33話
【33】
「結果論で生きるのって苦しくないの?」
「……は?」
テオの腕の中で目を開いた少女が唐突に言った。先程までの柔らかな声音から打って変わって強い語調で話し始めた少女の様子に、テオは混乱を隠し切れずに素っ頓狂な声を上げる。
自らの体を抱きとめ、そんな間抜けな顔を晒した男を、橙に強く輝く少女の瞳が呆れたように見詰めていた。
「まあいいや。僕、別に君のお姉ちゃんじゃないしね」
言い捨てて、テオの胸を押し退けた少女が立ち上がる。肩幅に足を開き腰に手を当てた少女は、座り込んだまま状況が呑み込めないでいるテオを見下ろした。
少年のように振る舞われる足取りと裏腹に、少女の身に纏う黒いエプロンドレスの裾がふわりと揺れる。
「今回は初めに“こちら”が失礼を働いたこと、謝罪するよ。すまなかったね。僕もあれは少々馴れ馴れし過ぎだと思ったよ。ようやっと出て来てくれる気になったと思って安心してたのにさ。リリーの記憶はそんなにお気に召したのかい、全く仕方のない人だなあ」
夕暮れのような淡い赤みと深い紺色を帯びた髪を揺らして、少女が独りごちる。
前半はテオに向けて述べられた言葉だったが、後半に関してはまた別の誰かに対して宛てられた言葉のようだった。
まるで“別人になった”かのように様子の変わった少女にテオが言葉を無くしている間にも、少女は一人芝居の様に朗々と話を続ける。
「失礼ついでに愚痴を聞いて欲しいんだけどさあ、僕ここまで結構頑張ったんだぜ? ソフィアに指示して、ニーナを誤魔化して、キャロルを宥めて、マリーを抑えてさあ。アーニーめっちゃ頑張ったよ。そーんでちょっと疲れたからって昼寝して起きたら辺り真っ暗。目の前にはボッロボロに潰れた男が一人。しっかも膝枕なんてしてんの。僕、あの子がそんなに乙女チックな趣味があると思ってなかったんだけど。ああ、ごめんね? 本当に、本当に、悪い事をしたなあって思っているよ。君も驚いたろう? ハァイ! 私リリー! あなたのお姉ちゃん! よくぶん殴らなかったよね。ああ! 左腕折れてるから出来ないか! 反対側はべったべたに甘えてたしね! あっはっはっはっ!」
少女が何を言っているのかテオには半分も理解が出来なかったが、後半になるにつれ自分が小馬鹿にされている事だけは理解した。
岩壁に寄りかかったまま、大笑いする少女を睨みつける。
「お前、何なんだ」
「うわ、睨まないでよ怖い怖い。こんなか弱い乙女に向ける目じゃないって。見てよほら、こーんなに細くてちっちゃいの。守ってあげたくならないの? 庇護欲掻き立てられないの? ほーら、座り込んでても君の顔面近いんだけど」
くるくると踊るように回った少女がテオの睨みを難なく躱す。数回回って満足したのか、足を止め、ほんの少し腰を曲げて座り込んだテオと目線の高さを合わせた。
挑発するように口の端を釣り上げた少女に、テオは漏れそうになった舌打ちを堪える。
中身がどれだけ邪悪に見えても、子どもの姿形をしたものに威嚇行為をすることははばかられたのだ。
「しっかしなあ。自己紹介。自己紹介かあ。僕ら五人だけなら赤の他人だから簡単だったんだけどなあ。どうしようか。リリーって名前は駄目なんでしょう?」
べらべらと動いて閉じない少女の口が、一つ二つ前の話題に触れる。自らの薄い胸に指先を当て、首を傾げて笑う少女の夕焼けの髪がひらりと白い頬を撫で下ろした。
「んー……。こちらの様式に乗っ取ろうね。そうしようそうしよう。郷に入っては郷に従えって言うじゃない。ベルだ。ベルにしよう。ベルにしたよ。今決めた。僕が決めた。嫌だって言っても全部僕に丸投げした君が悪いんだもんねー、ベル!」
