけならば、行儀良く行われた少女の自己紹介である。


 けれど、どこか。立ち姿や外見から見ただけでは分からないずれのようなものを、テオは目の前のソフィアと名乗った少女から感じ取り始めていた。


「あ、れ。あれ、何したの?」


 頬の冷や汗を誤魔化したテオが、ソフィアと視線が合うように屈み込み、倒れ伏した巨大蟻の一匹を指さす。破れた目玉から滴り落ちた体液が地面へと染み込んでいた。


「実行するのが私の役目なのです! だから、殺しました! アーニーの言う通りにしたのですよ!」


 満面の笑みで小さな胸を張ったソフィアが言う。生き物を殺したと話す口と反して、殺気も敵意も抱く事の無かった少女の纏う空気に、テオは背中に悪寒を止められないでいた。


「君は、アーニーでは、ない?」

「はい、私はソフィアです。アーニーは安全な所に行くまで出てきたくないそうです。でもアーニーはいつもそうですよ。安全な所でしか出てきません。今日が珍しかっただけです」


 ソフィアの言葉を聞いて、テオは先程の少女アーニーの話を思い出した。


 アーニーは、聖骸リリーには六つの人格が内包されていると話していた。

 聖骸という物自体、元々が肉体と精神が乖離した存在だ。前例が無い、もしくは発覚していないだけでそういう事もありえるのかもしれない。少なくとも、少女の話を否定出来るだけの根拠をテオは持っていなかった。テオは、人格と肉体の数が不釣り合いな点については一度思考を放棄する。


 六つの人格の内の一つが先程までのべらべらと口を回していた少女、アーニーなのだろう。アーニーは自らを行動方針を決めている者と称した。

 ならば同様に、定められた方針に沿って動く者も居るようだ。実際にソフィアは、自らが実行役であると名乗っていた。


 彼女は“指定役のアーニーが殺せと言った”から巨大蟻を殲滅せしめたのである。彼女が巨大蟻を蹂躙する最中も、漏れ出る殺意が無かったのは、ソフィア自身に巨大蟻を殺す意図が無いからなのだろう。


 与えられた目標を達成する事だけを考えている。その中身には特段興味はなく、良しも悪しも関係ない。それが人助けでも、虐殺でも、ソフィアにとっては変わりない。


 それ故にソフィアが五匹の巨大蟻を片付けた際にも、殺意も敵意も欠片すら抱くことがなかった。内に抱いていない物は外に漏れ出ようがない。

 ソフィア自身に理由が無いから、敵対にも虐殺にも説得は通じない。テオがソフィアに対して感じ取ったずれ、恐怖を抱いた違和感はこれが原因だ。


 言われたから、そうしただけ。

 単純な動機だが、ソフィアはそれを実行し、実際に成功させて見せた。幼く笑う少女に見えても、手拍子だけで五匹の巨大蟻を死体にした正体不明の能力は確かなものだ。


 固唾を飲んだテオの顔を不思議そうに見上げていたソフィアが、思い出した様に声を上げた。


「あ、ああ! そうでした! テオドールさん、さっきはごめんなさい! 私、六本も足のある生き物を使うのは初めてで、全然上手に扱えなくて……。頭は痛くないですか? 体は大丈夫ですか? ぶつかったり押し潰したりしてしまって本当にごめんなさい。ちょっと動かないでいて貰おうと思っただけなんです……」


 しょんぼりと髪を萎びさせたソフィアが言う。

 胸の前で指を擦り合わせ、叱られるのではないかと怯える子どものように怖々とテオを見上げているが、より戦々恐々としたのはテオの方であった。


 六本足の生き物にぶつかったり押し潰されたり、と言った事は確かに先程経験していた。テオが坑道内の偵察に入ってから遭遇した巨大蟻との戦闘だ。あの戦闘で、テオは三発の投擲散弾と三本のナイフを失った。

 けれどもあの行為はソフィアにとって、“ちょっと動かないでいて貰おう”と足止め程度につついただけなのだと言う。


 悪意なく突きつけられた彼我の力の差に、テオは言葉を無くす。黙り込んだテオを、ソフィアは首を傾げながら不思議そうに見上げていた。

 すると唐突に、ソフィアはその緑の瞳で辺りを見渡し始めた。きょろきょろと、少女の大きな瞳が右へ左へ忙しくなく動き回る。


「あれ? 上着、上着がないです。濃い緑色の上着を見ていませんか? 持ってきていたはずなんですけど。私、テオドールさんにそれを返さなくちゃいけないんです。ニーナに頼まれてて」

「……置いて、来たね」


 テオは力ない声でソフィアの言葉に答えた。


 ソフィアの言う上着とは一昨日路地裏の少女に手渡した物だろう。確かに巨大蟻に押し潰されて気絶したテオが目が覚めた場所の傍に転がっていた。しかしアーニーを担いで巨大蟻から逃げる際に、すっかり回収を忘れていた。


 テオとしては元々戻らないと思っていた物なので、無くなった所で別段思う所はない。それよりも、三本のナイフをあの場に置いて来てしまった事の方が気がかりであった。投擲散弾を使い切ったテオには現在あのナイフ達しか武装がない。

 けれどソフィアにとっては違う様で、胸の前で手を握りしめて、興奮したように高い声で話し出した。


「取りに行きましょう! テオドールさんに上着をお返しするのです!」

「いや、上着なんて気にしないでいいよ。それより早く外に出よう。キラーアントの群れが活性化しているみたいだから、ここに長居するのは危ない」

「きらーあんと、は殺します! アーニーが“みんなみんな”と言ったので、襲ってくるならみんなみんな殺します!」

 

 握り締めた手を上下に振りながらソフィアが熱弁する。吐き出した物騒な言葉とは裏腹に、少女の纏う雰囲気に暗いものなど何処にもなかった。


 尚も渋るテオに向けて、ソフィアが握り締めた手を振り上げる。瞬間、テオの頬を先程と同様に柔らかな何かが撫で上げた。

 驚いて頭を逸らせようとしたテオだったが、どうしてか固めたように体の一切が動かせない。


 指一本、唇一つ、自由に出来ない自らの状態に動揺し、荒くなった呼吸がテオの口から漏れ出た。

 少女の身長に合わせて腰を屈めていたテオの顔を、長い薄緑の髪を揺らしたソフィアが下から覗き込む。


「だから、ね。一緒に行きましょう。テオドールさん」


 強制された沈黙が、まるで肯定の様に横たわる。少女の瞳が強く緑に輝いた。




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