16話
【16】
「ふッ!」
瞬間、一歩を大きく踏み出す。大きく体を進めたことで発生した捻りを利用して、テオは手の中の凶器を投擲した。
コォオン。
乾いた空気の破裂する音が響く。
放った投擲散弾は巨大蟻の腰へと当たり、その胴を喰いちぎった。
倒れ落ちる巨大蟻に近づく。踏み出す直前に見えたものが、テオの鼓動を嫌に早めた。
もう二度と自主的に動くことの無い、巨大蟻の堅牢な顎に手を伸ばす。そこに引っ掛かるようにくわえられていた潰れた肉を手に取った。
「食べかす、か」
指に触れたのは柔らかい感触だった。
常温のそれはやけに生温く感じる。決して熱を持っている訳では無いのに、包み込むような弾力がそう感じさせるのだろう。咀嚼されたあとなのか、原型が分からないほど潰れている。
滑るのは血液か。指を伝うほどの量はない。けれど爪の隙間に張り付く感覚は巨大な舌に舐められて唾液が垂れているようで不快だった。鉄錆の匂いが鼻をかすめる。
倒れた巨大蟻の顎には、肉の食べかすがぶら下がっていた。小さくない。けれど大きくもない。丁度、そう。小指側から手の平を半分噛みちぎったような大きさだ。
「……くそ。何を食った」
弾力を考えると巨大蟻のものでは無い。柔らかすぎる。
巨大蟻は甲殻の中身もそれなりに硬い。打って響く硬さではなく、筋張っているのだ。あれだけの鎧を着込んで動き回るのだから、相応の筋力があるのだろう。
今まで数匹を倒してきた。その内臓を吹き飛ばした。だからこそ分かる。この肉は巨大蟻以外の何かだ。
その何かがカーラ達冒険者でないことを祈るしかない。一度固く目を閉じて、また開く。
「傷んでない。殺して食ったばかりなのか」
手にした肉を鼻に近づけて臭いを嗅ぐ。独特な腐臭も、酸っぱさや癖のあるアンモニア臭もない。ただひたすらに血腥さを感じる。
けれど種類を特定できるほどの要素はないし、そもそもそこまでの知識をテオは持ち合わせていない。
持ち帰ってルーカスに聞けば分かるだろうか。調査の一環だ。仕事だ。割り切って、テオは止血用に持っていた布でそれを包み、遂に半分まで中身の減った鞄に押し込んだ。
「合流する。合流する。合流する」
言い聞かせるように呟く。余計な思考は止める。恐怖と焦りに飲み込まれてはならない。
彼らの安否は合流しなければ分からないのだ。合流する。それだけを考える。
テオは大きく息を吸い、長い時間をかけて吐き出した。鞄を背負い直し、歩を進める。
小型ランプの灯りが心許ない。ルーカスの魔導光がどれだけ心強かったか。心臓の音が索敵の邪魔をする。喉の内側が冷え込んだ。
そうして暫く歩いた後の事だった。
この角を曲がれば、出口までの折り返し地点になるという所。
小型ランプを手にしていたテオが、素早く腰のナイフを引き抜いた。
「ッぐ!」
「あ、悪い!」
ほぼ反射的に振り抜いたナイフが、高い金属音を奏でて硬い感触に阻まれる。そこに居たのはククリナイフを構えて顔を顰めるスヴェンだった。
テオとスヴェンの二人がほぼ同時に振り抜いた武器がかち合っていた。テオは慌ててナイフを引く。
探知範囲の広い巨大蟻との遭遇を警戒し、テオとスヴェンは二人とも極力気配を消して歩いていた。そのために、互いに相手の発見が遅れてしまったようだ。
先程まで話していた人間が、瞬きひとつで動かなくなることをテオは知っている。それが例え死でなくとも、肉を食いちぎられるレベルの負傷であれば、心配や恐怖を感じない方が難しい。次は自分かもしれないという圧迫感もあった。
そんな重圧の最中、唐突に感じた気配に思わず染み付いた癖が出てしまった。もしかしたらあの行き止まりにテオを置いていってしまったスヴェンも同じなのかもしれない。
テオがナイフを腰に戻すと、単純な腕力差に負けたスヴェンが腕を痺れさせていた。顔を顰めながらもスヴェンがその口を開く。
「生きてたか、テオ」
「そっちこそ。全員無事か」
「ああ、まあな。奇襲を受けた上、奴らの数が多くて手間取った。でかい怪我はねえよ。置いていって悪かったな」
「生きてるからいい」
武器を仕舞い、痺れた右腕を振りながら話すスヴェンの肩をテオは更に叩いてみせた。
腕の痺れに衝撃を足されて飛び跳ねそうになったスヴェンが、仕返しにテオの膝を後ろから蹴る。
乱暴な膝カックンを食らったテオが転びそうになるのを、大きな腕が支えた。
「ジャレッド」
「ああ。無事だったか。良かった」
テオが体勢を戻すと離れていく腕には、細かい傷がいくつも出来ている。
防御に盾を使うジャレッドが物理攻撃しかないキラーアント相手に手に傷を作るとすれば、それは攻撃のために斧を握った時だろう。
砕けた甲殻も掠める爪先も、強固な盾を突破しない。
ジャレッドの巨体が後光に輝く。何事かと彼の後ろを覗けば、魔導光を連れたルーカスとカーラが歩いてくるところだった。
「スヴェンの声が聞こえたから焦ったよ。無事だったかい。悪いな、迎えに行くのが遅くなったね」
「お怪我はありませんか? よければ治しますから、教えてくださいね」
頬に泥を付着させたカーラも、着ているローブをよれさせたルーカスも、一様にテオを心配する言葉を吐いた。
彼らは当たり前のように相手を思いやる。当たり前に見捨てず、当たり前に手を差し伸べ、当たり前に施す。得難いものだ。
いや。正しく得難いのは、それを互いに示しながら同じ事を尊べる感性かもしれない。案外簡単に、人は同じはずの物事に優劣をつけるから。
同じ事を返すことは、こんなにも苦しい事だったか。
曖昧な笑みを返し、怪我のない旨を伝えるテオは、それ以上相手を気遣う言葉が出てこない。身を案じた言葉も、無事を喜ぶ声もだ。
同じはずだ。同じだったはずだ。
ただ隣にいた人間が居なくなることを怖がって、底の見えない穴の空いたようなあの感覚は、きっとお互いに感じていたはずだ。
それでも、それを確かめようと口に出した時に返されるものが恐ろしい。安堵が解けて、絡まり、最後には身勝手な疑惑に変わる。
テオは喉に詰まる息を、ゆっくりと飲み下した。
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