19話
【19】
「テオドール、花を見に行きましょう」
「うん」
教会の外に抜け出して、赤毛のシスターに連れ戻されても、リリーは花を諦めなかった。
あれから俯きがちになったリリーが、その時ばかりは以前の様に顔を上げてくれた事が嬉しかったテオドールも、リリーの望みを叶えたかった。
だから何度だって花を見に行った。
以前までは子どもだけでも出歩けた、ほんの少し離れた花畑まで向かうことも禁止されるようになってしまったから、それはいつだって秘密の作戦だった。
けれどその度に必ず三人のシスターの誰かに見つかり連れ戻されてしまう。今まで悪戯などしたことのなかった子ども二人の作戦は、あまりに稚拙すぎたのかもしれない。
もしここにグレッグがいれば、悪巧みが得意な彼の事だから、きっと花なんて直ぐに見に行けたかもしれないのに。テオドールはもう暫く姿を見ていない少年の不在を悲しんだ。けれど、どれだけ待ったところでグレッグは教会に訪れることは無かった。
結局、その後暫く経っても花を見に行くことは出来なかった。花を見たいだけだとシスター達を説得しようとしても、切られた花を持ってこられるだけだった。
「テオドールも明日で十歳になりますね」
教会の一室、教室として使われているその部屋で、教育係のシスターが言った。束ねた黒髪が、にこやかな彼女の頭の上で揺れている。
対照的に、二つしかない机の片方に座ったリリーの顔は曇っていた。
「明日は選択の式ですよ。美味しいご馳走を用意しますからね。楽しみにしていてください」
そう言って、教育係のシスターは黒髪を揺らしながら去って行った。席に座ったまま、リリーが隣のテオドールと向き合う。
「ねえ、テオドール。お願いがあるの」
「どうしたの? リリー」
「明日の式のご馳走ね、すっごくすっごく素晴らしいものが出るって話なの。私ずっと楽しみにしてたのよ。ひとつの杯を参加する子ども達で回し飲むんですって」
真剣な目で見つめるリリーは、ゆっくりとテオドールの手を握った。そうして、目を細めて、口角を上げて。あの何かを抑えた笑みを形作る。
「ねえお願い、一口目を私に譲ってくれない?」
珍しい頼みだった。
リリーはいつも、美味しいものも楽しいことも、二人で分け合うし教えてくれる。時としてテオドールに譲ることさえあった。
そんな彼女が、どうしても欲しいと言うのだ。テオドールがその望みを叶えることに否やはなかった。
ずっと思うように出掛けられず、グレッグと言う友人にも会えなくなったリリーは、最近様子がおかしかった。
元気が無いとも気が立っているとも言えるリリーの様子に、彼女を元気付けようと自分に出来る事を探していたテオドールにとって、そのお願いは天啓にも等しく感じられた。
「うん! リリーがしたいようにしていいよ!」
本当に嬉しかった。頼られた気分になった。喜んでくれることを望んでいた。そうある事を疑ってもいなかった。
だから、その時リリーが見せた顔の意味が、その時のテオドールには理解出来なかったのだ。
強く瞼を閉じる様な鈍痛がテオを襲う。
朝が近くなっていると体が起床を促す。この先は見たくない。起きてしまった方がずっといいはずなのに、夢の中から逃げられない。
夜、蝋燭の灯りだけが照らす教会の中。
祭壇の前でひとつの杯を煽るリリーの姿があった。回し飲むはずの杯を、最後まで傾けて飲み干している。
その隣で、幼いテオドールはリリーの様子を眺めていた。大人になったテオがどれだけその杯を引っくり返したくとも、その手が上がることは無い。
ふらりと。
少女の華奢な体が傾く。その細い体躯が床に着く前に、シスターの一人がリリーの体を受け止めた。
意識を失ったリリーに、心配になったテオドールはしがみつく。リリーの体が急激に温度を失い、胸に当てた耳に届く心音が弱くなった。
慌ててシスターに助けを求めても、彼女たちは何もしない。ただリリーの様子を黙って見詰めていた。
やがてリリーの顔は青白くなり、呼吸が止まり、心音が途絶えた。
肩を揺すっても、声を掛けても、少女は弟に答えない。泣いても慰めてくれない。心配して、どうしたの、と聞いてくれない。固く閉じた目が、細く開くことは無い。
「なん、で?」
テオドールはこの状態を知っている。これは死だ。死んだ人間は、冷たくなって、音が消える。だって父の時も、母の時も、そうだったから。だから知っている。こんな子どもでも知っていることなのに。
どうして、どうして。
「どうして笑うの!!」
動かないリリーに縋り付き、涙を流すテオドールは叫ぶ。彼ら二人を囲む三人のシスターは、彼女達とも共に過した姉が死んで、笑っていた。
「どうして? それはあなたの方よ。なぜ泣くのです、テオドール。リリアーナは祝福を受けたのです。私達だからこそ祝わなければなりません。彼女の栄誉を!」
シスターのひとりが叫ぶように言う。あの赤毛のシスターだ。
理解できなかった。理解したくなかった。
祝福?死んだのに?祝う?愛しているのに?栄誉?望んだことも果たせなかったのに?
