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錫の心臓で息をする  作者: 只野 鯨
第一章
32/144

32話

 

【32】




 額を撫でる柔らかい手の感触に呼ばれ、テオの意識は浮上した。


 地面に寝転んで冷えきった体と、固まった関節が痛みを訴える。

 頬にあたる柔らかい膝の感触と、未だに額から頬を往来する指先の冷たい温度を感じながら、テオはゆっくりと重い瞼を持ち上げた。痛む喉が掠れた声を上げる。


「……う、あ…」

「ああ、良かった。起きたのね」


 ピントの合わない視界の向こうで淡い白金の髪が揺れた。目を開いた途端に襲った酷い頭痛に、テオは投げ出していた手足を畳んで痛みをやり過ごそうと体を丸めた。

 その拍子に腹に掛けられていた見慣れたカーキ色の上着がずり落ちて地面へと落ちる。嫌に綺麗になってはいるが、先日路地裏でテオが布を被った少女に渡した物だった。


 左腕の感覚があいまいで、痺れと鈍痛が時折思い出したようにその存在を主張する。反対の右腕を曲げた拍子に触れた柔らかな布に無意識に縋り付いた。荒い息で苦しむ声を上げるテオの頬を、優しく撫でた小さな手の主が囁くように吐息を零した。


「ごめんなさい。こんな怪我をさせるつもりはなかったの」


 頭の上から落ちてくる少女の柔らかな声が、小さくテオに謝罪した。

 聞き覚えのある声だ。懐かしいような、暖かいような、しかしどこまでも他人事のように軽やかな声だと、テオは朦朧とした意識の中で感じ取る。


 呆然としたまま目覚めない意識で、テオは縋り着いた布、恐らく少女の腹である部分に顔を擦り付けた。ただ襲い来る痛みを紛らわせるために、傍にあった物を抱え込みたかった。

 割れるように頭が痛い。左腕が痺れて持ち上がらない。何かを考えて行動ができるほど働くことを脳が拒否する。


「まだ眠たいの?」


 するりと少女の冷たい手がテオの前髪を梳いた。宥めるように頭を撫でられたことに心地良さを感じる前に、傷付いた頭部を刺激されたことによる痛みがテオの微睡みを邪魔する。


「……う、ぐ。痛い、から……それ、やめてくれ…」


 愚図る子どものように手を払ったテオが言う。霞んだ視界が治らず、いつまでも不明瞭な意識が回復することを拒んでいた。ぐらぐらと回る視界に酔い、テオは抱えるように頭を抑える。


「ご、ごめんなさい。そうだよね。痛いよね。泣かないで、泣かないでねテオドール」


 暫く大人しく横になっていた事で段々と明確になってきた聴覚で、テオは自分に告げられた言葉を聞いた。

 確かに身体中が痛むが、だからと言って泣き喚くほどテオは子どもではない。それなのに、この声の少女は今にもテオが痛みのあまり泣き出すと疑ってもいないようだった。


 割れるように痛む頭を宥めつつ、テオは無理矢理に身体強化の術式を自身に対して展開した。強く体を打ち付けたダメージによる視界のぼやけた眩みが無くなっていく。


 やがてテオは自らが置かれた状態を理解した。左腕は半ばで骨が折れたらしく、肘と手首の間がひしゃげて曲がっている。打ち付けた頭からは血が流れ、倒れたテオに膝を貸していた少女のエプロンドレスを汚していた。

 寝転んだ足を伸ばせばぶつかるような距離には、テオが仕留めた巨大蟻の死体が放置されている。テオが気を失った地点から移動していないようだった。投げ出した鞄も手の届く場所に寄せてある。


 定まらないテオの視線が、地面に座り込む少女の膝から胸へ、そして顔までを順に確認した。巨大蟻の攻撃で昏倒したテオを華奢な膝枕で休ませていた少女の顔を認識した瞬間、テオは引き攣るように息を飲んだ。


 母親似の細く長い白金の髪。いつだって前を見据えていた同色の色素の薄い瞳。小さな手は柔らかく、今のテオが力を込めて握ってしまえば折れそうな程にか細い。二人が立って並べばテオの腹に頭を埋める程の小さな背丈は、少女が少し遅い成長期を迎えられずに命を終わらせてしまったことを示していた。

 身に纏う黒いエプロンドレスに見覚えはない。しかし肩を覆っている青い布は大分汚れているが、既視感があった。寝台に寝かされる彼女が最後に包まれていたものと同じ物だろう。


