140話 隘路3
【140】隘路3
欲がないというのは、恐ろしい。
セオドアという人間の返答が、しかしそのまま本心ではないと思えたほうが、いっそ救いのあるくらい、エレノアはセオドアのその屈託ない言葉に驚愕した。
主観性がない。
自分自身のことを舞台装置か何かと割り切っているのだろうか。都合がいいということに関して、その主軸を他人にゆだねている。
それを全て悪いとは言わない。人は人のことを順位付けする。あの人のことが大事、この人のことは知ったこっちゃない。そういうふうに、道を歩く中、見知った顔を見つけて手を上げるように自然に、人は人に対して線引きをするものだ。
けれど、セオドアは。
何か、どこか、決定的に薄っぺらい。
それは、雨上がりに土の上の石を持ち上げて、その裏の湿った影を見ようとしたら、すっかり乾いていたときの得体の知れなさと似ていた。
七日後、詰めに詰め込まれた懇親会が一通り落ち着き、馬車に乗って連れてこられた山間の村で、エレノアはセオドアの背中を眺めながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
「エレノアちゃん、見ててね」
そう言って背後のエレノアを振り向いたセオドアの手には、やはり決して物がいいとは言えない剣が一本握られていた。
今日は聖骸として、王都の西に位置する山間の村に出た巨大蟻の魔物退治に呼ばれたのだ。初日に出会ったオリビアはいない。初めて乗った馬車に揺られたエレノアはセオドアと二人、魔物が出ると言われる森の前に下ろされたところだ。
要するに試運転なのだろう。
背後に数人の聖騎士と、それなりに地位の高そうな聖職者が控えている。彼らの腰にある剣のほうが、セオドアが手にしたそれよりもよっぽど質はいいだろう。ちぐはぐな装備の不平等は、しかしその切れ味をセオドアが必要としない事実を知らしめた。
「せい、やッ」
それはしゃがんだ姿勢から急に立ち上がるため、息を詰める程度の気軽な掛け声だった。セオドアの手に握られた安物の剣が、バドミントンのラケットのように軽々と振られる。
それだけで、前方に広がっていた木々が一度に断ち切れた。
エレノアが両手を回しても抱き抱えきれない太さの幹が、切っ先さえ触れられず、“ただ邪魔だった”だけで切断されて切り倒される。断面は滑らかで、チェーンソーでもこうはいかないだろうとエレノアは感じた。
太い幹にぶち当たった風が跳ね返って、セオドアの後方に控えていたエレノアの髪を揺らす。轟音と共に倒れた幹の数々が起こした土煙が落ち着いた頃、控えていた幾人もの聖騎士とお付きの聖職者の拍手が鳴り響いた。
「さすがです! セオドア様! これほどの量を一太刀とは!」
「えへへ、そうかな。ありがとう」
照れたように頭を掻いたセオドアが、聖職者のおべっかに答える。くるり、と敵意のないセオドアの瞳がエレノアに向けられた。赤茶色のそれに、見慣れない自らの姿が映る。エレノアは、頬のそばかすを隠すように小さく俯いた。
「蟻の魔物はこの奥にいるんだって。エレノアちゃん、一緒に行ける? 無理そうなら僕がここから」
「行ける」
たった三文字の返答は、しかし嘘ではなかった。
ゲームと同じだ。
丸いボタンを一回押したら弱攻撃。右側の人差し指でトリガーを引いたら射撃をして、左の親指が立ち位置を調整するみたいに。
キーコンフィグと説明書、類似した画面配置と経験が、本来複雑だったはずの動きを簡略化し、行使させる。
権能を使うということはそういうことだ。
少なくとも自らのものにおいて、エレノアはその使い方を確信していた。
理解を経て、習得に至り、行使する。
そんなひとつながりの困難さを排除した、結果だけの能力。
その一足飛びの奇跡こそを、権能と呼ぶのだろうから。
「怪物のレパートリーは、私、多いんですよ。ゲーム、好きなんで」
言って、エレノアは笑った。振り上げた手の先から波打つように“肉体が解ける”。
変容。
それこそがエレノアの授かった権能だった。
姿を内包した“機能”の再現。ドッペルゲンガーとスワンプマンの“ようなもの”。
聖骸としての核を内包する肉体そのものを魔力に変換し、さらに魔力を肉体へと再変換する。そこに体積は関係なく、外見から類推できない魔力という資源量に基づき、その肉体を無限大に増大も縮小も可能とする能力。
それが成すのはインプットを度外視したアウトプットの再現。知識、記憶を排した対象の能力や技能を完璧なまでに真似る力。それこそが、エレノアの権能であった。
「お願いだから、怖がんないでよ」
獣の姿が晒される。
爪と、毛皮。牙と、四つ足。
四メートルを悠々と超える巨躯に乗った二つの頭部。
キラーアントなどと呼ばれる“でかいだけの虫”を潰すのにエレノアが必要と断じたのは、そんな巨大な狼の姿であった。
「オ、オルトロスだ!」
聖騎士のうちの一人が叫ぶ。その隣で腰の剣を引き抜く者もいる。臨戦態勢への移行は早かった。しかし、その剣が振るわれることはなかった。一瞬の様子見。躊躇いのようなそれは、動向を窺うようにセオドアへと向けられた数多の視線が物語っていた。
その他力本願のような立候補待ちの一瞬。がぱり、と狼の二つの口が開かれる。その喉から期待された咆哮は、しかし流暢なエレノアの声にとってかわった。
「強いものが欲しいんでしょう。大きくって、聳えるみたいな凄いものが。私がそれになったげる。憧れるでしょう、めっちゃ強くて、くっそでかいのが仲間みたいにかしづく姿。叶えられるよ、そのロマン」
二つ頭の狼が語る。それを見上げたセオドアは、周囲が自分を窺う様子を尻目に懐かしい記憶を思い出し、微かな息を吐き出した。
