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錫の心臓で息をする  作者: 只野 鯨
第二章
137/144

137話 末路3


【137】末路3




 帰り道の空はまだ明るかった。

 冬も終わり、春のさかりを過ぎたためか、だんだんと一日一日の日が長くなっていくのを感じる。長期休みの最終日ということもあって、人通りも決して少なくはなかった。


 祐希が自分の家に帰りつくまでは、おおよそ十五分程度、緩やかな上り坂を歩くことになる。

 自転車通学の学生が時折サドルから尻を離すくらいのその坂を登りきれば、祐希の家のある地域に辿り着く。そこは町を見下ろすには十分な高さのある丘の上だった。


 祐希の家と和博のアパートの間には太い道路が一本横たわっているものの、周辺のほとんどがベッドタウンの様相に近い。夕方を目前に控えたこの時間、特に大型連休の最終日ともなれば家を空にしている家庭の割合はいくぶんか低くなるだろう。


 雪解けに合わせて新調したスニーカーでなだらかな坂を登る祐希が、大通りの信号が青になったのに合わせて横断する。

 毎年のように工事を繰り返したアスファルトは継ぎ接ぎになり、砂利道かと思うほどに歪だ。決して狭くない通りのくせに、歩行者の足取りすらも邪魔をするような表面をもつ道は、地元ではもっぱら有名な悪路だった。

 その頭上では、すっかりと葉を茂らせた桜並木が吹きすさぶ風の強さを教えてくれる。


 その大通りを過ぎれば、住宅の風景はまた一段と変わった。和博が住むアパートのような手ごろな賃貸は数を減らし、途端に真新しい壁の一軒家が目につくようになる。


 手入れに手間のかかりそうな植木や、締め切ったガレージのシャッター。爪でつつけば硬い音を立てそうな表札は、センスのいいブリキ風のポストと同様にアルファベットの並ぶものが増えたように思う。


「う、わ!?」

 

 それは祐希の家まであと三分といったところだった。足首を隠すほど長いズボンを履いた祐希の両足、その間を吹き抜ける風と共に、器用にも一匹の錆猫が駆け抜けた。


 犬の芸のように精密に祐希の足裏を避けたその錆猫は、すととと、と足早に数歩通り過ぎ、立ち止まる。長いしっぽをぶわりとふくらませて振り向いたその猫に、祐希は見覚えがあった。


「にゃーすけ?」


 それはついさっきお別れしたばかりの和博が飼っている猫だった。しかしそれに気が付いた祐希が首を傾げる。だって、この錆猫が外にいるはずがない。


 和博は猫を外に出さない。普段から常にあのアパートの部屋の中にいて、なんなら冬の訪問の度に入り込む冷気に文句をつけるようにこたつに隠れていく錆猫が、こんな場所にいるはずがなかった。


「にゃーすけ、どしたの。なんでこんなとこいんの?」


 目の前で落ち着きなく身体を震わせる錆猫を怖がらせないよう、祐希がその場にしゃがみこむ。誘うように祐希が手を差し出すと、その錆猫は飛び込むようにしてペンだこの目立つ右手の中指に擦り寄った。


「出てきちゃったの? おうち帰る? おじさん、きっと心配してるよ」


 祐希の言葉に錆猫がひとつ、にゃあと鳴く。その拍子に見えた舌先が酷く白んで見えた。


「おいで。連れてったげる」


 そう言った祐希の手が錆猫の腹に回る。されるがままに抱き上げられたその猫は、ほんの少しだけ煙の匂いがした。

 ああ、そうか。未成年が帰ったから、和博が煙草でも吸い始めたのだろう。長い毛足がそれをうんと吸い込んで、ここまで香りを運んだのだろうか。


「こんな、だっけ」


 しかし祐希はほんの少しの違和感を殺しきれず、小さく呟いて首を傾げた。和博の吸う煙草は父とは違ってメンソール系の爽やかな香りだったはずだ。吸い込んだことを理解したその瞬間、鼻の奥を突き刺されるようなその香りは、その人が父とは違う人だとよく知らしめるようで、祐希は好きだった。


