34話
【34】
テオは追い縋る巨大蟻を撒く為、複雑に交差する暗闇の道を駆け抜けた。
この三日何度か通った道だ。大きく外れない範囲ならば、ある程度の地図はテオの頭にも入っている。しかし先の戦闘で巨大蟻に押し潰されたダメージは、確実にテオの体力を削っていた。
「……う、…ぐ……、……は……ッ…」
走る為に強く足を蹴り出す度に骨が軋み痛みを発する。安静に休んでいたことで止まり掛けていた頭部からの出血が、激しく動いた事により緩やかに再開を始めた。
「苦しいかい? 僕を下ろせば余計な手荷物も無くなって楽になるだろう。囮にしたならば、もっとずっと簡単に逃げられるかもしれないよ」
「……だま、ってろ…ッ!」
角を曲がるテオに抱えられたままのアーニーが声を掛ける。小さな体はテオの右腕により支えられてはいるものの、不安定な姿勢は走り回る揺れで簡単に崩れてしまう。
抱えられたアーニー本人が拒めば、簡単に少女の体は地面に向けて傾くだろう。テオがそれを取り落とさない様に腕を伸ばせば、自然と駆けた足は止まり、後方の巨大蟻は簡単に二人に追い付いてしまう。
何を考えているか分からない腕の中の少女に、テオが歯噛みする。本当に落ちられては敵わない。テオは小さな体を支える右腕の力を抱き締めるように強めた。
「どうしてかな。傍から見れば、僕は勝手に危険な場所に迷い込んだ愚かな子どもだ。親や保護者がいる訳でもなし、死にかけの君がそんな子を見捨てたって別に誰も咎めやしないんじゃないかな。そもそも君が僕を見捨てたことすら黙っていたならば、誰に知られることも無いんだぜ。何せここに入る少女の姿なんて誰も見ていないんだからね」
淡々と述べられる言葉にテオは顔を顰める。弱いだ守れだ等と言っておきながら、何故アーニーと名乗った少女は自らを捨て置く選択をここまでしつこく勧めるのか。
「それともさ。君もやっぱり聖骸が大事なのかな? “そういう”期待を僕に寄せられたって、とっても困っちゃうよ。僕って本当に弱いんだぜ。何せ後ろの大きい蟻さん一匹殺せやしない。今の君ですら簡単に僕を殺せるよ? 本当だよ? 誰かに守ってもらわなきゃイチコロなんだよ僕。そんなものにまで頼りたいの? そんなものにまで頼らなくちゃいけないの?」
走った事で汗をかいたテオの胸元に、そっと耳を寄せたアーニーが言った。
長ったらしい話なら後にして欲しいと全力で対話を拒否したかったテオだが、今回は話題が悪かった。
この手の話に黙りを決め込める性格をしていたのなら、そもそも昨日ルーカスと口論になど発展していない。
「……聖骸だってのは、……今は、どうでもいいッ!……だから、頼ってないだろう!……っ、げほ…、いい加減、黙ってろ! 本当に舌噛むぞッ!」
怒鳴り声を上げたテオは、痛みを訴える背中を叱咤して狭い暗闇を駆け抜ける。後方から追跡する足音は消えないが、距離を詰められている訳でもない。
このまま外まで逃げるならば、坑道出入口まで巨大蟻を引き連れて行くことになる。しかし後ろに着いているのはたった三体の巨大蟻だ。
ナイフを突き刺したまま置いて来てしまったテオは現在真に丸腰だが、外の番兵は違った。夜間に徘徊するアンデット相手に通じる程度の武装はしている。出入口を閉鎖しなくとも、三人掛かりでなら三体の巨大蟻には対処出来るだろう。
最悪の場合、彼等番兵が巨大蟻と戦えなくとも構わない。彼等が持っている武器さえ借り受けられれば、テオが一人で足止めをする。後続の巨大蟻がこれ以上増えないのであれば、ホゾキが援軍を連れて来るまでの間に殺し切るか、それまで街へ逃がさないかの、どちらかは可能だと踏んでいる。
出口へのルートと敵への対処法を必死に脳内で割り出すテオへと向けて、アーニーが唐突に肩を揺らし笑い出した。
「あは、あっはは、あっはっはっは! 本当だ! その通りだ! あっはは、あは、ひー! 頼られてない! 僕別に君に助けてとか全然言われてなかったや! 忘れてたよ! すっかり思い込みに飲み込まれてた! 今頼ってるのは僕の方だったっけ! そうだそうだね! うっかり抜けてた! ごめんごめん! あははは!」
