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錫の心臓で息をする  作者: 只野 鯨
第二章
144/144

144話 険路3


【144】険路3




 その感情は無自覚だった。


「あとで叱られちゃうね」


 それは小川の畔に腰を下ろし、足先を水につけたロサリオの言葉だった。それを聞いたエレノアは、脱いだ靴で魚を捕まえようとはしゃいでいた手を止める。

 ロサリオはそんなエレノアの様子を他所に、自分の膝の上で布の包みを開き、中にくるまれていた焼き菓子を二つに割った。エレノアへと宛てられた教会からの貢物はこういう時に役に立つ。ピクニックのお供となったその菓子は、甘い香りを漂わせた。


 ロサリオがエレノアに猫をねだってから、何度となく二人は塔を抜け出した。猫を追いかけて城下町に下りたり、遊び道具となる葉っぱを求めて草原を歩いたり、それはまるで恋人の逢瀬のようでいて、幼子の挑む大冒険のようであった。

 

 元の世界で散々遊んだゲームに出てくる現代武器や、毒りんごと七人の小人のような寝物語に聞くおとぎ話。

 アスファルトとコンクリートに覆われた街並みの様子から、片面が光る板のような馴れ親しんだテクノロジーまで。

 エレノアが話す全てにロサリオは目を輝かせて、その知識を吸収した。


 知識ばかりな頭でっかちのエレノアと異なり、ロサリオはいつだって身近なもので代用を考えては提案したので、エレノアはそのたびに驚愕したものだった。


 知るということにとどまらない欲。知ったならば実現するまでに手を伸ばす行動力。ロサリオはそれを持っているように感じられた。それはある意味、行動や実現というものに飢えているようにも見受けられた。


 そんな脱走の日々が続いた。知らんふりをして急な外出に励むロサリオに、しかし聖骸エレノアが関与していると分かると口出しをする人間は数を減らした。

 最後の抵抗としてか、それとも気遣いとしてか。それでも周囲の人間にばれないよう、いつもはロサリオがスケジュールを調整していたのだが、しかし今日ばかりはうまくいかなかった。


 思い出すのはつい先程のことだった。


 エレノアが朝食を終えてからロサリオの待つ塔を訪れたのは、どれ本日のレッスンですわ、と構えたロサリオの教育係である御局様がいらしたところであった。


 内地で教鞭を取るような人間なのだから当然だが、ロサリオを横からかっさらっていくエレノアに教育係の女は咄嗟に対応ができなかった。立ち会っていたのは、確かよく聖骸の遠征に参加している精鋭の聖騎士のケイレブとかいう男が一人。

 その鉛色の髪をした聖騎士は、一応は止めるそぶりを見せたものの、窓から飛び立つエレノアを打ち落としてまで二人を制止することもなかった。


 背中に翼を生やして飛び去るエレノアと、その腕に大人しく抱かれたロサリオ。そんな二人の様子を見て呆然と額に手を当てる聖騎士ケイレブに対し、教育係の女がきんきんとした怒鳴り声を上げていた様子を思い出す。

 あの様子ではきっと今頃、あちらこちらで怒鳴り声でも上げて事を大きくしていそうだった。それを真横で聞くことになる聖騎士の苦労を思うと、さすがのエレノアも憐憫の情を禁じ得なかった。


 だがしかし、それとこれとは別である。

 エレノアは今この時、この瞬間の娯楽を享受することにためらいはなかった。


「叱られそうになったら私の名前出しちゃえばいいよ。慰労につきそっておりました、とか言えばよくない?」

「んー、そう、かな」

「け! 出掛けんのくらい好きにさせろってんだ、ケチくせえ連中! 引きこもりが体にいいわけないじゃんね!」


 人里離れた山まで上空の最短ルートを駆け抜けて、未開拓の川辺に足をつけるのにどれだけの害があるというのだ。

 肩を怒らせて文句を垂れるエレノアに、ロサリオは足の裏をくすぐる水面の波を引っ掛けて飛ばした。飛距離が足りずに落ちた水滴が水切りのように波紋を増やす。

 それを眩しげに眺めたロサリオは、半分に割った焼き菓子の香りを楽しむように眺めて口を開いた。


「長期的な健康を考える必要がないからね。でも私、外は好き。エリーが連れ出してくれたからそれを知れたんだと思う。ありがとう」

「考える必要がないって……。私が、私のほうが、ロサリオと遊びたかっただけだから。だから別に、そんな。ていうか、外に出るくらいで普通こんなに騒がないって。おかしいよ」


 ロサリオの言葉に、うつむいて水面を睨んだエレノアが反論する。そのじとりとした視線に負けたロサリオは、やがてくすくすと笑いだした。


「うん。だから、ありがとう、エリー」

「……どういたしまして」


 ロサリオの声に顔を上げたエレノアが渋い顔をして答える。その様子がまぶしくて、ロサリオは砂金のような色をした目を細めて笑った。


「エリーと過ごすのは、とても楽しいんだ」

「本当?」

「本当」


 言葉少なに答えたロサリオは、手にした焼き菓子をエレノアへと差し出した。それを見たエレノアは、ロサリオの元へと水面を跳ねるように戻り、その隣へと腰掛ける。


「ロサリオ、髪伸びたね」

「うん。最近、伸びるのが早いんだ」

「今度、私に結わせてよ。うまくできるか分かんないけど」

「ふふ。じゃあ楽しみにしてる」

 

 そう言ったロサリオの手から、半分に割られた焼き菓子が本来の宛先人へと手渡される。ロサリオは微かに笑って小麦とバターの香りのするそれを頬張った。

 同じように手渡された焼き菓子にかぶりついたエレノアと二人、のどかな川辺で静寂に浸る。二人の耳をくすぐるのは足元の水音と、遠くから聞こえる小鳥のさえずりのみであった。


