139話 隘路2
【139】隘路2
次にエレノアがセオドアと会ったのは、翌朝のことだった。
セオドアと共に暮らすことになったのは、王都に設けられた聖骸用の屋敷の一つだった。与えられた自室で倒れ込むように眠りについたのは両手を広げてもあまりあるベッドで、一人で眠るには広過ぎるそれに、満足感を抱く前に虚しさを感じた。
食事を行うのは聖骸専用の食堂で、そこには十人が余裕で座れるほどのテーブルと、目のやり場に困るほどの装飾品の数々があった。
「おはよう! エレノアちゃん!」
それはセオドアの言葉だった。朝食の用意された席に既についていたセオドアは、しかしエレノアの登場を待っていたらしく、両手を膝につけるようにおとなしく食堂の席に座っていた。
「はよう、ございます」
舌足らずな返事をしたエレノアは、恐らく自分の分だと予想される朝食が並べられた席へとついた。それは長テーブルのど真ん中、セオドアのちょうど向かい側の席だった。
「今日はね、みんながエレノアちゃんと顔合わせしたいって、パーティを開いてくれるんだって」
「そ、なんですか」
「うん! みんな楽しみにしてたよ!」
ぶっきらぼうな返事をしたエレノアにセオドアはそう言って、用意された朝食、その中でもまだ温かな温度の残るパンを手に取った。動きやすさを残しながらも質のいいシャツ、黒を基調としたパンツとベストに身を包んだセオドアは、くしゃりと笑ってエレノアに朝食を勧める。
「食べなよ。お腹、空いてないかもしれないけど」
「……いただきます」
勧められるがまま、手を合わせたエレノアは習慣となった言葉を口にしてサラダに手を付けた。エレノアが袖を通しているのはセオドアと同じようなシャツとスラックスだ。
朝になって初めて手を掛けたクローゼットの中には大層豪華なドレスが所狭しと詰められており、淑やかな令嬢あたりを思わせるそれに、エレノアはすぐに扉を閉じたのを覚えている。
着替えを手伝うという名目でエレノアの部屋に訪れたのは女の使用人で、エレノアはすぐに首を横に振ったのだ。着替えなどという酷くプライベートな部分を他人に明け渡すことに、現代人、まして思春期のエレノアの感性は耐えられなかったし、ましてドレスなどという服を着るのは自分の酷く曖昧で言語化できない感性が邪魔をした。
すぐに動きやすいシャツとスラックスあたりを求め、それを手に戻ってきた使用人を追い出すところからエレノアの本日が始まったのだ。
随分と疲れた気がする。それは今日に始まったことではないが、しかしそれはそれとして今日になって生まれた疲労は確かに存在した。
「ここって、なんなんですか」
エレノアが訪ねる。飲み込んだサラダはみずみずしく、やわらかい葉物野菜が主だったが、どこか味気なかった。
「何って、異世界だよ。すごいよね、異世界転生!」
そう言って、セオドアは当然のように笑った。
――――
その夜に開かれたパーティは開始から一時間で抜け出した。
我慢して着せられた青いドレスはとにかく動きにくかったけれども、嫌になったのはそれだけが全てではなかった。
ああ、値踏みされている。
上手に隠しながらもしかし確実に注がれた幾つもの視線に、エレノアは辟易した。同じだけのものか、それ以上が向けられているセオドアはまるでそれが称賛か応援のように思えているらしく、とにかく終始嬉しそうにして浮かれているのが印象的だった。
「エレノア様、はじめまして」
そういって、何人もの人間が頭を下げてはその目をエレノアに向けた。
聖骸エレノアも生前の祐希と同じくらいの年頃の娘の体だから、そう背は高くない。それでもその低い背を必死に下回ろうと首を垂れる何人もの人間たちが、しかしどこまでも強かに自分を観察する様子を、エレノアは理解していた。
賢い彼女はやはり、人に良く見られる方法を知るように、人が人を評価する際の目に敏感だった。
「お初にお目にかかります、エレノア様」
入れ替わり、立ち代わり、次から次へと人が変わる。青いドレスに合わせて用意された高いヒールの靴は歩きにくく、簡単にはエレノアをそこから逃がしはしなかった。
「エレノア様。御身への謁見に与れたこと、光栄にございます」
多分、我慢の限界が来たのは三十六人目だった。挨拶の冒頭パターンが大体五種類だとカテゴライズできたところで、エレノアは音を上げた。
録音した音声で踊る花を眺めていたってもう少し長続きしたかもしれない。だってあれはこちらを値踏みしない。
初めから、聖骸の知識が提示したことは嘘ではなかった。
種を退けるため神が降した遣い、転生者。
当然、向けられるのは現状最大級に問題視されている人類滅亡レベルの課題解決だ。
この女は使えるか。
下からこびへつらったように上げられる視線が、その実、何を考えて向けられているのか。不幸なことに、それを理解できないほど、エレノアという人間はその年に見合った未熟さを持ち合わせていなかった。
「エレノア様のご活躍を楽しみにしております。そうだ、西の村に魔物が出たという話がありまして、どうでしょう。練習台になどされてみては」
絵にかいたそのままに、手を擦り合わせた男が言う。質の良い衣服とは裏腹に、まるで怯えた野良犬のように背中を丸めていた。
