141話 隘路4
【141】隘路4
きっかけは、蝶だった。
どんなものに化けたところで、その根本がエレノア自身であることに変わりはない。
魚になって水面に一度も顔を出さずに一時間も泳ぐのも。鳥になって地上二十メートルの高さで風に乗るのも。亀の甲羅の外側からの衝撃に骨を揺らすのも。流体の体による輪郭の不確かさに身を震わせるのも。全てに初めは恐怖した。
だから、激流の中を泳ぐ魚を何度も経験し、その冷たさと身にまとわり続ける酸欠の原因に感覚を慣らした。
だから、空高く飛ぶ鳥を何度も経験し、航空写真よりは色彩の豊かな景色に高所への恐怖心を慣らした。
だから、原型を超えた頑強さを持てるよう変容へ付加価値を付ける方法を模索するように、形を変えては留まらない体は末端がちぎれても自らの根幹が損なわれるものではないと実践により確かめた。
だから、その日は蝶になった。
それは、そうして経験を積むための練習の延長だった。
蝶になるのは初めてだった。それになろうと思ったきっかけは、よく鍛錬をする裏庭で、足元を飾る花壇の花にいるのを見かけたからだった。
脚の数の多さや体の軽さ、眼球の構造から触角のような器官など、ただ、そんな操縦感覚の違いを経験しておこうと、そんな気軽さがあった。
鳥のように地に足をつけない虫になって葉っぱの裏から逆さに空を眺めるのは、まるで世界が逆さになったようで新鮮だった。
花に付着した雨粒がまるで枕のように大きく感じられた。人間の膝小僧程度の高さを舞うのは、谷にかけられた吊り橋の上を渡っている気分になった。
問題は、その後だった。
六本の足で花弁を弾き、四枚の翅で空を舞った。そのまま元の人間の体の頭の高さくらいまで舞い上がり、階段を三つ飛ばして駆け下りるように、両の足で着地して、人に戻ろうとしたその時だった。
あれ、おかしい。
いやだ、いやだ!
なんだ。どうして!
おかしい、おかしい、おかしい。おかしい!
“人に戻る”ってどんなんだっけ。
まぶたのない目が精一杯に伸ばされた自らの体の一部を映す。ぶらぶらの伸びているのは管上の口か、はたまた触角か。もしくはそれは細長く頼りない手足だったのかもしれない。
人間への戻り方が、分からなくなった。
爪の生えた指先を。たった二本ずつの手足を。真っ平らな背中を。鼻の先すらも舐められない短い舌を。眼球に暗闇を錯覚させるまぶたを。
いくら想像しようとも。
どれだけ創造しようとしても。
エレノアの小さな体は、人間の手のひらよりも小さな蝶から戻ることはなかった。
次にエレノアを襲ったのは恐怖心だった。死の間際ですらも感じることのなかったほど大きなその感情は、確実にエレノアの判断能力を削り取った。
言葉を話さない管の口が、まるで花の香りを舐めるように左右に揺れる。誰にだって頼れない。発声器官のない体では、助けを求める言葉が人間に伝わる形で出てこない。
それでも必死に辺りを見回したエレノアが、一人の庭師を発見する。
それはエレノアが時折、鳥の姿から戻って見せては脅かして遊んでいた気のいい男だった。
ふらふらと助けを求めるように蝶が庭師へと近付く。日よけの帽子を被ったその視界に入り込んだその時、庭師は鬱陶しそうにその蝶を手で払った。植木の選定をしていた庭師にとって、顔の周りを飛ぼうとしたその虫は仕事の邪魔でしかなかった。
しかし、そんな何気ない動作にさえ、蝶の体は随分と大きく投げ出されてしまう。庭師の腕により乱れた空気の流れが、エレノアの軽い体を背の低い雑草の上に転がした。
地面に転がるまではいかずとも、草の上へと不時着したエレノアの上に影が掛かる。見上げれば、そこには泥に汚れた靴底が見えた。その靴の持ち主である庭師の足がエレノアのいた雑草を踏みつぶす。それはただ移動しようとした産物であり、決して狙ったものではなかった。
かろうじて靴底から逃れ、圧死を免れた蝶が逃げていく様子に、ついぞその庭師が気が付くことはなかった。
まずい、まずい!
