136話 末路2
【136】末路2
祐希が叔父である和博の家を尋ねた際に言ったように、彼女の母は連日外泊をする我が子に対して特に口を出すことはなかった。
その無関心とも寛容とも言い難い不干渉をいいことに、祐希はゴールデンウィークの半分を和博の家で過ごした。
「明日なんか来なくていいと思うんだ」
それは和博の言葉だった。明日から仕事が再開されるらしく、脱力した体でローテーブルの脇に溶けている。ゴールデンウィークの最終日、和博はどうやらだいぶ気落ちしているらしかった。
家に入り浸る代わりにと自主的に家事をするようになった祐希が、部屋の奥から聞こえた和博の声に皿洗いを中断させる。ぼやいた和博を覗くように祐希がキッチンから顔を出すと、微かに残った水滴が流れる手のさらに下、その足元を錆猫が通り抜けていった。
「明日が来ないのもいいけどさ、そしたらいつまで経ってもスノボ行けないよ。五月に雪は降らないもん」
「夏いらない」
「夏がなくても春秋があるじゃんか」
「春と秋もいらない」
ウィンタースポーツが好きな和博にとって、冬以外の季節というものは付属品に劣るらしい。冬が終わると毎年こうしてよくごねるのだ。
祐希はいつものことだと肩をすかして、皿洗いへと戻っていった。再度捻った蛇口の下、油を食べた食器洗剤の泡をペンだこの目立つ指が洗い流していく。呆れを隠し切れない様子の祐希は、心底うんざりしたと言わんばかりに口を開いた。
「勘弁して。ようやっと寒空に生足スカートで登校しなくてよくなったんだから」
「寒そ」
「裸足サンダルで豪雪の中、コンビニ行ける人に言われてもなあ」
最後の一枚を洗い終えた祐希が鼻を鳴らして言う。諦めのようにごろりと寝返りをうった和博の頬に、錆猫が頬擦りをしながら通り過ぎていった。ぼやきを止めない口の脇に赤茶けた猫の抜け毛が付着する。
「会社爆発しねえかなあ」
「しようとしない限りしないんじゃない?」
「誰かしてくんねえかなあ」
そう言って大きく溜息を吐いた和博は、しかし錆猫の抜け毛が鼻をくすぐったのか、ひとつ大きなくしゃみをした。換毛期のピークは過ぎたものの、手触りのいい体毛が皮膚に接着剤で固定されているわけでもない。
猫飼いの勲章を剥がすための粘着テープ式の掃除道具は、しかし動くことすら億劫がっている男の手では届かない程度に遠い場所へと安置されていた。
「にゃーすけ、抜け毛、ひどい。祐希、ブラシ」
ものぐさが行くところまで行ったのだろう。寝転んだまま単語の羅列で要望を上げた和博に、祐希は呆れたように溜息を吐いて口を開いた。
「他力本願、駄目男」
「こんなに可愛いにゃーすけのブラッシングはむしろごほうびじゃない?」
「それを言っていいの、にゃーすけ本人だけだもんね」
Uターンを描くように狭い部屋を一周して再度自分の足元へと戻った錆猫に、祐希は目を細めて笑いかけた。
にゃあ、と愛らしく媚びるような鳴き声が上がる。誰かがキッチンに立つのは飯の合図だと覚えているのだろう。苦笑いをしながらも、祐希は洗い終えたばかりの猫の餌皿を指さした。
「ご飯はさっき食べたでしょうが」
その場でしゃがみ込んで言う祐希の手に、錆猫がその毛足の長い腰を擦り付けた。手の甲に残った水滴が抜けた猫の毛を貼り付ける。
きっと不快さを拭い切れないであろうその感触すらも心地よいと笑うように、祐希は柔らかく口を開いた。行動や視線はその場の錆猫へと向けられていても、頭の中は別のことでいっぱいだった。
「もう帰らなくちゃだなあ」
「そっか」
「また、来てもいい?」
しゃがんだ祐希の言葉に、和博は静かに起き上がった。目を伏せて、足元の生物に微笑みだけを見せる祐希に、錆猫がマーキングをするかのように体を擦り付けてやまない。
ペンだこで固くなった祐希の指先が、まるでなだめるようにその錆猫の顎を撫でるのを見て、和博はおもむろに口を開いた。
「君は偉いよ」
「なにが?」
「君は偉いんだよ、祐希」
質問に、和博は答えなかった。それでも繰り返されたその言葉に、祐希が皮肉そうに笑う。
「良い子ちゃんだってこと?」
「半ば家出少女やってんのにかい」
「偉い子って言ったじゃん」
「君は偉いって言ったんだ。良い子だなんて言ってない」
まとまりのない言葉だった。要領を得ない和博の返答は、まるでわざと輪郭を作らないように努めているようであった。しかし、なにも全てがきちんと枠組みに収まっていなければならないというわけではないことを、祐希は和博との虫食いのような暮らしの中で学んでいた。
