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錫の心臓で息をする  作者: 只野 鯨
第一章
31/144

31話

 

【31】




 落下するような感覚だった。

 体の痛みも、眩む意識も、感覚の全てを水の中に落としたかの様な浮遊感に包まれる。


 ここ数日続いた夢に近い感覚だと、テオはぼんやりと自覚した。無意識の内に見る映像。これは記憶だ。


 夜の帳が降りた雨の森で、荒い息を殺すテオドールが蹲っている。服を泥に汚し、膝や手に擦り傷を作り、怒りと悲しみに顔を歪めて涙を流していた。


 リリーが亡くなりその体が寝台に保管された後、テオドールは一人で教会から逃亡した。延焼しないよう絨毯に水を撒き、聖堂に飾られた火の灯った古臭い燭台を机からたたき落とす。たったそれだけで良かった。たったそれだけで、聖骸を守ろうとしたシスター達は必死に消火に専念し、逃げ去るテオドールに気が付く事はなかった。


 知り合いの少ないテオドールには、一歩でも教会の外に出れば、頼れる場所はグレッグしかなくなる。故に自分がいなくなった事に気が付けば、シスター達も真っ先に彼の家を探すだろうと踏んだテオドールは、グレッグの家とは反対の方向に逃げ去った。


 初めて踏み入れる森の中、逃げ仰せたテオドールはたった一人になった途端に獲得し得た自由に涙した。テオドールが本当に望んでいたものは、これではなかった。残ったのは自分一人である。その事実だけで全ての意味が掻き消えた。


「あんなこと、許すもんか! 許されるもんか!」


 握りしめた拳を水溜まりに叩きつけ、底に沈んだ小石で手を切っても、テオドールの慟哭は止まる事は無い。

 小さな手を打ち付けた泥水に血の赤が滲み、降る雨が波紋を広げてその赤を散らした。


「罰が下ればいい! あいつらだって失えばいい! 神様が下さないなら、僕が! 僕が! 全部!」


 蹲って髪を掻き毟るテオドールが、叩き付けるように地面に額を擦り付ける。指や爪に巻き込まれて頭髪が抜け落ちようが、擦り付けた地面に皮膚が裂かれようが、テオドールにはもうどうでもよかった。


 小さな体に降り注ぐ雨が徐々に体温を奪っていった。冷えきった体の感覚が薄くなっていく事を理解していても、今のテオドールには溢れ出た感情を殺す術が分からない。


「随分な様子だね、少年よ」


 その掠れきった女性の声は、テオドールのすぐ側から掛けられた。もしやシスターが追って来たのかと弾けるように顔を上げたテオドールの瞳に、夜の暗がりに紛れて、女の焼け爛れた顔が映り込む。


「憎いものが出来たのかな。悲しいことが起きたのかな。怒っているのかな。苦しんでいるのかな。分かり合えなかったのかな。分かって貰えなかったのかな」


 それは顔の左半分に火傷を負った女だった。体全体を包むように大きな外套を纏っている。そのオーバーサイズの外套が、風に煽られた拍子にその裾が舞い上がった。


 風で覗いた左足は膝上から下が無い。木製の義足と残った右足が女の体を支えていた。両腕も左足と同じらしく、二の腕下で結んだ空の袖がひらひらと不自然に揺れている。

 月明かりで青みがかった濃灰色の髪が女の頭上で風に揺れていた。歳は三十を超えた頃だろうか。嫌に深く刻まれた目元の深い皺と割れた唇が痛々しい。


「う、あ。なに、あなた、誰、シスター? 教会の、ひと?」

「誰か。そうか。お前の怒りは四肢の削れた女程度に眩むものなのかい。それとも相手を選んで巻き散らせるだけの理性を気取るつもりかな」

「なに、言ってるの。答えて、答えてよ。あなた誰、教会から来たの? ねえ、ねえ」


 テオドールは目の前の不審な女にばれないよう、手を着いた水溜まりの底から、自らの手を切り裂いた小石を握り込んだ。いつでもそれを振るえる様に、小さい体を固めて身構える。


