22話
【22】
この世界は侵食されている。
数百年の昔から、南より一定の周期を経て押し寄せる魔物の群れは、雪崩のように人里を襲い街や国を食い潰し、人類の生活圏を奪っていった。
人々を襲う魔物たちは、通称“種”と呼ばれる地点から現れる。種は周期的に鼓動し、その鼓動の余波から溢れた澱んだ魔力が魔物たちを産み落としていた。
さらに、種は常に魔物を産みながら、数十年に一度、人口密集地がある北部へと向けて大きく行進する。
その行進に伴い、魔物たちも種を守るように移動した。その魔物達の群れと言うにはあまりに大きな大軍は、種から発生する津波のように土地を荒らした。
種が発見されてから現在に至るまで、種による行進と鼓動による魔物の波に、滅ぼされた街や国は少なくない。そして人類は未だ、奪われた土地を取り返せずにいる。
そして現在、その行進の最前線にさらされているのが、このポーロウニアという街である。
城壁で行われている、兵士と冒険者が入り乱れた戦闘は、種から放たれる魔物の波から街を守るためにあった。
ポーロウニアは城を抱えていない。それでもこの街を囲う壁が城壁と呼ばれているのは、この街が突破された後には、この街以上に堅牢な壁を持つ場所がないからだ。
そしてこの街の後方には、本物の王城を抱える王国都市が位置している。故に、王国を守る最後の壁として、この街の防衛は重要視されていた。
人間が徒党を組んでも防ぎきれなかった種と魔物達による侵食。けれどその長い撤退戦にも、微かに希望という名の光は差し込み始めていた。
その希望こそが聖骸であった。
聖骸とは聖教が開発した召喚術の触媒の名だ。それは先程キラーアントに食い荒らされていた死体達であり、テオの姉リリーが成り果てた物である。
彼らが死体となった後も寝台と称される墓所に保管されているのは、彼らの体に利用価値があるからだった。
聖骸とは生きた人間が特殊な薬剤を体内に取り入れることにより作成される、非常に優れた召喚術の媒介である。その薬剤に適合した人間は接種後間もなく死に至り、体内にひとつの結晶を生む。結晶が体内に存在する限りその肉体は決して腐ることはない。
そして、召喚される意識体は、その結晶を受け皿に聖骸の体を使ってこの世界へと顕現する。
聖骸の体に受け止められ、目覚めるのは、“転生者”と呼ばれる異界の人間の魂だ。
転生者に選ばれ目覚めた聖骸は、外側は聖骸の元となった人間の姿まま、中身だけが転生者と言う別の何者かに置き換わる。体が生きていないので歳をとることも無く、腐敗することも無い死した不老の存在だ。
聖骸が持つ記憶も知識も、体内に生まれた結晶を通じて転生者へ伝えられるため、互いに言葉が通じるし、最低限常識や現状を理解し合うことができた。
そして、彼ら転生者は一様に、異様なまでに強力な能力を保持して呼び覚まされた。
そうあれかしと神が与えた、人智を越える強大な力だ。聖教はその力を権能と呼んだ。
聖教や転生者達いわく、転生者とは神が種からこの世界を守るために必要な力を与えて遣わした存在なのだと言う。
故に転生者達が目覚めるのは、神が彼ら転生者を下ろしたタイミングであり、下界の人間が転生者を求める意思は関係しない。
召喚術とは言うものの、実際に転生者を呼び寄せるのは神であって人間ではないからだ。人間は神から転生者と言う宝を賜るその時を、今か今かと待つしか無い。
だからこそ気紛れに下される恩恵を逃さないため、神が招き入れた転生者の器である聖骸は、不足なく用意されている必要があった。
その用意こそが、聖教の役目のひとつだ。
聖骸とは神の遣いが入る器だ。聖教はより優秀な聖骸を求めた。下される転生者により見合った種類を揃えた。神に捧げるものに、欠損など決して許さなかった。
聖骸になることは神のため、直接そのお力になれることだと聖教は喧伝した。
その時から既に国教であった聖教は教育の一端を担っており、聖骸になる事はこの上ない栄誉だと民衆に教えを施した。
押し寄せる魔物に対する有効打を齎しただけでなく、自分達が唱える神の存在を証明した聖教は、最早民衆にとっては神の代理であり、自分たちを護ってくれる頼もしい盾だった。
時として聖教は、聖骸を作るために候補者を募った。優秀な騎士から選抜することも、何らかの報酬として聖骸となる権利が与えられることもあった。
聖骸となる人間を育てるための施設すら存在した。それは学園であったり、信徒を募った教会であったり、親を失った子どもを集める孤児院であったりした。
テオが育ったのは、正にその孤児院の一つだった。地域の子どもを受け入れて教育する塾の役割も担っていた為、テオ達と同じ年頃のグレッグも、孤児ではないもののその教会へと通っていた。
実際に孤児院に預けられていた子どもはテオとリリーの二人だけだ。子どもの数が少ないのは、前回の聖骸の選別を終えたばかりだったからである。選ばれたものは聖骸となり寝台に寝かされ、選ばれなかったものは聖職者となるための教育を施せる別の教会へと移されていた。
その代の聖骸候補者はグレッグ、テオ、リリーの三人だったが、グレッグが鼻に傷を負った為に聖教の掲げる欠損は認めないという条件から外れ、テオとリリーの二人だけが残った。
預けられた子どもの数より、シスターが多かったのも聖骸候補者の護衛と教育のためだった。グレッグは家族があり、外にいる時間も長いため怪我を防ぐことは出来なかったが、本来彼らにとって二人の姉弟と一人の少年は贄に等しい。おいそれと奪われてはならないし、お粗末な育て方もできない。