自分の家に帰りたがらない子どもが別の家で朝を待つのを許したように。
本当なら自分の母親に向けられる反抗の逃げ道を、ずれた場所から受け入れたように。
和博はその行動で祐希に半歩ずれた息抜きを教えてくれた。
正しいことが正しくとも、そればかりでは時として物事は酷く困難になる。そしてその過酷さは、やはり時として必要不可欠なものばかりではないのだ。必要十分な行動に潔癖さは含まれず、最善策というのは天井に他ならない。
人はまず、呼吸ができなければ生き続けるのは難しい生き物だから。正しいだけで積まれる息苦しさに耐え続ければ、慢性的な酸素不足は確実にその身を蝕む。そうして蝕まれた足で道を歩くには、人の寿命というものは長過ぎた。
肺の中身を吐き出さなければ次の酸素が取り込めないように、次の一呼吸の前提として、まずは息を抜くことが必要なのだ。
「じゃ、なに」
それでも祐希がそれを聞いたのは、ただ単に十数分後に踏み込むだろう自宅の玄関の薄ら寒さを思い出したからだった。
ひとりっきりが寂しいだなんていうほど可愛らしい性格をしていないと祐希は自分を思うけれど、その反面、孤高のような存在には魅力を感じないのもまた事実だった。
そばにいてほしい人がいた。だけど、その人はいつも、向かいあって話を聞いてくれなかった。家あるのはテーブルの上の食事代だけで、コンビニ弁当を噛み締めるとき、その食卓はいつも一人だった。それを味気ないと思う自分が確かにいた。
だからこそ、祐希はそれに真っ向から向き合えず、ここに来た。だって、ここにいる間ならば、家に誰もいないことを見ていなくてもよい。
いつか隣にいられるときを想えば、今、母を傷つけてはならないと。時間が経てば、いつか必ず叶うから。今はただ、それを待つしかできないから。
祐希の中の賢しさは、自分自身の我慢強さを礎に、そんな妥協を良しとした。
そして和博は祐希と日々を過ごす中で、その選択を理解していた。理解していたからこそ、彼はそれを言葉にしたのだろう。
「帰るという言葉を選べるのはすごいことだよ」
「なにが?」
「帰りたくないとは、君は言わない。同じように、帰らないとは、君は言わない」
和博の言葉に、祐希は小さく首を傾げた。彼の言わんとすることを、しかしその賢い少女は理解ができなかった。あまりに当たり前になり過ぎた願望は、心の底に混じりきって、自分からは意識できない。ただいまを言ったとき、おかえりなさいが帰ってくる日を諦めず、しかし日々を待つだけの祐希だったからこそ、その言葉には気が付けなかった。
だからこそ、和博はその言葉をさらに続けることを選んだ。
「それはすごいことで、強いことだ。でも、良いだけのことじゃない。だから君は偉いけど、良い子ではないかな」
「なにそれ、変なの」
くしゃり、と顔をしかめるようにして笑った祐希に、しかし和博は小さく溜息を吐いた。それは不快さや呆れを含んだものではなく、どちらかと言うのなら、安心に近いものだった。
寝転がった姿勢から起き上がったものの、いまだに床の上に座ったままの和博が、やはり同じようにしゃがんだまま動かない祐希を真っ直ぐと見つめて口を開く。
「変なことではないさ。ないけれど、別に、“また、ここに来ていい? ”なんて聞きやしなくたって、君はここに来てもいい」
「……うん」
「祐希には、それは知っておいてほしいかな」
「わ、かった」
鼻の奥を絞られたような感覚を押し殺して、祐希は短く返事をした。たっぷりと十秒に手が届く時間を俯いた祐希が、思い切ったように顔を上げる。
その勢いを殺さぬまま、しゃがんだ姿勢から立ち上がると、立ちくらみを誤魔化すように祐希は背筋を伸ばした。
目を開いているのに閉じているかのようなノイズまみれの視界が開けるのを待って前を向けば、疲れた体をなぐさめるようにローテーブルに頬を寄せてだらけている和博の姿が目に入る。
いつのまにかその膝元へと移動していた錆猫が、主人の体温と肉の弾力を確かめるように足踏みをしていた。
「じゃあ」
意を決したような祐希の声に猫が振り返る。和博と合わせた二対の目が祐希の姿を見上げていた。
「またねって言うから、またねって言って」
その声は震えてはいなかったが、勝気な祐希のものとしては酷く小さなものだった。和博は小さくとも消え入ることはなかったその言葉を聞き、膝元の猫を抱き上げる。柔らかな腹を祐希に見せるようにして、猫の手が主人の手により縦に二つ振られた。
「またね」
「うん、またね」
そして、それはやがて嘘になった。