「それは……、まだ少し、怖いです」
様子を偽ることは苦ではなかった。エレノアは対面した男が自らを下に見せるために背中を丸めたように、弱々しく口元を覆った。恐怖を語るにはまだ現実感が追いついていなかったが、それでも無防備に胸を張るのは良い結果に繋がらないと考えていた。
「恐れることなどありませんとも。セオドアさまも目覚められて三日と経たないうちに、いくつもの魔物を退治して回られたのですよ。三つ首の狼も、馬車より大きな怪鳥も、まとめてです。あなた様も、権能があればきっとなんら問題などないことでしょう」
「権、能……」
「ええ。ええ。素晴らしいお力です。ところで」
言いかけた男がにたりと細めた目で見上げる。祝杯を舐めた程度の酒気を帯びたその口が、かぱりと開いてその言葉を口にした。
「エレノア様の権能は、どのようなものでしょうか」
結局、つまるところはそれに尽きるのだろう。
彼らは終始、装飾をしたその言葉で、エレノアの能力ばかりを値踏みした。
――――
確か、その後は曖昧に笑って逃げ出した。
人に酔ったとか、初めて酒を口にしたからとか、そういうことを言って、気分が悪くなったと席を外した。人を付けると言われたので、自分で歩けるので一人がいいと、そう言った気もする。
「エレノアちゃん!」
自室へと戻る廊下の途中、エレノアを追ってきたセオドアの声が掛かる。式典用の刃を潰した剣が腰に下がっていたので、それが何か恐ろしかった。
「セオドア」
「大丈夫? 具合が悪いって聞いたけど」
「平気」
「そう? でも、心配だから部屋まで送るよ」
くすんだ赤毛を揺らして、セオドアが言う。エレノアは、その提案に一つ頷いた。
「じゃあ、お願いします。私も、あなたと話がしたかった」
エレノアの言葉に、セオドアは酷く嬉しそうに頷いた。つるつると磨かれた廊下の床に足を滑らせるように、エレノアは履きなれないヒールを鳴らして歩を進める。
「話って何だろう。なんでも聞いてよ」
「戦うって本当ですか」
胸を張って隣に並んだセオドアにエレノアが問いかける。短い言葉であったが、それはパーティ会場でエレノアの胸にくすぶっていた違和感のような疑問の全てだった。
「本当だよ」
返事もまた、短いものだった。笑顔を記号化する際に、口や目を三日月形に描くように当然に、セオドアはなおも笑って言葉を続ける。胸に手を当てて背を伸ばすその様は、どこか誇らしげに感じた。
「種が魔物を生んで、人々が襲われている。それをどうにかできるのは僕たち聖骸だけなんだ。だから僕たちが何とかして、みんなのことを助けなくちゃ」
「それは……、それをしなければ、あなたが、何か、困ることですか」
「困る?」
「あなたの話は、あなたの話じゃないみたいだ。あなた、それをして、何が欲しいんです」
エレノアは問いかけた。それはエレノアにとって、あまりに当然の価値観であった。
期待に応えるため、努力することを苦としない素養はある。
けれど、それに求める対価も、下支えする信頼関係も、当然のようにエレノアは必要とした。
役に立てるかなんて、期待に応えられるかなんて、やってみなければ分からない。経験すらしていないことを、もっともらしく可能だなんて嘯く気もそれほどない。
けれど。けれども。
仮に、命を賭して戦うとして。
なら、あなたたちは私に何をしてくれる。
死ぬかもしれない場所で、死ぬかもしれない目標に挑むことを望んでいるくせに。
その報酬が後払いでいいと了承できるだけの関係性なんてもの、土から簡単に生えてくるものでもなし、積み上げてすらいないというのに。
すべきをしろとばかり。
なにができるのだとばかり。
そういうふうに人を見ることに引け目すらないような彼らの“当然”を察知をした上で、理解はしなかった。
だって、種を破壊してほしいと、そういうことを願う上で。
そのために、あなたたちは何を提示できる。
そればかりが、何も見えないままじゃないか。
価値観と言えば言葉少ななそれは、きっと報いに対する信頼感情だ。これをすれば救われる。あれを成せば満たされる。押し付けるように提示されたのは彼らのしてほしいことばかりで、エレノアのしたいことは、欲しいものは、何ひとつ尋ねられすらしない。
彼らは、エレノアの“欲しい”に関心すらもないのだろう。
それが既にどうしようもないほどに手遅れで、ここにいる限り取り戻せないことだと、彼らは知らない。自発的に自らの願望を口にしないのは、誰にもそれを用意できないからだという事実も、やはり彼らには意味をなさない。
彼らは“エレノア”という一個人に関心がない。
その無関心が、どこか歪で座りが悪かった。気色が悪いと言い換えてもいい。下から見下されているという感覚が、きっと最も近かった。
だから、だろうか。
「欲しいものかあ。でも僕は、何って、ないよ」
事も無げにセオドアが口を開く。雨が降ったから足元が悪いですね、とでも言うほどに気負いなく、当然に。青く塗った板が青く見えることが当たりまえ過ぎるほどに、その男は言葉を続けた。
「だって、みんなが困ってるし」
へらり、と笑う。
セオドアのその返答に、エレノアは寒気がした。