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錫の心臓で息をする  作者: 只野 鯨
第二章
138/144

138話 隘路1


【138】隘路1




 眠りから覚める寸前の、浮ついた暗闇。

 現状に疑問を持つには足りない、眠気のように浮ついた思考。


 多分、きっと、眼球はない。

 それを認識できないほどに、曖昧な意識だ。

 しかし、まぶたの裏に投影されたような、がしゃがしゃにカラフルな粒をまぶしたその黒は、確かに空間としてそこにあった。

 

 祐希がそれを認識した瞬間、一つの音が聞こえた。耳もなかったが、それでもそれはまるで波のように揺らめいた音として祐希の意識に届いた。


 ――えらんでいいよ。


 それは少女のような、少年のような、酷く幼げな声のようでいて、しかしそれを否定できるほどには、さざなみのような音だった。

 言葉として象られているかどうかすら曖昧なその音は、しかし祐希にその問い掛けだけを如実に伝えた。


 ――えらんでいいんだよ。


 音が、そう繰り返す。

 多分、目の前には二つの選択肢が提示されたのだと思う。


 思う、と曖昧なのは、祐希にはそれを視認することができなかったからだ。ただ感覚的に、選択肢は二つだと悟った。

 テーブルの上にカードを並べて、あなたの命運は? だなんて尋ねるように、それは至極当然と言わんばかりに問い掛けているようだった。


 ――“きみは”えらんでもいいよ。


 その幼げな何かは決断を示そうとしない祐希に対して、さらにそう続けた。


 二つのうち、どちらか一つ。

 早く選べと言わんばかりに突きつけられた、中身の見えない、形すらも分からない選択肢。


 多分、祐希は右を選んだ。

 何か理由があったわけではない。ただ急かされているような気がしたから、焦って利き手のほうを意識しただけだ。


 ――きみはそっちね。


 手もない祐希がそれでも右を選んだので、その幼げな音はそう言ってくすくすと笑った。

 

 笑って、口を開いた。

 それには、口があった。

 声未満の音色を放つそれは、それでも人の形をしていたのだと、祐希はようやく気が付いた。


「じゃあ、わたしは、こっち」


 そう“言って”、その幼げな何かは祐希が選ばなかった左の選択肢を小さな手で掴み取った。




 ――――




 さて、しかし。

 そうして浅川祐希がその人生を閉じた後、新たな意識を獲得したのは完全なる不意打ちの出来事であった。


 死んだと思った。車に轢かれたのだから、当然に、当たり前に、あっけなく、死んだのだと思った。

 だから、瞬きをするみたいに一瞬で、新たな意識を獲得したとき、これは夢に違いないのだと祐希は思った。


 目覚めたのは棺桶の中だった。すり鉢状の床の上、辺り一面に同様のそれが並ぶ光景。寝台と呼ばれるその墓所は、見慣れない以上のうすら寒さを祐希に感じさせた。


 瞬きを一つ繰り返すたびに色々な知識がごちゃまぜに脳裏を過る。

 聖骸、死体。転生者、権能。種と、神様。

 どん詰まりの世界でもなお、被せられた救いへの期待。


 言葉や価値に重ねてまくしたてるように思い出されるのは沢山の名前や顔、声や匂いだった。

 きっと、それは聖骸エレノアの親しい人間達の記憶だ。片手じゃ足りないその人数を理解した途端、祐希はそれを数えるのをやめた。きりがなく、際限がない。今、私はそれどころではない。吐き捨てたかのような祐希の拒否を肯定するように、その寝台の扉が開かれた。


「目覚められた!」


 それは石造りの床を震わせるほどの大きな声だった。扉を開いたシスター然とした数人の女達、その中心に立った男が目をこぼさんばかりに見開いている。


 それが半年前のこと。

 聖骸エレノアの、はじまりの日であった。




 ――――




「夢なら許せた?」


 それは現状を理解できないでいた祐希にかけられた言葉だった。


 高飛車な足音と共に近寄ってきた同郷の女に開口一番で言われた言葉がそれだったので、面食らったことを覚えている。


 それは目覚めた棺桶から連れ出され、お淑やかなシスター達と司祭を名乗る男に連れられるまま足を踏み入れたきらびやかな宮殿。顔合わせだと言って、たった一人で座らせられた絢爛豪華な講堂の中のことだった。


