18話
【18】
また、夢を見ている。
そう自覚できる。
グレッグが来なくなった。
テオドールとリリーの二人は、彼が怪我をしたのだと聞いていた。
教会の孤児院の傍に生えた広葉樹の枝葉の影で、幼いテオドールがリリーに抱き着いている。
何かと嫌味な事を言うグレッグだったが、それでもテオドールは確かに彼に懐いていた。
彼といるリリーは、とても清々しく笑う。
薄い色の目を細めて蕩けさせる。眉尻を下げ笑窪を深める。大きく口を開けて跳ねるような声を上げる。心の底から喜んで、楽しんで笑う。
幼いテオドールに見せるそれとは全然違ったその笑顔。宥めるように声を潜めることも、眉を動かして感情を表すことも。
リリーはテオドールに対してはしない。
テオドールは自らに向けられる笑顔よりも、リリーがグレッグと話す時にする笑顔の方が好きだった。
だからこの教会にグレッグが来ない事を悲しんでいた。寂しいとは、少し違ったと思う。
「グレッグ、もう来ないの?」
「大丈夫よ。あいつは凄く元気なやつだから、そのうち顔を出してくれるわ」
「でも、もう一週間も来てないよ。前は毎日来てくれてたのに」
「あいつも一応ここの生徒だからね。大丈夫、大丈夫よ。テオドール、泣かないでね」
リリーの柔らかな指先が、テオドールの髪を梳く。その心地いい感触に眠気を誘われ、泣き疲れていたこともあり、テオドールはうとうとと瞼を下ろす。
姉の膝に顔を埋め、テオドールはほんの数分心地いい微睡みの中で眠りに落ちていた。
「……う、んん。リリー?」
暫くしてテオドールが目が覚ましたのは、髪を梳く心地良さが途絶えたからだった。
肩口をリズム良く叩き、頭を撫でていた手が、なにか別のものを掴んでいる。
木の葉の影が嫌にそれを黒く映すが、それは一枚の紙と封筒だった。
「手紙? どうしたの? 誰から?」
「……あ」
「リリー?」
テオドールの声に、リリーが呆然と視線を寄越す。ふらふらと動く視線が、テオドールと手紙、教会をくるくると回った。陸で溺れる魚のように、はくはくとその口が動く。
「大丈夫?」
あまりに見ない様子に驚いたテオドールが心配すると、リリーは黙って手紙を隠した。元から付いていた折り目に沿って丁寧に折り畳み、封筒へと仕舞われる。
「どうしたの? リリー」
「……うん、ええとね。グレッグが来たの。手紙もあいつがね、置いていって。鼻が、焼けて。いえ、いいえ。違う。これはだめよ。ええと、ええ。そう、あのね。何が、ええ、と…何を、言ったらいいか……」
姉の膝の上から起き上がり、テオドールは姉の瞳を覗き込んだ。ステンドグラスよりもずっと色の薄い瞳が潤んでいる。
泣きそうなのだと、幼いテオドールは気が付いた。泣きたくなる時、テオドールはいつも辛い気持ちを抱えている。
そしてそういう時、リリーに頭を撫でられると落ち着くのだ。
だから、その手は自然と彼女の頭に伸びた。
さらさらの長い髪をなぞって、上から下に手を下ろす。何度も何度も上に登ってやり直す。受け取るばかりだった子どもの、不慣れで下手くそな慰めだった。
「いい子、いい子。リリー。大丈夫だよ。怖くないよ」
何の意味も根拠もない、普段から告げられている言葉の復唱。理解出来ていない無責任な言葉。
大人になったテオは、今でもそれを悔やんでいる。
聞いておくべきだった。何が悲しかったのか。何が辛かったのか。リリーが何を恐れていたのか。
幼いテオドールにとって、世界はリリーとグレッグと教会とシスター達が全てで、そのひとつが欠けたことはとても大きなことだった。
だからテオドールは、リリーの涙もそれが原因だと疑わない。無知な子どもの浅慮な思いやりは、結局のところ自己の中で完結していた。