 真新しいスニーカーが来た道を戻ろうと踵を返す。片道十五分の道程、その残り三分弱の地点からは、スタート地点がよく見えた。


「え、なに、火、事?」


 それは灰色の煙だった。部屋の隅にたまった埃を丸めて固めたようなそのシルエットが、次から次へと空高く上がっていく。ここまでその臭いが届かなかったのは風上だったからだろうか。なだらかな坂の上から吹き降ろす風は、その全ての痕跡を少女から遠ざけてやまないようだった。


 遠く、かんかんと響く消防車の音がようやく聞こえ始めてから、祐希は固まった思考が解けるように動き出す。ぞ、と背筋を流れ落ちるのは、恐怖に似た既視感だった。


 その火の手が上がるのは、大通りの向こう側、ここから歩けばちょうど十二分くらいの場所だ。家に辿り着くその寸前に、よく振り返るから覚えている。

 独り身の人間が住むのに困らない、狭いアパートのくすんだ屋根。錆が雨樋から広がるようにふちどったその休憩所は、またいつでも来ていいのだと祐希の背中を押してくれた。


 煙がのぼる。とめどなく煙る。決して小火などでは済んでいないと、そう確信できるほどの、できてしまうほどの煙が、のぼり続ける。


 その煙の根は、少女の憩いの場へと結ばれていた。


「お、じさ、ん!」


 錆猫を抱き上げた祐希が走り出す。爪を立ててまで振り落とされないよう必死にしがみついた錆猫は、しかし決してその腕から逃げ出すことはなく、黒い毛に混ざった煤を少女の服へと擦り付けた。


「い、うそ、うそ」


 言葉にならない祐希の焦燥に、胸に抱えた猫の爪先が穴を開ける。シャツを貫通して血の滲んだ己の肩に、しかし祐希は気が付くこともできなかった。


 今日は調理はしていないから火の消し忘れはありえない。和博は疲れた様子だったが煙草が切れたと言っていたので、こんなすぐに寝煙草をしたとも思えない。


 だから平気。だから違う。あれは和博の家じゃないし、錆猫が逃げたのは和博のうっかりのせい。もしかしたら野次馬でもしに行って抱えた猫を逃がしたとか、いや、外に猫を連れ出す人ではないし、そもそも野次馬をする人でもない。


 なら、なに、なにが、なんで、どうして。

 じゃあ、なんで、この子から、煙の臭いが。


 言い訳は、結局浮き足立ったまま現実に着地しなかった。

 大通りに差し掛かった祐希の視界に、アパートへと続く路地に曲がっていく消防車の赤い尻が映る。周りの車は徐行していたが、消防車が角を曲がるにつれ、立ち並ぶいくつかの車はそのブレーキから足を離し始めていた。

 多くの運転手はなんだ、なんだとウィンドー越しに状況を把握しようと必死だ。目線の先は消防車がすっかりと姿を隠した路地の入口と、未だに立ち上る恐ろしい煙の塔だ。


 だから、誰もそれを見てはいなかった。


 緊張と恐怖から視野が狭くなり、水が入ったように周囲の音すらも上手く聞き取れないほど必死なってしまった少女が道に飛び出してしまったことも。

 その少女が猫を大事に抱えていたせいで背中を丸めて普段よりも幾分も背が低くなってしまったことも。

 例え寸前まで徐行していたとしても、走り去っていった消防車に気を取られて、死角から入り込んだ人間に気が付かなかった大型トラックがいたことも。

 突き飛ばされるよりも緩やかにそのバンパーが少女の足に当たり、運動の得意じゃないその少女が道に転んでしまったことも。


 まして、工事を繰り返して歪になったアスファルトが走行中の車を常に揺するように、ああ、またここも随分と酷い段差があるんだなどと、集中力を切らした運転手がブレーキから離した足でアクセルを踏んでしまったことも。


 そうして、錆猫が腕を抜け出していった少女の肺の詰まった胸の上を、運の悪いことに積荷をいっぱいに背負い込んだ太いタイヤが乗り越えた、その瞬間ですら。


「ぎゃ」


 そこにいる、誰もが気付くことはなかった。

 

 そうして、浅川祐希の親不孝な一生は終わりを迎えた。




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