30話
【30】
坑道内の梁が所々に残る浅い範囲には、巨大蟻の気配は無かった。
あれ程強烈に響いた警戒音は鳴りを潜め、静寂が辺りを包む。足元でブーツの靴底が砂利を踏んだ足音だけがテオの耳に入っていた。
手の中の縄を握り締め、テオは強化した感覚器を頼りに歩を進める。
そうして夜間巡回の範囲を抜け、ルーカスとテオが口論をした横穴へと通じる一人で調査をした細い通路の入口下にまで辿り着いた頃だった。
がつん、と突如何か固いものが岩を打つ様な打撃音がテオの耳に飛び込んだ。
「……ッ」
まだ遠い。けれど確かに、何者かが暴れのたうち回っている様な音が連続して響く。驚愕に引き攣った喉を鳴らしたテオの頬に冷や汗が伝った。
音が収まったことを確認して、テオが再度歩みを進める。十分ほど進むと、再度テオの耳が物音を捉えた。ずりずりと、何か重たい物を引き摺るような音だ。
「……、すう」
短く息を吸ってテオは手の中の投擲散弾を加速させる。テオの目には音の発生源、その正体が見えていた。
六脚ある足の内、中央二脚が在らぬ方向にねじ曲がった巨大蟻の姿だ。足りない脚ではその巨体を支えきれないのか、それとも別の原因があるのか。腹や胸、顎すらも地面に擦りながらテオのいる方向へと進んでいる。
いつも絶え間なく辺りを探っていた頭の触覚は、どこかにぶつけて来たようで途中で潰れて折れ曲がっている。
たった一匹、手負いのキラーアントだ。しかしその異様な姿にテオの警戒は強くなる。
「……ふッ」
ひゅんひゅん、という音を立てて加速しきった投擲散弾を、テオは迷うことなく巨大蟻の頭に叩き込んだ。
破裂音を立てて射出された石の礫が、巨大蟻の頭を破壊する。ひくひくと数度痙攣した巨大蟻であったが、すぐにその体は動かなくなった。
「何が起きてるんだ」
次弾を取り出しながらテオが呟く。死した巨大蟻は、傍に近寄って確認すればするほどに異様な姿に感じられた。
「この傷、牙や爪じゃない」
倒れた巨大蟻の体には、地面を擦ったことによる擦り傷はあれど、爪のような固いものに掻かれた跡も、牙に噛み付かれたような窪みも存在しなかった。
捻れた中央二脚を確認しようとテオがその体に手を伸ばした時だった。今しがた倒した巨大蟻が来た方向から、新たな気配を感じ取る。
がつがつと右手の壁に体擦り付けながら近付く音に、テオは倒れた巨大蟻の体を盾にするよう位置取りながら、手にした投擲散弾を加速させた。
「……ふッ!」
現れたのは壁に顔面を押し付けながら進む巨大蟻だった。触覚は千切れ、目玉は潰れている。その胴部に叩き込んだ投擲散弾が硬い腹部を食い千切り、不気味な行進を停止させた。
「くそッ、なんなんだ!」
新たに投擲散弾を取り出したテオが悪態を吐く。壁に顔を潰しながら突撃して来た巨大蟻の後ろに、同じように進む二匹の巨大蟻が迫っていた。
一匹は先程と同じく右手から来ているが、もう一匹は反対の左手から迫っている。このまま直進するようであれば、右手の巨大蟻は先程殺した同胞の死体に突っ込むだろう。殺すならばテオまでの直通ルートが開いている左からだ。
どちらの巨大蟻も壁に速度を殺されている為か、テオの元に辿り着くまで幸いにも時間はあるようだった。
「ふッ!」
振り下ろした投擲散弾が左手の巨大蟻を絶命させる。決して広くない道幅で前と横を巨大蟻の死体で塞がれた右手の一匹が、迂回しきれず二つの死体に頭から突っ込んだ。
テオは素早く腰のナイフを引き抜き、倒れた巨大蟻の死体を足場にして飛び上がる。投擲散弾は既に残り一発。残った巨大蟻が足を止め身動きが取れなくなった事を考慮して、テオはその一発の温存を選んだ。
「このッ!」
藻掻く巨大蟻の背中に飛び乗ったテオが、手にしたナイフを巨大蟻の目玉へと突き刺した。引き抜くことなく、ナイフの柄から素早く手を離す。
痛みに暴れる巨大蟻が上半身を逸らした勢いを利用して、テオは巨大蟻の背中に自らの胸を着けるように体を捻じった。足場にした巨大蟻の前二脚の根元を掴み、反り上がった頭側に足を伸ばす。魔術により強化された筋力が曲芸に近いその動きを可能にさせた。
「大人しくしてろッ!」
腹筋を利用して、浮いた爪先でナイフの柄を蹴り入れる。捩じ込まれたナイフが巨大蟻の脳へと突き刺さった。
痙攣と共に重力に引かれ、うつ伏せに倒れる巨大蟻から飛び降りたテオは、ナイフの刺さり込んだ眼孔に手を突っ込んだ。ぐちぐちとした潰れた目玉の温度と感触を指先に得ながらも、手探りでナイフの柄を掴んだテオは力任せに腕を引き抜く。