「……テオドール。ええ、大丈夫よ。きっと大丈夫。私、歌は下手でもいい子にしてたわ。きっと神様だってお許しになる。だから、だから“私が大丈夫にする”。ええ、そうよ。そうよね」
テオドールを膝から引きあげたリリーは、その体を強く抱きしめた。震える手が回された背中を掻く。
「だから、ねえ。テオドール。一緒に花を見に行きましょう。きっと、とっても楽しいわ」
体を離した時、既に彼女は微笑んでいた。目を細め、口を閉じて口角を緩やかにあげる。
それはテオドールという庇護対象に向ける、何かを抑え込んだ笑みだった。
手紙をポケットに突っ込んだリリーがテオドールの手を強く引き、立たせる。彼女の問いにテオドールが否定も肯定も返す前に、小さな手を強く握ったまま走り出した。
「ま、待ってよリリー! お祈りの時間だよ! 怒られちゃう!」
「いいのよ、もうお祈りしないの! シスターにも怒られない!」
リリーの長い髪がテオドールの眼前で揺れる。太陽が照らすとミルクティーのように暖かく輝く髪。
繋いだテオドールの右手とリリーの左手の間が汗で濡れていた。リリーの歩幅はテオドールよりも大きく、どうしても前を走る姉には追いつけない。
教会を囲う柵を潜って二人は飛び出した。木製の柵は雨風で傷みやすいので、押せば外れる箇所が見た目よりも多い。
「か、勝手に外に出たら駄目なんだよ! 危ないんだよ!」
「いいのよ。危なくないところなんて、本当は無かったの!」
リリーの言葉が段々と揺れ始める。
息が上がっているだけなのか、それとも泣いているのか。どれだけ頑張っても少女の歩幅に追いつけないテオドールは、その顔を覗き見ることも出来なかった。
「ま、待ってよ、リリーッ…、っ……」
ほんの五百メートルに満たない距離だった。いきなりペースの合わない歩幅で走らされたテオドールは、元々体力が多い方でなかったこともあり、すぐに体力が尽きてしまった。つまづく様に足をもつれさせる。
やがて次の一歩を踏み出す足をくじき、頭から派手に転んだ。衝撃でリリーと繋いだ手が離れる。咄嗟に止まりきれなかったリリーが、数歩たたらを踏んで振り返った。
リリーの薄い虹彩の瞳が、零れそうな程大きく見開かれる。その瞳は、手を着いて起き上がるテオドールのすぐ後ろを捉えていた。
「ああ、こんなに怪我をして。でも泣かなかったのね、テオドール。偉いわね。きっと神様も褒めて下さります」
テオドールの頬に着いた泥を、後ろから伸びた指が拭う。
柔らかい女性の声。暖かいはずの指先が、走って体温の上がったテオドールの体には、とても冷たく感じた。
黒い修道服に身を包み、しゃがみこんでテオドールへと手を伸ばす赤毛の女性。シスターと呼ばれる、教会孤児院に住む子どもたちの世話役の一人がそこにはいた。
数歩離れた所にいるリリーが、狼狽した様子で目を泳がせる。
自らの後方、テオドール、その背後のシスター。くるくると、くるくると、視線が動く。
少女の既に荒かった息が、さらに荒くなっていった。
「し、シスター、あの」
「でも、約束を破るのはいけないことよ。子どもだけで外に出ては行けない約束。お祈りをする約束。二つも破ってしまったなんて。きっと神様がお叱りになられます。悪い事がおきますよ」
「あ、あ、ごめんなさい、ごめんなさい」
服の裾を握りこんだテオドールが俯きか細い声をこぼす。
悪い事は怖い事だ。だって父も母もそれで居なくなった。
ずっと昔、言いつけを破って夜更かしをしようとしたテオドールを、約束を破る子には神様が悪い事を起こしますよ、と言って母が叱った。テオドールは本気にしなかったが、翌朝には父と母は村を襲った魔物に食われて死んでいた。