いつの間にかテオのシャツの襟首を握っていたアーニーの手が、大笑いに連動して微かに震えていた。
後方から迫る巨大蟻は未だその足を止めない。テオは大きく角を曲がり、出口方向へと折り返す道に入り込んだ。
「……ッ、気でも狂ったか! 黙ってろって、言って、る、だろう…!」
鋭角の角を曲がりきれなかった先頭の巨大蟻が壁に突撃する。後続の一匹が壁にぶつかり足を止めた同胞の体に突っ込み自滅するが、最後の一匹がテオの駆け込んだ道へと曲がって侵入して来た。
走る速度を緩めていたテオが、巨大蟻の衝突を見守った数秒で深く息を吸い込む。荒い呼吸を整えて、爪先を大きく踏み鳴らした。身体強化の術式が、更に重ねてテオの体を補強する。
出口への最短距離を進むため、分かれ道を左に進む。しかし、前方に二体の巨大蟻が佇んでいるの姿を確認して、テオは思わず舌打ちをした。後方から追い掛ける巨大蟻と挟み撃ちにされている。
前方二体の間を縫って走り抜けるか、後方に翻して巨大蟻の頭上を飛び越えるか。二つの選択肢がテオの脳裏に浮かぶ。
短く息を吸ったテオが選択を迷ったその時、腕の中の少女がおもむろに片手を振り上げた。
「お詫びだ! 嘘を一つ撤回しよう!」
上げられた右手が横に振られる。瞬間、何者かに服を掴まれて引っ張られたような感覚がテオを襲った。体ごと摘みあげられたと言う方が正確かもしれない。
唐突な浮遊感と共に、テオの体が大きく右に浮かび上がり、道の端に寄せられた。
「なん、なんだッ!?」
身体強化を施した筋力でも、足が地面から浮けば何の抵抗もできなくなる。不可思議な力にされるがままに、テオの体が本来有り得なかった筈の軌道を描き、後続の巨大蟻に道を開けた。
急な事態に混乱しながらも咄嗟に着地したテオの体が、更に壁際に押し付けられる。見えない何かに押し付けられる様に、汗をかいた背中にシャツが張り付いた。
「僕は確かに弱い! 奴らを殺せる力もない! だが、しかし! 別に“君”に守ってもらわなくとも自衛の手段は存在する! 君が問うた様に、聖骸リリーの中には六つの人格が存在する! そのひとつの僕が例え弱くとも、他に頼れば何の問題も無いのさ!」
道の端に放り投げられたテオの横すれすれを巨大蟻が走り抜ける。テオの腕に抱えられたままのアーニーが、上げた片手をひらひらと揺らして声高に叫んだ。
「だからね、テオ。僕と一緒に助けてもらおうか」
少女の橙の目が細められる。囁きのような声だったが、前方で三体の巨大蟻が衝突した音にかき消される事は不思議となかった。
衝突から復帰した三匹の巨大蟻が前方からテオと少女へ向けて警戒音を発する。後方から追い付いた二匹が、呼応するように足を踏み鳴らして距離を詰め始めていた。
「聞いているね、ソフィア。僕からの“お願い”だ。とっても危険で邪魔な蟻共、みんなみんな殺してしまえ」
自らのこめかみに両手を添えたアーニーが宣言する。橙に紛れた夕焼け色の髪が、根元から緩やかに薄緑へと変貌した。
腕の中の少女の異変にテオが目を見開き、息を飲んだ。そして、スヴェンとメリル、ホゾキの三人の話を思い出す。
初めは少女の髪は白金だと聞いていた。しかしホゾキはそれを薄い緑だと番兵に証言した。その時のテオは、見間違いか目の錯覚だと思っていた。
そのどちらでもなかったのだ。アーニーの話しぶりが途端に変わったあの時からその姿が夕暮れに変わったように、山の新緑を帯びた存在もまた同時に存在した。
「分かりました、アーニー! 私、やります! 今すぐにでも成し遂げて見せますよ!」
緑の瞳、光を吸い込むような薄緑の髪。
巨大蟻から挟み撃ちをされた恐ろしい状況であるにも関わらず、にこやかな笑顔は先程までよりも非常に幼い印象を見る者に与える。
幼げな緑の少女は、まるで太陽が暖かい事を喜ぶような場違いなまでに明るい声で、鏖殺の要請を承諾した。