「……、っは、……まだ、来るのか」
上着の裾でナイフに付着した体液を拭い取りながら、更なる新手の気配を感じたテオが吐き捨てるように呟いた。
あまりにも異常なキラーアントの行進に、テオは言い知れぬ恐怖を感じ始めていた。
体を壊しながら、痛覚など知らないとでも言いたげなまでに自壊を顧みない巨大蟻の突撃は、まるで生きた命に群がるアンデットのようだ。
しかし今しがた眼孔へ手を突っ込んだ際に感じた体温を考えると、この巨大蟻はテオがその命を刈り取るまで、確かに生きていた。
生きた魔物は人を食う。ここでテオが足止めしきれなければ、ホゾキが話していたように鉱山から溢れた巨大蟻が、城壁に気を取られ無防備になった街を後方から襲うだろう。
朝方テオを見送ったアイザックの顔と、昨日巣を覗いた際に見た食い散らかされた少年の姿が重なり合い、テオの脳裏を過ぎった。巨大蟻が街に溢れて危険に晒される人間の中には、あの宿の小さな少年の命も含まれる。
唯一残った出入口を塞ぐという手は確かにある。実際テオは危険に陥った際にはそうする事を条件にホゾキから偵察を引き受けた。しかし、城壁防衛の戦いに参加したテオの経験が閉鎖の判断を遠ざけている。
壊れた壁の補修材料も、魔物の群れに射出される岩石も、兵士や冒険者が使う武具防具の鉄も。多くの資源がこの鉱山から産出される。依頼主が夜間巡回の費用を出し渋ったのは、鉱山再開に直結する昼の調査隊に対する報酬を奮発したからだ。
現に、討伐ではなく調査という名目であるにも関わらず常に三つのパーティを雇い入れている。あそこまで大規模な巣でなければ、本来そのまま討伐隊に移行できた人数だ。
それ故に、テオは口で言ったほど容易には出入口の封鎖に踏み切れなかった。ナイフの柄を握り込み、戦闘続行を覚悟する。
次に現れた巨大蟻は、今しがた倒した三匹と比べれば幾分もまともに見えた。六脚全てを使って体を持ち上げ、壁にぶつかることも無く構えるテオの元へ歩いて来る。
しかし決して通常の巨大蟻と同じだとは言えなかった。長い脚をびんと伸ばし、丸い胴体を高く持ち上げ過ぎている。起き上がり小法師のようにふらふらと進んで来る様子は、不気味と言って差し支えない。
その不気味な姿の巨大蟻へと向けて、テオは握ったナイフを構えた。甲殻で守られていない眼球に捩じ込めば、全長の短いナイフでも脳の破壊を狙えることは先程の戦闘で証明された。しかし顔面への投擲を狙うとしても、これでは些か位置が高い。
巨大蟻の異様な足によって持ち上げられた頭を低くさせなければ、目玉にナイフが収まったとしても蹴り入れた際に脳まで届く角度にはならないだろう。
「でかぶつめ」
吐き捨てるように呟いたテオは、大きく右脚を踏み込む。身体強化の施された脚は、巨大蟻の脇までテオの体を軽々と飛ばした。
伸ばし切った脚の関節を狙うことは容易い。テオが飛び込んだ勢いを殺さずにナイフを横薙ぎにするだけで、簡単に巨大蟻の二本の脚は断ち切れた。
元々がふらつきを抑えられないほど不安定な姿勢だ。片側の二脚を失えばキラーアントはその巨大な体を支えきれずに体勢を崩すだろう。そう踏んでいたテオの背中に、強い衝撃と共に鈍い痛みが走った。
「…か……、はッ…!?」
肺の空気が衝撃により圧迫されて吐き出され、直撃した右肩後ろ部分の骨がみしりと軋む。テオは咄嗟に衝撃を受け流すよう、背中を丸めて地面に転がった。
素早く体勢を整え、攻撃の出処を探る。とうやら脚を切り飛ばされた巨大蟻が倒れ込む勢いを利用して、その雫型の頭をテオの背中へと叩き込んだ様だった。
あの巨体からの体当たりを食らえば、角度が悪いと脱臼していた可能性もあった。咄嗟に衝撃を殺した事が功を奏したようだ。両腕はまだ十分に動かせる。
「……っ、背中はやめてくれよ」
辛うじて攻撃に当たらなかった鞄を庇いながらテオが言う。背負った鞄にはまだ一発の投擲散弾が納まっている。強すぎる衝撃を与えれば、次に誤爆した散弾から腸を抉られるのがテオになりかねない。
片側の二脚を失った事で顎を地面に擦り付けたキラーアントは、頭上の触覚を威嚇するように岩肌の地面に叩き付けていた。すぐに起き上がろうとする気配はない。
テオは誤爆による自滅を防ぐため、投擲散弾の入った鞄を足元に投げ捨てた。懐から小振りのナイフを二本取り出して考える。