 テオドールは、もしも目の前の女が自分を教会へ連れ帰ろうと言うのなら、その焼けた喉元を手にした石で切り裂く事に躊躇するつもりはなかった。


「教会ね。教会。確かに私はそこで目覚めたが、しかしそれが何だって言うんだい。目が覚めた場所に私の正体があったとでも。あそこにしか私の意味はなかったとでも」

「教会から来たの? あなたもシスターと同じなの?」

「……あ、ああ? シスター? シスターではないよ。彼らとは袂を分けたつもりだ。これだけ欠けきった体に彼らが好意を寄せられるものか」


 そう言って女は先のない腕を振るって見せた。はらはらと余った袖が風に靡く。降りしきる雨が泥を跳ね、木製の足を斑に汚していた。


「して、少年。今の答えを聞いて、その石で私の首を搔き切る気は失せたかい」


 見透かした女の言葉にテオドールは息を飲む。水溜まりに浸したままの手を動かさず、じりじりと握りを調整した。

 火傷の女が自分を教会に突き出さないのなら、女を害す理由はテオドールには無い。けれど、それ以上に目の前の女が相対したテオドールに与えた、言い知れない雰囲気の重圧に気圧されていた。

 怯えたように後ずさるテオドールに、火傷の女が溜息を吐く。


「駄目だね、これは。まだ混乱しているのか。よく考えてみれば、雨に、風に、夜に、薄着に、子どもの体。もしや少年、体が冷えてしまったのでは無いかな? 私にはもう分からないのだけれど、それではきっと寒いだろうに」


 一方的に捲し立てた女が、器用にも短い腕で外套を脱ぎ捨てた。一度地に落ちたそれを、木の足で拾い上げ、今も尚地面にしゃがみこんだテオドールに蹴り渡す。

 子どもの体にはあまりに大きいその外套を受け取ったテオドールが、困惑にしたように火傷の女を見上げた。受け取った外套には温もりの欠片もなく、ワードローブから出したてのコートの様な無機質さがあった。


「な、なに」

「私に体温はないし、それは本来必要ない。暫く君に預けよう。そして体が温まったら話をしないか。私は君の話を聞いてみたいし、君に私の話を聞いて欲しいとも思っている」


 そう言って、女はしゃがみこんだままのテオドールの傍に座り込んだ。雨が降り注いだ地面はぬかるみ、跳ねて染みた泥が衣服を汚すが、女が気にした様子はない。


 おずおずと受け取った外套で身を包んだテオドールは、思っていた以上に触り心地の良い生地の裏地に驚いた。少なくとも泥の地面に落とし、足で蹴り渡していいような代物では無いはずだ。

 外套を纏ったテオドールは、柔らかなその布に体を埋める。体温を奪っていた寒風は遮られ、布面に反射した自らの微かな体温が内部にこもり、冷えきったテオドールの体に温もりを取り戻させた。


「私は見ての通り不便な体をしていてね、今は新しい手足を探している最中だ。一般では弟子と呼ばれるものだがね。君は何か探している物はあるのかな」

「……僕は、なくなってしまった。もう、どこにもないんだ」

「そうか。それは悲しかったね」


 女の返答は、何を理解した言葉でもなかったのだろう。それでも、確かにテオドールの心を肯定したその言葉に、疲れきった子どもの瞳が見開かれる。


「かな、し、かった、いまも、かなしい」

「そうか」

「たぶん、ずっと、かなしいのに」

「ああ」


 テオドールの言葉に嗚咽が混じる。体を覆う外套を握りしめて、抑えきれない涙が頬の上で雨に混ぜ込んで流れた。

 体を丸め込むテオドールの背中を、女の千切れた腕が撫で下ろす。肘から先が無い分自然と近くなったことで感じた女の吐息に、テオドールは押さえ込んでいた感情を爆発させた。