 十数年前の夜のまま時間が止まり、聖骸に伏した少女。あの日のテオに残されていた唯一の家族。

 巨大蟻の死体が転がる暗闇の中に座り込んでいたのは、あの日と変わらない姿のリリーだった。


「……あ、…そん、な……」

「どうしたの? テオドール」


 心配したように眉を寄せ、テオの顔を覗き込む少女の姿は、怪我をした幼い弟を心配した記憶の中の姉の姿そのものだった。

 再度霞み始める視界は痛みの為か、それとも戻らないで欲しかったその姿を認めてしまったからなのか。ひび割れた胸から抑えきれなかった名前がテオの口から溢れ出る。


「……リ、リー…?」

「なあに? テオドール」


 溶けるように地面に懐いていた体を叱責して、テオが上半身を起こす。リリーと呼ばれた少女は蕩けるように目元を垂れて、未だ呆然とするテオに向けて微笑んだ。


「あ、ちが、ちがう、ちが、う」


 リリーの姿をした少女から少しでも離れようと、かちかちと鳴る歯を抑えきれないテオは、立ち上がれない体のまま地面の上を後ずさった。

 力の入らない腕が土の上を滑って肘を打ち付けた。それでもなお震える足で岩を蹴り、テオはその背中が岩壁に着いたと気が付くまで、目の前の少女から逃げ続けた。

 ひうひうと喉が悲鳴を上げる。過剰に取り込んだ酸素がテオの脳内に白い覆いをかけ始める。全ての音が遠く感じられ、思考が段々と空回りを始めていた。


「ど、どうしたの、テオドール。大丈夫?」


 自分から離れて行き、最後には壁に頭を打って止まったテオを見て、不思議そうにしていた少女が声を上げて立ち上がる。少女は心配したように、その小さな手をテオに向けて伸ばした。

 うろうろと揺れ動く虚ろな目で少女を見つめていたテオが、陸で溺れた魚のように嗚咽の合間に言葉を吐く。


「……あ、ああ? 間に合わ、な…かった? 手遅れ? も、もう? ……まだ、…まだあれから……何も、進んでない…のに……なんで、なんで」


 背中を丸めてぶつぶつと呟くテオの様子に、少女は怯んだように立ち止まる。伸ばされた細い手が宙に浮いて、行き場もなく垂れ下がった。

 そんな少女の様子に気付く事なく、テオは割れた傷口を開くように頭を掻き毟る。


「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。なんで、なんでこんなに直ぐ、どうして」

「だ、駄目よ。傷が開いてしまう!」


 その自傷行為を止めようと再度手を伸ばした少女だったが、それに気が付いたテオが怯えるようにその指先から頭を遠ざけた。

 唐突な少女の動きに反応したことで、丸めた背中が元に戻り、俯けていたテオの顔が持ち上がる。恐怖とも混乱ともつかない感情に見開かれたテオの灰色の瞳が、姉によく似た少女の姿を捉えた。テオの荒れた唇がわなわなと震え、堪えられなかった言葉を落とす。


「……どうして。こんな、こんなことって」


 こんなことってない。そう言いかけて、テオは言葉の続きを飲み込んだ。

 続くはずだったその言葉を、テオはごく最近耳にしている。昨日巨大蟻の巣を見つけた後、ルーカスが何度も言っていたあの言葉だ。相手の主張を認めたがらなかったテオの幼稚な意地が、同じ言葉を吐き出す事を拒絶する。けれど、腹までは飲み込みきれなかった言葉に、喉が裂ける様に痛みを訴えた。


 リリーを亡くしてからずっと、テオは種を破壊するためだけに生きてきた。種を破壊すれば神が転生者を招き入れる理由は無くなり、聖骸となった人間は二度と目覚める事の無い、何の変哲も無い死体に戻る。

 そうして初めて、リリーの体は聖骸としての意味を失い、世界を守るという大義名分を失った少女の死は痛ましい昔話として成り立つ事が出来るだろう。


 それは少女の意味ある死が無駄になっただけだと罵る者もいるかもしれない。しかしテオが求めたのは、望んだ所でもう叶わないリリーの生きる未来ではなかった。テオがせめて取り戻したいと願ったのは、リリーが人間として生きたという事を認めさせる為の尊厳だ。

 道具の様に取り上げたその命が、他と何も変わり無い、たった一人の少女の心であった事を知って欲しい。


 その心臓を止めた事を責められなくとも。その亡骸の上に十字架と脚光を当てるのでは無く、棺に土をかけて、名前の刻まれた墓石を立てる事を許して欲しいだけだった。


 だから、ずっと。

 リリーという名前の少女が、転生者と言う彼女以外の何者かに代わられる事を恐れていた。種の破壊が叶ったとしても、そこにはリリーの死が必要な事だったと讃えられる様ならば、その勝利はテオにとって何の意味も無い。

 彼女の死が、彼女ではない何者かの栄光の影にあってはならない。死を死として悲しんで貰えないのならば、テオはその栄光を砕く事すら厭わないだろう。


 けれどそれは同時に、テオにとっての失敗も意味している。結局世界は変わらず種に侵食され続け、リリーの死は今まで種に挑んだ数多の転生者の敗北に並べられる。それは確かに転生者と言う人間の死を悲しむものかもしれない。けれどそこに、やはりリリーの居場所はないのだろう。


 だから。だからこそ。

 テオは自分の手で種を破壊しなければならなかった。聖骸なんて数が無くとも、人間の手で出来た事なのだと突きつけたかった。全ては、聖骸リリーが転生者を受け入れて、新たな命となる前に終わらせなければならなかった。