結果としてリリーは聖骸となり、テオは見逃され、生き延びた。
そうして用意された聖骸により目覚めた転生者達は、神と聖教の思惑の通り、種の破壊を目指し戦いへと赴いた。
実際、失敗には終わったものの、人間だけでは到達し得なかったほどの種の間近にまで転生者が肉薄したこともあった。
しかし元は死体だ。傷を負えば二度とその体が治ることは無い。傷を治す癒術を使ったとしてもそれは変わらない。癒術とは生きた人間を生かすために神がもたらした神秘である。生きた人間が持つ自分自身を治そうとする力に働きかける事は出来ても、動かない細胞を外部から繋げる力ではない。
けれどもそのデメリットが霞むほどに、転生者達の振るう権能の力は恐ろしく強大なものだった。
一週間前、城壁の防衛戦でテオも直接その力を目にした。
襲い来る魔物の群れを“端から端まで”一撃で切り飛ばした男の姿。その手に握られるのはたったひと振りの剣で、それは何も特別な代物ではなかった。
駆け出しの冒険者が初めに手にする安物の剣で、その男は高潮のように押し寄せる魔物の波を押し返してみせたのだ。
それまで決定打がなくジリ貧だった城壁の防衛戦が、そのたったひと振りで一気に巻き返した。
その夜の酒場はすっかり戦勝ムードで、自分から唯一の家族を奪った聖骸という原因の一端、その有用性を見せつけられたテオは、それはもう酷く酒に溺れた。
そして、そんなテオと対照的だったのがルーカスだ。
珍しく浴びるように酒を飲み、興奮した面持ちで声高に語る。
「僕、僕すごく誇らしいんです! 兄が! 僕の兄が聖骸として転生者に選ばれた!」
世界は彼を中心回っているかのように浮かれた言葉だった。
「セオドア兄さんが、今日城壁を守ったんです! あの力なら、きっとこのまま世界だって救ってくれる! これ以上の栄誉がありますか!」
そうやって救った世界にその人はいないのに、どうしてそんなものを喜々として望むのか。テオには理解できなかった。
「ああ、セオドア兄さんは素晴らしい人なんです。優しくて、強くて、いつも僕を引っ張ってくれて。僕、兄さんに胸を張れるように今日まで頑張ってきました! それで、いつか目覚めてくれる兄と同じ戦場に立つんだって。その日まで、いつまでだって待つつもりだった!」
お前に優しくしたその相手は、お前を戦場に立たせたかったのかよ。口の中で吐いた悪態が、思った以上に自分自身にも牙を向いた。結局同じ場所に立っていたテオも、人に後ろ指を指せる立場にいなかった。
「僕、僕。今とても嬉しいんです。ああ、ああ! まだこの体が十全に動くうちに兄さんが目覚めてくれるなんて! 今日、今日やっと、報われました!」
聞いていられなかった。椅子を蹴飛ばして立ち上がったテオがルーカスの胸ぐらを掴む。呆然としたその顔があまりにも馬鹿らしくて、テオは留めが効かずに胸の淀みを吐き捨てた。
「ふざけるなよ! お前の兄の姿で、お前の兄の声で、お前の兄の名を名乗るそいつは赤の他人だ! 見も知らぬそいつが、勝手にお前の兄の体を使い潰して戦ってやがる! 丁度そこにあったからだ! たったそれだけの理由だ! 奴らにとって聖骸なんてどれも同じで、どれも等しくただの他人だ!」
テオは知っている。聖骸の欠点とは、死者の体であることだ。生きている人間と違い代謝がない彼らは、どんな小さな傷も治癒しない。癒術を使ったところで同じだ。既に死んでいる体に神の神秘など作用せず、ちぎれた箇所は復元しない。
「ふざけるな。ふざけるなよ。守れれば死んでいいのか。勝てれば奪っていいのか。取り返せるなら踏みにじっていいのか。自分たちばかりが正しいと主張するお前たちが奪った命に、価値はなかったっていうのか! 押し付けた相手の感じた苦しみに、寄り添う意味すらないというのか!」
常に体の周りに薄く貼られる魔力防御壁のようなものがあるお陰で最低限の生活はできるが、それは決して小さな傷の積み重ねを無視できるという意味では無い。酷く鈍くなってはいるが、少なからず痛覚は残っている。飲み込み損ねて喉に刺さった魚の骨すら彼等にとっては永遠に続く苦痛の一つだ。
その苦悩を、テオは傍で見てきたからこそ知っていた。それでもなお、戦う女を知っている。
「そうだとしたら! お前の兄は何になる! その心は必要ないと捨てられといて! お前は! お前が! それを認めるのか! お前に優しくしていたお前の兄の思いには、何の価値もなかったってか!」
止まらない。とめどない。
失ったあの日に飲み込みそびれた感情がいつまでも喉の前に居座っている。
「その意思に意味がなかったなら。なあ、答えろよ。お前たちの喜びに何の意味があるんだよ。生存する命に価値があるから守るなら、なんで死ぬ前のあの子の命を尊重してくれなかったんだ。答えろよ。おい、答えろってんだよ。おい! 黙ってねえで答えやがれよ聖職者!!」
記憶にあるのはここまでだ。このあと興奮したテオをジャレッドの拳が黙らせた。恐らくあそこで止まっていなければテオはルーカスの首でも締めたかもしれない。あの制止は正解だったとテオですら思う。
だからこそ、今。
あの日の酒場で一人酒を煽っていたテオのように俯いたルーカスにかける言葉が、テオには見付けられなかった。