「リリーがいなくなったこと、喜ばないで欲しいだけなんだ! それなのに、シスター達は笑ってた! それが何より嫌で、許せない!」

「うん、そうか」

「聖骸ってなんなの? どうしてリリーがやらなくちゃいけなかったの? 喜ばしくて、栄誉で、誇りだって言うんなら、自分達だけでやればいいんだ。それともリリーが必要だったの? リリーじゃなきゃ駄目だったの? そうじゃないなら、なんで、なんで、どうして」

「聖骸か。そうか。教会というのは。いや、リリーというのは君のお友達かな?」


 初めて意味のある相槌を返した火傷の女が、雨音に言葉を遮られないようテオドールの耳に口元を寄せて問いかけた。


「孤児院にいたんだ、僕たち。リリーは僕のお姉ちゃん。最後の家族だったのに」

「そうか。聖骸にさせられたか」


 女の言葉にテオドールは声もなく頷いた。否定しようがない事実だった。嗚咽に塗れて言葉の続きが出てこないテオドールに変わり、次に口を開いたのは火傷の女だった。


「実はね、私も聖骸なんだよ」


 その言葉に驚愕したテオドールは、ゆるゆると顔を上げた。吐露した感情に理解を示されたことにより開きかけていた幼い心が、凍り付くように停止する。


「な、なに」

「正確には聖骸を使って目覚めた転生者だ。わかるかな。君がどこまで教えられたか知らないからね。意味は通じているのかな」

「わか、る」


 淡々と告げられる掠れた女の声に、絞り出すようにテオドールは答えた。


「では続けよう。私は転生者で、聖骸の体を借り受けている。その上で酷なことを言うが、私たち転生者が聖骸を選んでいるという事実は存在しない。私達は押し込められた体を勝手に乗り回しているだけだ。故に聖骸が君の姉、リリーでなければならなかった理由など、どこにもない」


 容赦なく告げられる言葉に、テオドールは絶句する。女の言葉は慰めなどではない。ただ事実を事実として突きつけるだけの声だ。


「そしてね。聖骸の記憶は確かに私達転生者に引き継がれる。けれどそれは閲覧可能な記録が常に脳の中に置かれるに過ぎない。彼らの意識は聖骸になった瞬間に途切れ、私達聖骸の使用者に引き継がれる事は無いのさ。つまり、彼らは正しく、聖骸になった瞬間に死亡しているんだよ」


 女の掠れた声が告げる。そんなことは知っているとテオドールは叫びたかった。リリーは死んだ。だからこそ、今の自分は悲しくて仕方がないのだ。


「故に、今後リリーの体が転生者によって目覚める事があろうとも、それはリリーの意思ではない。だからリリーの死により、君が感じた悲しみは真っ当なものだと私は思うよ。リリーの体が何を成そうと、それはリリーの心ではない。リリーの魂はもう死んで眠りについた。二度と目覚めることは無いだろう」

「わかってる! そんなの、もうわかってるよ!」


 背中を丸めたテオドールが大声を上げる。叫んだ事で空になった肺が、酸素を求めて息を吸い込み、滴る雨粒が気管に入って大きくむせた。


「……っげほ、ご、ひ…うう、リリーは……リリーは、もう」

「けれども。けれどもね」


 俯いたテオドールの顔を、掠れた声の女がち切れた腕で持ち上げる。肩口から三十センチと離れない腕先でテオドールの涙を拭った女は、にこりともせず言葉を続けた。


「君が生の定義として許容する範囲を譲歩するならば、リリーは生き返るよ」


 ぜいぜいと軋む音を立てる喉をそのままに、テオドールは火傷に沈んだ濃灰色の女の目を見つめる。その目を逸らすことなど、もう出来やしなかった。


「同じ顔で、同じ声で、同じ眼差しで。ただその体を動かすことを蘇生だと言えるならば、リリーは生き返れる。私のようにね」


 段々と短くなるテオドールの呼吸を落ち着けるよう、淡々と話す火傷の女が抱き締めるように小さな背中を擦る。けれど宥めるその腕と反して、言葉を垂れ流す口が閉じられることは無かった。