別の部屋で寝ていたテオドールとリリーは物置に身を潜め、その後討伐隊の到着が間に合ったおかげで命を取りとめた。しかし二人はそのまま孤児となり、この教会へと預けられた。
約束を破った時に神様が下す悪い事は、とても怖いことなのだとテオドールの心には刻み込まれていた。家族がいなくなる。大好きな人が動かなくなる。
揺すっても起きなくて、冷たくなって、心音も声も、何も無くなる。
両親の惨状を思い出し、かたかたと震えるテオドールの指先を、シスターが摘むように握る。
「……シスター! テオドールは、悪くないの。私が花を見に、無理矢理連れ出したの」
駆け寄ったリリーがシスターの手首を握った。縋るような、邪魔するような、子どもの精一杯の力をかけて握り込まれる。
「……そう。正直に言うことは偉いことですよ、リリアーナ。そうですね、叱るのはやめておきましょう。さあ教会へ戻りますよ。まずはお祈りの時間です」
叱られない。その言葉にテオドールはほっとした。悪い事は起こらない。そう思い込んだ。
膝や手のひらに傷を作ったテオドールを抱えて、少しくすんだ赤毛を揺らしたシスターが立ち上がる。
目や耳、鼻に傷はないか。舌を噛んでいないか。歯が抜けていないか。膝の傷は深くないか。指の骨は折れていないか。
テオドールの傷の一つ一つをシスターは確認する。そうして裂傷しかないことを確認したシスターは、安堵したように口を開いた。
「良かったわ、欠けていない。グレッグに続き貴方まで駄目になったら、式に支障が出ますからね」
シスターの言葉に、テオドールは首を傾げた。どうして自分の怪我がグレッグと関係あるのだろう。
シスターの言っている意味も、教会で教育を受けてはいるものの二つ上のリリーと比べて、まだ半端な知識しか持っていないテオドールにはよく理解出来なかった。
テオドールを抱えて歩くシスターと並ぶリリーが顔を俯けている。
自分が転んで足を引っ張ったから花を見に行けなかった。だから怒っているのかもしれない。
幼い自分に対しては滅多に怒らない姉に、テオドールは申し訳ない気持ちで一杯になった。
今度は自分から誘おう。そして一番綺麗な花を混ぜてリリーに花冠を送ろう。そうしたら、きっとまた笑ってくれる。
グレッグが来てくれればもっと良い。彼は花を見るのが楽しくない様だけど、リリーが元気をなくしていることを知れば、きっと心配して来てくれる。
三人が連れ立って教会に戻る。
癒術を使えるシスターがテオドールの怪我を治してくれた。痛かったでしょう、よく我慢しました、と夕暮色の目を揺らしながらそのシスターはテオドールの頭を撫でた。
教育係のシスターからは結局怒髪天の勢いで説教された。大きな怪我がなくて何よりです、と黒い髪を束ねたシスターは、テオドールの手を握りながら心配した声を漏らした。
連れ戻しに来た赤毛のシスターは、その後しばらくテオドール達が悪さをしないようにと近くで見張るようになった。
外は危ない場所なのだから、神様の加護のある教会から離れては行けませんよ、とレンガのような髪を揺らして言うシスターは、テオドールの頬を指の裏でなぞった。
テオドールにとって、彼女達から感じる愛情はそれまでと変わらなかったし、外に自由に出られなくなった以外で、彼女達シスターとの関係も変わったようには感じなかった。
ただ、それでも生活の全てが変わらなかったとは決して言うことは出来なかった。
リリーは俯いて何かを考え込むことが増えた。そしていつも彼女に顔を上げさせるグレッグは、その日以降も姿を見せることは無かった。