前世で流行っていた沢山の物語に、そういえば大きな竜がいたりした。主人公の仲間だったり、敵だったり、その関係性は様々だったけれど。そのいくつかが主人公を認め、頭を下げる様子は確かに心躍る何かがあった。
一見して分かる強き者。それに認められるという簡易的な承認欲求の充実。
きっと、同じだ。
狼だろうが、トカゲだろうが、構わない。
これが、これは。
怯えたように交代する周囲と違い、目を輝かせて一歩前に踏み出したセオドアが狼を見上げる。何かを期待するようなセオドアのその視線に、エレノアは鼻を鳴らして吐き捨てた。
「権能は、変容。どう使えるのか、そこで見ていてくださいな」
エレノアが身を変えたオルトロスがそう言い捨てる。目を輝かせたセオドアも、いまだ驚愕から復帰しきれない聖騎士たちも置き去りにして、エレノアは山へと駆け出した。
――――
そこから二カ月も経つ頃には、周囲からエレノアへの評定は終わりを迎えていた。結果は上々とは言い難かったらしいことは、エレノアもその端々に滲む態度から理解できた。
結論として、エレノアの権能である変容が成せる再現は求められていなかったことが分かった。
ただ一人、セオドアだけは酷く気を良くしたようには見えたが、それだけであった。
エレノアという器を用意したこの世界の人間達。彼らが欲したのは現状を打破する前代未聞の奇跡であり、既存の神業の再上映ではなかったのだろう。
エレノアがその権能で聖騎士の一人を真似れば、その人間の可能な技術の行使が可能だった。炎の柱を立てて木々を燃やすのも、水浴びよりも強い濁流で石に穴をあけるのも、それを可能とする個人を模倣したエレノアには難しいことではなかった。
だから、エレノアは最低限以上に戦うことができた。それは決して難しいことではなかった。
できたが、それでも。
現状はそうして人が一人増える程度の人員不足では済まなかったのも、また事実だった。
では魔物を再現してはどうだろう。人が徒党を組んでさえ、たったひとつをやっと打ち倒せるほどのそれを再現できるのならば、もっと大きな力を期待できる。しかしそうしたところでも、やはり根本的なところで変わることはなかった。
対峙する魔物より強いものに変容すれば、エレノアはその場においては必ずと言っていいほどに確実に勝利できる。相対的に相手より強いものになり続ければ、エレノアは決して負けることだけはない。
しかし、そうやって大なり小なりの比較を続け、常に相手に上回る姿を借りて勝ち続けたとしても。それをずっと繰り返した先の最上位の存在にぶち当たったとき、エレノアには対処のしようがない。そう判断された。
やがて挑むべきもの。
種と呼ばれる存在。
それは彼らにとって、あまりにもとてつもなく強大なものであるらしかった。
それに対峙したことのないエレノアにとって、その脅威は聖骸エレノアが生前に聞きかじった知識でしかなく、肌感覚とは程遠い。
ましてエレノアは、それに挑むとき、挑む人間それ自体が自分一人である可能性をそう大きくは捉えていなかった。
だって、ここには既に三人の聖骸がいる。
誰か一人で挑む必要性がない。全員で並んで戦えばよいのだ。だのに、奴らは単騎での戦闘能力しか評価しない。
たった一人で種に挑まなければならない。
そんな、エレノアにとって空想が過ぎるように感じるもしもの対峙において、エレノアにできるのは同じ力を突き合わせた拮抗であって単独での勝利ではないと。だから優先度が低いのだと。
そう言って、エレノアの力に人一人足せばいいだけのものを、彼らは決して評価しなかった。
聖骸とは神の遣いなのだから、他者の力などなくとも完璧であれと。
それがそういう観念に基づいていることも、やはりエレノアはすぐに理解した。
“だから”、努力した。
太い足や立派な翼でより早く駆ける方法を模索して。
分厚い毛皮や鱗で痛みが和らぐのだと信じ込ませて。
岩も、肉も、甲羅も、骨も。全て滞りなく破壊する効率を追求した。
手に入れなければならなかった。
能力や、評価や、賞賛が付随する、その信頼が欲しかった。
だってここには何もない。
机に座ってペンを走らせるような精進も、運動着に着替えてあくせくと汗をかく努力も、血の繋がりにあぐらをかいて求め続けた関係も。
自分を形作っていたように感じたそれらは、たった一回きりの死を経て、根本から全て不必要とされた。
自分という人格を形作ってきた数多くのものは、この世界には何もない。自分の指先に生える爪の一枚にも、他人から見えられる記憶の片隅にも、一つだって存在してはくれない。
それでもなお継続していたのは、何だったのだろう。
自分という土台の地続きだと言えるのは、形とも資産ともつかない、たった一つの、あまりにも不確かな心だけとなってしまったようにエレノアには思えた。
動機はそれだけだった。
ただ、以前みたいに“いつか、きっと”を期待できるくらい、自分を一番に近い場所に置いてくれていると信じられる誰かが欲しかった。
だからこそエレノアは、自らが持たされた権能という“ずる”をものにしなければならないと焦ってしまった。そうでもしなければ、自らの価値に自信が持てなかったのだとも言えた。
そうして、チュートリアルを終えて初心者マークが取れた頃、エレノアは適正レベルのその倍の場所にいた。それは元来の勤勉さからなるものではあったのだろう。そして同時にその勤勉さは、まるで青天井のように留まるところを知らなかった。
役に立たないと。
役に立つと思われないと。
じゃないと、いつか、役立ずとして捨てられる。
エレノアは焦っていた。
そうして、初めてしくじった。