けらけらと笑いながら少女が言う。彼女の指す“君”が自分ではないことを理解したテオが、先程から場違いなまでに高まっている少女のテンションに付いて行けずに辟易する。
師匠も寝惚けるとこうだった。一人で話して一人で満足するようで、初めは話の四割も理解出来なかったものだ。テオは現実逃避を兼ねて五年前に自分を見送った師匠の姿を思い出す。
しかしこうして楽しげに話す様子を眺めているだけでは一向に何も進まない。テオは渋々と口を開いた。
「で?」
「一文字で話すのやめたら? ガラ悪いよ」
「……で、なに。お前、なんなの」
少女の様子に毒気を抜かれたテオが問い掛ける。目の前の少女がリリーを名乗り、彼女のように振る舞う事に既に興味がないと分かれば、テオにとってはそれで十分だった。
「ああ、ええと? ああ! 僕はアーニー! そちらの名前は知ってはいるけれど、形から入る事がお好みならどうか僕にもご紹介を願えないかな、一介の冒険者君」
「……テオドールだ」
「うん、うん。ここではテオと名乗っているのだったね。短くて結構。初めまして? 改めまして? 僕は君の姉である聖骸リリーを借り受けている者の一人だ。大体の行動指針を決めているのも僕。よろしくね」
じとりとした目で自分を見詰めるテオの前に左手を差し出した少女、アーニーが言う。
握手を求めていると受け取ったが、テオの左腕は先程から全く動かない。礼を失しているとは気が付きながらも、おずおずと右腕を上げたテオの手をアーニーの両手がぐんと掴んだ。
「いやあ、グレッグからは泣き虫テオドールなんて聞いていたから少々不安だったが、随分と鍛えているようで何より! 今や君の方がよっぽど彼より強いんじゃないかな? この腕なら一撃で張り倒せそうだよ! ばしーんってね!」
ぐんぐんと両手を使ってテオの腕を上下に振り回すアーニーが言った。
その言葉の中に懐かしい名前を見付けたテオが焦ったように問い掛ける。一度口を開けば、抑えきれない疑問が次から次へと溢れ出る事を止められなかった。
「ま、待ってくれ。話がよく見えない。グレッグだって? 彼もこの街に来てるのか? 君はアーニーと言ったよな、ならベルってなんだ? リリーを借りてる一人ってどういうことだ、それじゃあまるで沢山の人格がいるみたいじゃないか! いや、それよりも、さっきの、君よりもっと気弱そうな、あの子は」
「わーあ、いっぱい聞くねえ!」
「ふざけてないで答えてくれ!」
握られた右腕を捻り、アーニーの細腕を掴み返したテオが問い掛ける。もたれかかっていた岩壁から背中を離し前傾姿勢になったテオに対して、背中を反らすように身を引いたアーニーが引き攣った笑みを零した。
「話すのはいいんだけどもね、ここ別に君のお家とかじゃないよね? さっきまで寝起きテンションでぶち上がってた僕が言うのもなんなんだけれども、僕ってさ、僕達の中で一番弱いから出来れば安全な場所で仕切り直したいなあ、なんて……」
先程までの大笑いはどこへ消えたのか、アーニーと名乗った少女は途端に怯えたように辺りを見回した。
テオは今にも逃げ出しそうに腰を引かせたアーニーの腕を掴んだまま周囲を見渡す。転がしたまま放置していた鞄を、足を伸ばしてブーツの踵で引き寄せた。ナイフは未だ三本とも巨大蟻の顔面に突き刺さったままだ。