先程の頭突きは、脚の切断による痛みを無視した攻撃だ。脚が切り飛ばされる事を知っていなければできないその動きは、先日まで相手にしてきたどの巨大蟻とも異なる。損傷を前提に相手を討ち取ろうとする様は、生存本能の元食い漁り繁殖する多くの魔物の動きからは掛け離れている。まるで何者かに操られた使い捨ての道具であるかのようだ。
無視された痛み、度外視された損傷、使い捨てにされる体、尊重されないもの、捨て置かれる道具。
連鎖するように思い浮かぶ言葉が止まらず、テオの脳内を占めて行った。
生きたがった命、無かったことにされた心、並べられる体、奪い取って当然な扱い、特別である理由。
関係ないはずの物事も頭の中で同列に並べてしまう直らない癖が、次々と現状と元凶を繋ぎ合わせた。
寝台、眠り、聖骸、リリー、二度と目覚めない人間。
自らの思考が全く別のものに繋がっていく感覚に、テオは酷く顔を歪めた。食いしばった歯が軋みをあげ、抑えきれなかった慟哭が漏れ出す。
「最近そういう話ばっかりで、うんざりしてんだよッ!」
吐き捨てたテオの手からナイフが投擲された。伏せた巨大蟻の目玉に吸い込まれるように突き刺さったナイフの着弾を確認したテオは、追い掛ける様に二本目を投擲する。
強化された腕力と持ち前の器用さによる恐ろしいまでの精度で、投げられた二本目のナイフは目玉に突き刺さっていた一本目のナイフを押し込んだ。
柄を押し込んでなお止まらず、その先端を巨大蟻の眼孔へと埋める。器用さという一点でのみ、自らの師匠にも兄弟子にも勝っているという自信がテオにあったが故の選択だった。
土埃を立てて倒れるキラーアントの巨体を見下ろすテオが、興奮して荒くなった呼吸を整える。
腕を大きく振ったことにより走った痛みに顔を顰めながら、強く打ち付けた右肩に手を伸ばした。
しかしその瞬間、引き攣る視界が弾丸のような速度で飛び込んでくる巨大な黒い影を捉える。
「…...は、あ!?…ッぐ……がッ!」
速すぎるその突撃に咄嗟に身構えたテオが、頭部を守る為に腕で覆った瞬間。黒い影は巨大な胴体を押し付けるようにして、寸分も勢いを殺さないままにテオへと衝突した。
受身を取ったテオが地面に転がされる。体勢を整える前に、黒い影の正体である巨大蟻に体の上へとのしかかられた。
「…げほ、……このッ…」
六本の足が檻のようにテオを取り囲み、逃がすまいと閉じ込める。体の上にのしかかった巨大蟻の腹に邪魔されて大きく腕を振れないテオが、唯一手元に残った大振りナイフを突き立てようと柄を握り込んだ。
押し倒した獲物の意識を狩り取ろうと、押し潰すように巨大蟻がその巨体を振り下ろす。
「く、そ、があ!」
地面に着いた背中で体全体を支えたテオが両足を畳み、靴底で蹴り上げるように落下してくる巨大蟻の腹を防いだ。
みしみしと自らの骨を軋ませつつ降り注ぐ圧力に対抗したテオは、巨大蟻が体を振り下ろした勢いを利用して晒された首元に、握ったナイフを突き立てた。
腕に施した身体強化を重ね掛けし、力押しでナイフを脳髄へと押し込む。やがてぎくぎくと脚を痙攣させた巨大蟻が、その重たい巨体をテオの体の上へと脱力させた。
「…ぜ…っ、…はッ……げほ…、……」
鉄の塊のように重い体を蹴飛ばして退かしたテオが、地面に腕を着いて巨大蟻の下から這い出る。汗と泥に塗れた髪が頭皮越しに不快感を伝えた。
「……は…っ、もう…何なんだ……」
がしがしと固まった髪を解いたテオが呟く。その瞬間、テオの顔を撫で上げる様にずるりと硬い感触が触れた。怖気に息を飲んだテオが視界を回して原因を探る。
頬を撫であげた物の正体は、テオが巨大蟻と揉み合っている内に近付いて来たであろう、新たな巨大蟻の触覚だった。
「……は、…」
咄嗟に先程巨大蟻に突き刺したナイフへと右手を伸ばしたテオだったが、その抵抗も露と消える。
テオの頬を撫でた巨大蟻の体が異様な速度で振り上げた。左腕を犠牲にしても頭部を守ろうと腕を立てたテオだったが、振り下ろされた巨体による強烈な打撃の威力に腕ごと押し込まれる。
「が、あッ!」
直撃した体当たりにより地面に叩きつけられたテオは、強く頭を打ち付けた為に脳を揺らされ視界が白んだ。
伸ばした右手はナイフを掴みきれず、盾にした左手はひしゃげて曲がる。
巨大蟻の体に押し潰されたテオは、点滅する視界の中、やがて意識を落とした。