 随分と座り心地の悪い椅子だと思った。

 豪奢な飾りとは裏腹に、睨まれたかのようにとげとげしい装飾が、その持ち主の権力を誇示するかのごとく、床上の四本足から座高を追い抜いた背もたれまで巻き付いている。勧められるままに腰掛けたそれに、祐希はしかし深くもたれかかった。


 考えたくなかった。

 胸に抱いていた錆猫の逃げた先だとか、高く立ちのぼった煙の根元だとか、連休が終わってもなくならないテーブル上の現金を見ることになるだろう母の気持ちだとか。


 そういうことを、祐希は考えたくなかった。少しでもその優秀な頭の行き先をそれに向けてしまえば、採点できないながらもおおよそ正解がうかがい知れる現実が考え付いてしまいそうで、祐希はそれを拒絶した。


 だからだろうか。

 ぼんやりとして、シスターや司祭からの言葉にすら、本当に目覚めたのか曖昧なまでに無反応を貫いた祐希が、その言葉に顔を上げたのは。


「きっと、悪い夢なんだって、そういうことを思った?」


 呆然として椅子に腰掛けたままの祐希に、その女は繰り返し言った。

 濃い灰色の髪と瞳。真っ黒なブラウスとコルセットスカート、悪路を歩くようには見えない質のいいブーツ。その上に羽織った厚手のコートは長袖で、白んだ女の肌をすっかりと隠していた。

 それは傍から見れば喪服姿のモノトーンの女で、その恰好に似合ったように、酷く疲れきったような表情をしているのが印象的だった。


 不健康なまでに痩せ細った体つきと、すらりとした平均よりほんの少し高い背丈。ぴんと伸ばされた美しい姿勢と反して、眠たげに伏せられた目元と、がさがさに割れた唇が酷く目に付く。


 女は、名を聖骸オリビアと名乗った。


「夢みたいだと思ったんでしょう。本当にそうならよかったけれど。ご愁傷さま」

「ご愁傷さまって……。これ、なにか悪いことなんですか」

「ええ。勇気があるなら今のうちに眠りなおしておきなさい。そのほうが自分のままで終われる。縄がいるなら用意するけど」

「……今は、いらないです」

「そう。後悔、しないといいわね。必要になったら言って」


 低いヒールのついたブーツを履いたその女は、それだけを言い残して、さっさとどこかへ消えてしまった。かつかつと高く鳴らした靴音がすっかりと消えるほどの時間を置いたのち、入れ替わりに赤毛の男が入ってくる。その赤毛の男はどこかおどおどとした態度で祐希に近寄った。


 蝋燭の灯りに灰を溶かしたような清潔に手入れされた淡い赤毛だ。人懐こく目じりが垂れた濡れた赤土色の瞳は、まるで顔色をうかがうようにじろじろと祐希の様子を観察した。


「はじめまして! 僕はセオドア! 君の名前は?」

「浅川です。浅川祐希」


 祐希のその返事に、赤毛の男は困ったように頬を掻いた。ええと、ううんと、わざわざそう声に出して迷っていることを態度に出したその男は、しかし意を決したように、だがどこか申し訳なさそうに口を開いた。


「ええとね。こっちじゃあ皆、別の名前を使うんだ。ほら、その体、なんて言うんだい?」


 そう言って赤毛の男は、つい、と伸ばした人差し指で祐希の胸元を指さした。鎖骨よりもほんの少し下。きっと、その指は心臓の辺りをさしていた。


「……エレノア、です」


 不躾にも他人の急所となる胸元を指さしてくる男に、どうしてか不快感が湧いた。


「エレノアちゃんだね! よろしく!」


 喜色満面の笑みを浮かべた赤毛の男――セオドアが、うつむいたままの祐希――エレノアの手を取って一方的に握手をする。

 その手を握り返す気が起きなくて、エレノアはセオドアが満足するまで力の抜けたその手をされるがまま上下に振られ続けた。

 