「いやね、君が僕の事を守ってくれるって言うんならそれで良いんだよ? 僕達、その為に君の所まで来たわけだし。でも、ほら? 君って今この上ないほどボッロボロじゃん? そんなんで、はちゃめちゃに弱い僕の事をちゃんと守れる? 君が肉体的損傷をものともしない魔術師タイプって言うならまだしも多分違うよね? だってグレッグの話だと、魔術が得意な人って髪と目の……」
つらつらと言葉を重ねるアーニーが、暗闇の奥から顔を出したものを見て苦い顔をする。
「うええ、来ちゃった……」
舌を出して顔を顰めたアーニーは呟いた。
反してテオは淡々としたまま、負傷した左肩をアーニーの細い腰に押し付けるようにして、その小さな体を担ぎ上げる。
立ち上がるテオと担がれたアーニーの二人組へと威嚇するように、カチカチと石を打つ様な巨大蟻の警戒音が洞穴に反響した。
「おおっと? 唐突なお米様抱っこにアーニー困惑を隠せないんだけれども」
「守れれば良いんだろう」
「おや。君は僕の弟では無いわけだけれども。それでも君は見ず知らずの他人である僕を守ろうとしてくれるのかい? こんなに体痛そうなのに」
大人しく担ぎ上げられたままのアーニーが、テオの背中に肘を付いて言った。拍子に割れるような頭痛がテオを襲うが、意識的に無視をする。右腕と口を使って鞄を開いたテオが、たった一発だけ残った中身を取り出した。
足が折れ曲がる事も伸び切る事も無く、頭を壁に擦り付ける事も無い。この数日で見飽きてしまった通常の動きをするキラーアントが、暗闇に擬態して二人に近付いて来ていた。
「お前の事はよく知らないが、その体のことは知っている。おいそれと壊されてはたまらない」
「ふうん」
踵を踏み鳴らし己の体に身体強化を施したテオが、右手の中に収まった縄を握り込む。
左腕が上がらない分、肩に乗せた少女の体を抑え込む力が足りない。首を傾けて顎を寄せる形でバランスを保ってはいるものの、激しく動けば少女の体は投げ出されてしまうだろう。
少女の体に振動を与えないよう、慎重に右手の投擲散弾を回転させる。ひゅんひゅんと風を切る音が段々と大きくなっていった。
じりじりと足だけで後退しながら、テオは眼前の巨大蟻を睨み付ける。知性の無い魔物は目の前で用意される凶器の動きに警戒したのか、直ぐに襲い来る様子はなかった。かちかちと巨大蟻の口から溢れる警戒音だけが、テオを出迎える。
本来投擲散弾は両手で投擲するものだ。体の軸を大きく動かさず、その上で片腕だけで命中させるのは至難の業である。集中できる時間は有限だが、様子見という敵の選択に救われた。
「沢山来たらどうしようか、テオ」
「走って逃げる」
「あはは、良い案だ」
アーニーの軽口に答えながら、テオは手中の凶器を投擲した。伸びる縄を腕で絡め取るようにして飛距離をコントロールし急降下を狙う。
コォオン。
巨大蟻の背中に直撃した投擲散弾が音を立てて爆ぜる。崩れ落ちた巨体を確認し、片腕での投擲が成功した事に内心で喜んだテオが口角を上げる。しかしそれが完全な笑みとなる前に、上がった口角は頬の引き攣りに紛れた。
「お前、気が付いてただろ」
「あっははは。頑張って走ってみなよ、足は無事だったんだろう?」
「……治らないから、舌噛むなよ」
「はーい」
テオの視線の向こう、坑道出口方向から三匹のキラーアントが迫って来ていた。巨大蟻が掘り進んで出来たこの道は複雑な構造をしているので、別の道を迂回して出口側へと回り込まれたようだ。
左肩に担いでいた少女の体を右腕で抱え直し、テオは三体の巨大蟻が来た方向とは逆の道、坑道のより奥へと走り出す。
テオの腕の中で、紺色を混ぜて赤らんだ夕焼け色の髪が揺れる。アーニーの橙に煌めく瞳が、何かを考え込むよう、緩やかに伏せられていた。