「それが許せるのなら、君は何をしなくたっていい。飯を食って、寝て、起きて。ただ呼吸を繰り返して、生きて待つだけでいい。そうすればいつか来るどこぞの転生者が、リリーの体を使ってくれるさ」


 囁きのような言葉だった。けれど降りしきる雨の音にも負けない程に、怒りを帯びたような力強い声だった。


「君は、そんなリリーでも受け入れられるかい?」


 問い掛けが、テオドールの頭上から降り注ぐ。


 同じ記憶を持っていても、同じ姿をしていても、それは別の人間だとテオドールは思う。リリーの体を使うその人が、例え花を見て楽しかったと笑ったとしても。それは、その時その人の感じた心であり、リリーの心が求めたものに辿り着いた訳では無い。

 同じ事を目指して、同じ事を求めて、同じ事を成し遂げたとしても。その過程をリリーが知る事は無い。苦悩も喜びも、もう二度と彼女に降り注ぐ事は無い。

 テオドールが求めたのは、外見ではなかった。あの優しい人の心が救われなかった事が、何よりも認められなかった。


 それならば、中身の違うリリーを慕うことは出来ない。


「ちが、う、それは、リリーじゃない」

「ああ、そうだね」


 テオドールの否定に、女は満足したように笑った。火傷で引きつった口元が痙攣する。


「もし君の怒りが、苦しみの理由が。二度と戻らないはずの姉の死に歓喜される事であるならば。戻らない心など無かったように振る舞われることであるならば」


 暴れる心臓を宥めるように胸を抑えて蹲るテオドールの耳元に、そっと口を寄せた女が呟く。


「私を手伝ってくれ、少年。私の目的は種を破壊すること。それを成すことが出来れば、もう二度と、聖骸が目を覚ますことはなくなる。原因さえ無くなれば、望まない結果が齎される事は無い」


 女の言葉に、テオドールは顔を上げた。降り注ぐ雨が開いた眼球に伝おうとも、テオドールの瞳が閉じられることは無い。

 強く、強く。爛々と輝いたテオドールの瞳が火傷の女を睨めていた。


「そうすれば、リリーはリリーのままいられるの? そうすれば、リリーが死んだこと、もう誰も喜ばないの?」

「ああ、誰も“喜べなくなる”。リリーはただ死んでしまっただけの女の子になれる。リリーはリリーのまま死んでいられる。讃えられることなく。悲しみすら捧げられて」


 女の言葉を耳にしたテオドールが、その手を女に伸ばした。握りこんでいた石が地面に落ちて跳ね、傷付いた手のひらから滴り落ちた血液が水溜まりを汚した。


「僕、やる。あなたを、手伝う」


 女の結ばれた袖にしがみつき、テオドールが答える。その様を見て、雨に濡れた濃灰色の髪を垂らした女が満足そうに笑った。


「そうか。良かった。新たな弟子よ。お前の師に名前を聞かせておくれな」

「テオドールです、先生」

「そうか、テオドール。神の贈り物。君がそうあってくれることを、私も共に願ってみようか」


 木製の足を付いて器用に立ち上がる女がテオドールを見下ろす。手放されることない袖を引いて、女は座り込んだテオドールを地面から引き上げた。立ち上がったテオドールが腕のない女を見上げる。


「生き急ぎなさい、テオドール。リリーがリリーのまま、いつまでも眠っていられるよう。その時まで間に合うように」


 夜の暗がりが、二人の姿を森の中に紛れさせた。大きな外套が地面に垂れる。


 その晩、雨が降り止む事は無かった。




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