「私ばかりがもらっているんだ」


 こくり、と焼き菓子を飲み込んだロサリオが口を開く。次の一口を食もうとしていたエレノアは、ぴたりとその動きを止めた。


「そんなことないよ、ロサリオ。あなたがいなければ、私はこうして人の姿でいることすらも満足にできなかった」

「そうかな。あなたはとても真面目で勤勉だから、きっといつか自力でどうにかしていたんじゃないかって、そう思うよ」

「そんなこと」

「なかったっていいの。それでも、そんな程度で清算できないくらい、私はあなたから沢山をもらった」


 エレノアの言葉を遮るようにしてロサリオはそう言った。彼女の子どものような細い指が、空に円を描くように数を数える。星を指さすような仕草は、どこまでも幼く見える姿に見合っていた。


「外に出られた」


 それは多くの人間にとって、当然の権利であった。


「お話ができた」


 それは発話を指す言葉ではなかった。言語に乗った意味や思いが、向けられた人間へと、向けられた形のままでなくとも、ただ届くだけの出来事であった。


「お願いをさせてもらえた。叶えてくれた。我儘を、甘えを、いいんだよって、許してくれた」


 ロサリオの言葉を遮ることなく、エレノアはその隣でただ黙って続きを聞いていた。その沈黙と寄り添いこそが、ロサリオが欲したもののひとつであった。求めても応えてくれない人たちをよく知っている。遠ざけられる苦痛を覚えてしまった。だからこそ、ロサリオはその続きを口にした。


「その全部にね。“でも”も、“だって”も、あなたは何も言わないから。私はそれが、一番嬉しい」


 そう言って、ロサリオはエレノアの目を見上げた。いつの間にか俯いて微かにしわが寄った眉間とか、不機嫌そうにへの字に曲げられた口元が、だからこそロサリオにとっては愛おしかった。


「同じものをあなたに返せたら、それがもっともっと嬉しい。だからね、私のことを、もっともっと、うんといっぱい、頼ってね。エリー」


 ロサリオの小さな手がエレノアの手に重ねられる。包み込むように指を伸ばそうと、エレノアの決して大きくない手は、ロサリオの両手に覆い隠されることはなかった。

 小さい手だ。エレノアはそれを見下ろして、唇を噛んだ。


「……うん。頼るよ」


 こくり、とエレノアが頷く。その言葉こそが甘えの肯定だということは、エレノアが気付くことはなかった。握った手と同じようにロサリオが言葉を重ねる。


「甘えてね」

「うん、甘える」

「ねだってね」

「ねだる」


 段々と背中を丸めるエレノアに寄り添うように体を添えたロサリオは、ただ静かな声音で言葉を続けた。


 きっと、楽しげに笑っているエレノアにだって泣きたい理由があることくらい、ロサリオは理解していた。そして同時に、それをこらえてしまう心細さも感じていた。

 かけてほしい言葉も、認めてほしい気持ちも、それを無邪気に欲しいと言えない意地すらも。全く同じではないにせよ、ロサリオはその根本にある寂しさと虚しさごと知っていた。


「私の前で我慢しないで、エリー」

「……ロサリオ」

「聞かせて、あなたのこと、あなたの気持ち」

「うぅ、う……」


 エレノアの舌足らずな返事は、どこか涙声のようだった。赤い舌がこらえるように噛み締められた唇の奥に隠れる。それを解すように、ロサリオはエレノアの頬を柔らかく撫でた。

 それがきっかけだったのだろうか。すっかりと頭を抱え込むように背中を丸めたエレノアが口を開く。


「あのね」

「うん」

「私、お母さんと話したかった」

「うん」

「もっと、ちゃんと、こっちを見て、話を聞いて、ほしかった」

「うん」

「お母さんに」

「うん」

「謝り、たかっ……」


 涙声が嗚咽に潰れる。頬を伝う涙を、人気のない川辺でもなお誰にも見せないようにと背中を丸めたエレノアを、ロサリオは静かに抱き寄せた。


「ごめ、なさい。帰れなくて、ごめ、……なさいっ。ひっ、ひとりにして、ごめんなさい。ごめ、な、さ……」


 懺悔が紡がれる。それは謝罪の形をしていたが、その罪を雪ぎたい場所へも、許しを得たい人へも、決して届くことはない。


 残してきてしまった。

 残すほうになってしまった。

 それだけが、エレノアの――浅川祐希の最大の心残りだった。


 どうせいつか見送る側になると、そういう覚悟ばかりがあった。

 どうせいつか支える側になれると、そういう傲りばかりがあった。


 叶わなかった言い訳が、矛先をそろえて自らの心を滅多刺しにする。心臓を潰されるような痛みが、肺を失ったような苦しみが、ふとした瞬間に何度となく襲った。


 それでも。

 それでも、エレノアが止まらなかったのは。


「これ、から、いつか、きっと、あの人を、忘れる日が来る。分かってる。お父さんのときと、同じなんだ。同じように、忘れても、生きていけるようになる。もう、とっくに、そんな日がここに来てる。だから、だからっ、……ごめん、なさい。わたし、わたしは、それでも」


 それでも生きていかなければならないから。

 言葉にならなかったエレノアの声に、ロサリオはそれでも頷いてみせた。


 死にたくなんてなかったのと同じように。

 死んでほしいと願われていなかったことを確信している。無関心のような寂しい態度の裏にあった愛情を、それでもまだ信じている。


 ならば、せめて。

 手遅れの今からでも、生きていかなければならない。

 それだけが、聖骸エレノアとして今を成す自分にできる、唯一の誠実であるのだと信じていた。





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