 だと言うのに。

 目の前の白金の髪をした少女がまるで死神のように、テオの敗北を突き付けている。

 人類が勝利し種を破壊せしめても。転生者が敗北し種の前にその身を伏しても。既にもう、テオの望んだ未来が訪れる可能性は潰えてしまった。


 聖骸セオドアの権能を目の当たりにして、その力が振るわれる未来を望んでしまったあの日の自分が思い出される。そんなテオが、果たして聖骸リリーに宿った転生者の力に同じ希望を抱かずに済むのだろうか。


 それは無理だと、テオは自分自身でも理解出来てしまっていた。


「起きた、起きてしまった、ことに、何を言っても、思って、も、意味、ない、何にも、ならない」


 過呼吸の様に繰り返される吐息の合間にテオが呟く。それは、師に、兄弟子に、何度となく教えこまれた事だった。

 テオの心が折れかけた時に思い出すその言葉が、ただ不満を抱えて文句を垂れるだけの自分の体を行動にまで漕ぎ着けた。認め難い事を認めなくとも、手足を振るうだけの動力をテオに齎してきた。


 例え望んだ未来を掴むことが出来なくとも。

 テオは生きている。生きていかなければならない。ならば今、必要なのは新たな指針だ。


 岩壁に体を寄せて指先に自らの血を付けたテオが引き攣るように乾いた笑いを零す。声とは反対に、泣きそうに歪められた顔に拳を擦り付けるテオの様子を、立ち竦む少女は悲痛な表情を浮かべ、ただ黙って見詰めていた。


「は、はは、は、ははは、は。駄目だ。これは、認めない、と。だめ、だめだ、戻らない、変わらない、こと、だから」


 血の流れる頭を押さえつけて蹲るテオの姿に、少女はその細い腕を胸元へと畳んだ。震える吐息を吐き出し、はくはくと唇を動かすも、小さなその口から言葉が溢れることは無い。


「進め、ないと、いけない。次に、進まないと」


 軋むように痛む左腕を無視したテオが、血で滑る拳を強く握り締めた。しかし、そこまで呟いた所でテオの動きがひたりと止まる。


「……次、次、つぎ? 次って、何だ」


 呆然と零される言葉に、テオは首を傾げた。その様子がまるで首の折れた人形の様に思えた少女が、テオに向けて近付きかけていた足を後退る様に引く。


「テ、テオドール?」


 先程まで込められていた筈の親しみが、困惑に上書きされた少女の声。その微かに震えた高い音に誘われるように、テオはゆっくりと泥と血に汚れた顔を上げた。


「……誰だ、お前」


 低く突き放すようなテオの声が土と岩の地面に転がる。少女の顔が困惑から恐怖に変わった。


「リ、リリーだよ。テオドールもさっきそう呼んでくれたじゃない」

「リリーは死んでる。もう戻らない。お前は違う人間だ。別のなにかだ。リリーじゃない。何になったつもりなんだ、転生者」


 浅く繰り返していた呼吸から唐突に抜け出したテオの声が響く。つい先程まで動揺に溺れていたとは思えないほど、別人の様に淡々とした姿だった。


「テ、テオドール、待って、お願い。わた、私、リリーよ」

「俺は確かにテオドールだが、お前の名前はリリーじゃない。成りすまそうとするな。その振る舞いをやめてくれよ転生者。お前は俺の姉じゃないし、俺はお前の弟じゃないだろ。なあ、難しいこと言ってるか? 自己紹介しろって言ってるんだよ、なあ」


 親しみを込めたように名前を呼ぶ姿が忌々しい。深くなった吐息の合間に怒りを隠しきれなかったテオが、縋るように近付こうとした少女に対してその怒気を隠しきれずに撒き散らした。


「わた、私、わたし、ちがう、ご、ごめんなさ、あ、う、うあ」


 ほろほろと瞳から大粒の涙を零した少女が胸を押さえ込んで俯いた。嗚咽を堪えるように揺れ動く細い体をくの字に曲げて顔を隠す。

 やがて涙する少女の体が、傾きを抑えられなかった様に、座り込んだままのテオに向けて倒れ込んだ。


「……お、おい!」


 眼前の少女の様子に気が付いたテオが慌てて、倒れる少女の体を受け止める。無事に動く右腕一本に収まる華奢な体に、テオは思わず息を飲んだ。


「どう、したんだ。何があった。起きてくれ、なあ。おい、大丈夫か。おい」


 テオは自らの腕の中で力なく横たわる少女を揺さぶって声を掛ける。くたりと四肢から力を抜いた少女の瞳が突如として割れるように開いた。


「あ、あー、ひっどい気分」


 勝気と言うには皮肉に寄り、気弱と言うには嘲りを含んだ笑みが、少女の顔に貼り付けられる。

 橙に強く輝く瞳が、夕暮れのように紺と混ざった淡い赤みを帯びた髪の間でくるりと揺れた。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 毎話楽しみにしています [気になる点] 顔を見ずにカーキ色の上着を与えた少女が実はリリーの聖骸であったという事が判りづらいかも 腹に掛けられた上着の説明にテオの与えた物という説明付けた方が…
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