絶句するテオドールに対して、三人のシスターは手を叩いてリリーの死を祝福した。動かなくなったリリーの体から引き剥がされ、両手を握られ拍手をすることを強要される。
非力なテオドールでは、必死の抵抗すら無意味だった。己の手のひらから、ぱち、ぱち、と音がする。反吐が出る。汚らしい。気味が悪い。どうしてこんな音が、自分からしてしまうのか。
「どうして!? し、死んじゃったんだよ! もう起きないんだよ!」
必死に暴れて叫ぶ。離れない手に噛み付いた。放り投げられるように開放されると同時に、口の中に血の味が滲んだ。顔から倒れたせいで口の中が切れてしまった上、噛みついたシスターの手から出た血液が舌に残っていた。
「何を言っているの、テオドール。教えた事でしょう?」
満面の笑みで、手のひらに歯型をつけた教育係のシスターが言う。黒髪を揺らして、堪らないように震える指が、痛みすら無視して頬に添えられた。
「悲しくないの!? リリーはもういないんだよ?!」
今まで優しく自分たち姉弟を慈しんでくれたシスター達が、自分と同じようにリリーの死を悲しく思わないわけが無い。そう信じたかった。もうがたがたになった親愛が、ただの張りぼてだったと思いたくなかった。
悲鳴のように上がった疑問に、シスターの一人が答えた。
「リリアーナは祝福を受けたのよ。主が返上を受け取られたの」
頬を赤く染めて、興奮したように上擦った声で、癒術が使えるのにリリーを助けようともしなかった夕暮の目のシスターが言う。胸の前で組まれた両手は、お祈りの時間によく見たものだ。
「主のお役に立つのですよ。彼女の体は世を守る礎となる。この世全ての人々の願いを背負うのです。そして貴方はそれを護り、維持し、見守り続けるのですよ、テオドール」
最後の一人赤毛のシスターが、強くテオドールの肩を掴んだ。暴れても、もがいても、その手が振り解けない。
教育係のシスターが、どこから持ち出して来た淡い青の布でリリーの遺体を包んだ。
テオドールの肩を掴む赤毛のシスターが、その遺体を受け取る。そしてテオドールの腕を掴み直し、聖堂の外へと歩き出した。抵抗するテオドールは歩むままに引き摺られる。
「いやだ、いやだ。どうして、どうしてなの! リリーは花を見たがってた! もう見れない! 見れなくなった!」
「花より素晴らしいものを守れます」
「知らない! 要らない! リリーを返して! どこに連れていくの! 花を、花が! 笑わないで! 笑うなよ! 喜ぶのをやめて!」
「これは栄誉なことなのですよ」
「嬉しそうにしないで!!」
テオドールの慟哭は、その細い手を掴むシスターに届かない。
昨日まで、笑って、話して、食事を取って、傍で眠って。生活の全てを共にしていた相手なのに、今はもう知らない何かのようだ。
そうだ。違うものだったんだ。姿が似ていたから間違えてしまったんだ。幼いテオドールが息を飲む。
こいつらは自分やリリーとは違う。魔物みたいに人を殺して食い物にする。だからもう息をしないリリーを前にして笑えるし、喜んで浮かれている。朝食べたパンみたいに、リリーの命はどうだって良かったんだ。
最初から摘む為に育てていた。だからやっと皿の上に飾れることを喜んでいる。その皿を主とやらの前に差し出して、切り分けられることを待ち望んでいる。
理解した。理解するのが遅すぎた。
吐き気と頭痛が体を蝕む。祈りの度に合わせた手が腐り落ちるようだ。
テオドールが引き摺られるように辿り着いた場所は墓所だった。
白い壁、白い床。全てが石でできている、すり鉢状に中央が下がった白い空間。光源が無いはずなのにどうしてか眩い程に明るい。
その空間のそこかしこに、均等に並べられた長方形の白く縁取られた石棺が立ち上がっていた。その数は五十を優に超えている。
蓋の閉じた棺は三分の二ほどであり、残りの棺の蓋は開いている。閉じられた棺も、開かれた棺も、どちらもそれに覆い被さる蓋は半透明な素材でできていた。白く濁るように透けたその蓋の奥に、淡い青の布に包まれた幾人もの子どもが安置されている様子が見える。年頃はどれもテオドールと同じくらいだった。
その一つ、蓋の空いた棺にシスターが近付く。何をしようとしているのか、それは混乱するテオドールにも直ぐに分かった。
抱えられたリリーの体が、その棺の中へと横たえられる。皿の上に盛り付けるように、燭台を磨いて並べるように、それはまるでリリーの体を飾りつけるかのようだった。
コレクションの様に並べる事にこそ意味を見出されたその姿に、テオドールは慟哭する。
「う、ぐ、う、うう! こんなの違う! リリーはこんなもの望んでなかった! 何のためとか、誰かの為とか、どうだっていい! どうでもいい! 僕は、絶対に! あなた達を! お前たちを! 絶対に!」
幼いテオドールの叫びが遠のく。
口の中で言いかけた言葉がぐるぐると回った。
朝日が顔を焼く。地面の位置を見失ってしまった。溺れるように呼吸が出来ない。布が絡まった手足が、縛られたようにのたうった。
強い衝撃が背中を襲う。肺が空気を吐き出し、意識が強制的に覚醒した。脳が滅茶苦茶に揺れ動き、現実と夢の区別がつかなくなる。
水分を失い、酸素も失った体が、酸素を求めて喉を開くも思う様に肺が動かない。
目覚めの淵にいたテオは、酸欠にぐらつく頭で、それでも続きを口にした。
「絶対に、認めない」