エレノアは言葉にできない恐怖と焦りに苛まれる。頼りない翅は、とにかく人気のないほうへと目指して動き続けた。
ただの蝶の一匹に命の尊厳を払い、自我の存在を認める人間など、そうはいない。顔の近くを飛ぶ羽虫を手で払うように、腕に止まった蚊を叩き潰すように、そこに命は考えない。
自らが何者とも思われなくなったような錯覚に、エレノアは目まいがした。
――――
その少女は、塔の窓辺から外を眺めていた。
砂金のように輝いた瞳が、緩やかに地上を見つめる。それはどこか憧れに似ていた。見下ろした風景が、まるで爪先の届かない境界線の向こうであるかのようだった。
腰まで届いた長い金髪を乱雑に垂らし、窓枠に頬杖をつく。やがて、ひらりと舞い込んだのは一匹の蝶であった。その姿を見た少女が呟く。
「珍しいね、蝶は」
少女がいる塔の一室は高く、普段であれば鳥はともかく、蝶が来られる場所ではない。不思議に思いながらも、少女はまるで慣れたような手つきで指先を差し出した。塔の外壁をよじ登ってもでのきたのだろうか、不思議と高い場所まで来てしまった蝶が温度のある止まり木に身を寄せる。
「駄目だよ。こんな所に来てしまっては」
少女はまるで独り言のように呟いた。本来、蝶では決して届かないはずの高い塔の上には、時折、手のひら程度の大きさの鳥が迷い込むことがあった。いつもとは違う客人に対し、少女は横倒しにした指先に止まった蝶を室内へと誘うように窓へと背を向ける。
「駄目だよ。すぐに逃げないと」
窓のわきに座り込んだ少女の指の上、逃げようともせず翅を揺らす蝶は、それでもなおその場所を動くことはなかった。
飢えに飢えた少女にとって、それは乾いた唇に付着する朝露に似ていた。
「そうじゃないと、悪い鬼に食べられてしまうよ」
掠れた声と微かな吐息。それを誤魔化すように、少女はその蝶へと口づけた。花粉のように鼻をくすぐる鱗粉が唇に触れる。
人間が呼吸をするように、水を飲むように。
少女は外部の魔力を必要とした。
吸引体質と呼ばれる彼女の特異性がもたらす欲求は、こうして人にも物にも向けることができないまま、時折、閉じ込められた窓辺に訪れる客人により満たされている。
少女が次に期待したのは、ぐたりと力をなくした小さな虫の姿であった。
しばらく休めば動ける程度の、しかしすぐには飛び立てなくなる、その程度の疲弊。それが少女にとっての朝露の一粒であった。
「え」
しかし、その想像は現実にはならなかった。それが起きたのは、呟きと共に吐き出した吐息を戻すように、少女が息を吸い込んだ瞬間だった。
「きゃ!」
「だ! わ!」
少女の指の上、その重量が瞬間的に膨らむ。髪飾り程度の大きさの蝶は、ぐぷりと泥のようにその身を膨らませ、しかし少女を押しつぶさないように“四本の手足”を床につき、体を支えた。
「も、戻れた!」
焦ったように掠れた女の声が響く。黒い髪、同じ色の瞳。そばかすの目立つ頬と、中肉中背の体格。悪く言えば没個性的。大衆に混ざれば、埋まり、薄れる。そんな女が、そこにはいた。
「あ! ご、ごめん。大丈夫?」
「……た……れ」
「え?」
「あなた、だれ?」
押し倒された姿勢のまま、少女が問いかける。中性的な顔つきの中で、砂金を溶かしたような色の瞳がまるで空を見上げて輝くがごとく、その客人を見上げていた。
きょとり、と客人がその黒い目を瞬かせる。その問いかけが自らに向けられていると瞬時に悟った客人は、すぐさま身を起こし、口を開いた。
「私は、……エレノア。あなたは?」
「わたし? 私は、私、は」
客人――エレノアによって身を起こされた少女が首を傾げる。座り込んだ姿勢では床を撫でてしまうほどに長い金髪が、するりとその肩を撫でた。
「私は、ロサリオ。はじめ、まして、エレノア」
それが、二人の出会いだった。