「転生者は君で三人目なんだよ! オリビアさんには会っただろう? 僕と彼女と君で三人! 同じ転生者同士、これから仲良くしようね!」


 返事を返さないエレノアに、しかしセオドアは一方的にまくしたてることをやめなかった。頬を染めて屈託なく笑うセオドアは、きっと言葉の通りエレノアとのこれからの関係が友好的であることを望んでいた。


 彼の態度は悪いことではないはずだった。けれどエレノアは、祐希は、その速度についていくことができなかった。待っていてほしかった。あとほんの十五分もあればちゃんと落ち着いて周りをみることができる気がしたので、それまでは待っていてほしかった。


 さっきのオリビアみたいに察した顔すら見せないで、それでも分かってくれたみたいに一人にしてほしかった。

 そうじゃないなら、どんなに不愛想でもいい。知らない顔して隣にいても構わない。たった一回だけでいい。動き出すその前に、行きたくないって首を横に振れるよう、行こうかって聞いてくれるみたいな何かが欲しかった。


 我儘なのは分かっていた。それでも、これからなんて言ったって、それを受け入れるだけのキャパティシーが心の中に確保できていない。待ってくれと自分の口から求める体力すら、どうしてか湧いてこない。


 だって、あまりに気がかりで、どうしようもないのだ。


 どうせ死ぬならきちんと知りたかった叔父の安否だとか、あの錆猫の行方だとか。

 例え誰の耳に入らなくたって、自分がただいまを言わなかった事実だとか。

 きっとそれを認められない母のこれからのことだとか。


 捨てきれない。諦めきれない。

 そのくせ、この死体の知識が、もう手遅れだという言葉ばかりを繰り返すのだ。

 分かっている。死んだ人間は戻れない。そんなことは、とっくの昔に知っている。父が亡くなったとき、母からも叔父からも耳が腐るほどに言い聞かせられている。


 それでも止まりたくなるのだ。そうじゃなくちゃあ、今までのことが何だったのか、分からないままでのこれからに意味が見いだせない。


 けれど、そんな弱った少女の心をセオドアが理解することはなかった。言葉にされなかった、できなかった思いは、当然のようにないものとなる。それは当然で仕方のないことだ。それでも。


 悪意はない。

 悪意はないだけの、無神経。

 きっと、それこそがセオドアだった。


 死んだばっかりだなんて、だから心の整理がついていないのは当然だなんて、そんなこと。

 自分がとっくの昔に通った道だからこそ陳腐に見えたのだろうか。それとも自分は下を向かないで歩き出せたから、それが傷になるはずがないと思い込んでいるのだろうか。それは出会ったばかりのエレノアにはうかがい知れない。


 けれどもその赤毛の男は、エレノアの垂れ下がった腕をただ強く握りしめ、持ち上げた。止まっていないで動けと言われているようで、気色が悪かった。


「さあ、早くみんなの所に行こう! 紹介するよ! この世界の人って、みんな凄くいい人達ばっかりなんだ! きっと君も気に入る!」


 意気揚々とエレノアの腕を引いたセオドアが部屋の扉を開け放って言う。

 夢みたいにサブカルとして消費尽くされた願い事の積もりに積もった異世界なのだから。

 

 きっと。

 当然。

 当たり前に。疑うべくもなく。


 “お前もそれを望んでいたのだろう”という決めつけが、その態度の下には確かに透けて見えた。理想郷の案内人を気取って笑う赤毛の男が、ぐたりと力無いままの腕を引く。


 多分、そのときにはなんとなく分かっていたのだ。

 この男とは、きっと、致命的に馬が合わないのだと。


 それがエレノアと聖骸セオドアのファーストコンタクトだった。




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