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錫の心臓で息をする  作者: 只野 鯨
第二章
135/144

135話 末路1


【135】末路1




 どうしてそうなったのかは、よく覚えていない。

 

 浅川祐希。やがて聖骸エレノアとして目覚め、レジーの名を名乗ることとなったその少女が短い人生を閉じたのは、春の終わりを眺めるゴールデンウィークの終わりの頃だった。

 その日は、そんな待ち遠しい連休を目前に控えた登校最終日だ。学校指定の制服に身を包んだ祐希が、アパートの扉、その脇に据え付けられているチャイムを乱雑に二度鳴らした。


「おじさん、泊めて」

「また?」

「また」


 祐希が鳴らしたチャイムに呼ばれて出てきたのは四十を過ぎた頃の男性だった。

 祐希が訪ねたのはその男性、つまりは叔父である和博の住むアパートだった。安月給を歩幅一つ抜けた程度の単身者が飼い猫と住むその部屋は、いつもほんの少しだけ煙草の匂いが残っていた。


「お母さん、心配しないのかい」

「友達の家に泊まるって言ってある。それにあの人、どうせ言わなくたって気にしやしないでしょ。問題起こさなきゃどうだっていいもん」


 中学校の最終学年に上がったばかり祐希は、他の学生の例に違わずその中学校の制服に身を包んでいた。白いシャツの上に羽織った薄手のカーディガン。しわを作った暗い色の細いリボンが胸元に揺れている。姿勢のいい背筋の下に伸びるのは、白いソックスを履いた足とプリーツのスカートだ。


 本当はスラックスがよかった。


 祐希の通う中学校は時代の流れにうまく乗り、女子生徒のスラックス着用を許可していた。けれどそれを希望すると、小学三年生のときに父が死んでから人が変わったように色をなくした母が、まるで床に滴らせた生ごみの汁でも見るかのように“面倒を言わないで”と言ったので、祐希はただ静かにそれを諦めた。不幸なことに、祐希は自らの内の悔しさを理性で屈服させるだけの小賢しさを持っていた。


 父が残してくれたものは多くあったが、しかし一人の人間を満足に大人になるまでに育て上げるにはいささか足りないらしかった。それは主に母が期待と同一視のごとく引き上げた“満足な大人”の定義の高さが原因ではあったが、祐希は高望みをされる分には特に何を言うつもりもなかった。

 進学校に進んで、いい大学に入って、真面目に真面目に大真面目に、勉強ばかりを頑張ったなら。そしたらきっと、立派な大人になれるそうなので。そういうふうに、母が何度もしつこく言って聞かせるので。ならそうなのかと祐希はその言い分を取りあえずのところ飲み込んだ。


 だって。

 少なくとも得意な勉強を諦めなくていい程度には、満たされる人生が約束されている。


 だから、例えば毎日家に帰っても無人で、週に一度母と口をきくかどうかで、食事の代わりがテーブルの上の現金であったとしても。


 例えば思春期特有かすら判断のつかない性同一性への疑問とか、はたまた来年に受験を控えた人間特有の選択肢が多過ぎるように錯覚した将来への不安とか。そういうことをひとつたりとも相談できず、話題としてすら拒否されようとも。


 それでも自分は恵まれている。


 適度に贅沢な未来を約束してくれる母には頭が上がらないのは仕方がなく、その手を煩わせず精一杯の成果とやらを掴んでみせるなければならない。なにせ、それが生みの親への親孝行らしいので。


 今、自分はきっと恵まれているのだから。

 それだけのこと、できないはずがないのだと、そう思われているのだから。


 じゃあ、やらなくちゃならない。

 やってみせた後になら、きっと自分の話も母は聞いてくれるのだろうから。それまでは。そこまでは。

 

 そう自分に言い聞かせようと、必死だった。


 必死になった、それゆえに。溜め込むストレスもまた、多かった。

 ろくな会話も交わさなくなった母との二人暮し。反抗心をぶつけようとも返されるのは部屋の角に溜まった埃を見るような視線。仕事で疲れているという母の言葉を飲み込むには、まだまだ残った幼さが邪魔をする。

 しかしだからと言って道を踏み外した行為を良しとするには、やはり玄関に飾られた亡き父の笑顔が引き留めてやまないのだ。いってらっしゃいと笑って送り出してくれたその人が、そのくせ自分ばかりただいまを言わなかった日を忘れられない。


 そんな窮屈な生活は毒を溜め込まずには長続きせず、その息抜きを祐希は亡くなった父の双子の弟である和博に求め、こうしてよく家を抜け出しては遊びに来ていた。


 母との決定的な衝突を避け、それでも不服のような反抗心だけは押し殺さない。人一倍成績が良く、授業態度も同じように良く、何よりもまず要領が良かった祐希は、そうして自分を守ることを選んだ。

 良いように人の目に留まる方法も、悪いように人に見られない方法も、よく弁えている少女であったゆえに起きてしまったそれは、きっと静かな反抗期だったのだろう。


「しょうがないなあ」


 それを知っている和博が仕方ないといった様子で、むつくれた表情の祐希を部屋に迎え入れる。


 和博はもうじき四十代の中間に手が届く頃であったが、独り身であり、同居人と呼べるものは猫一匹しかいない。外聞や義姉の内心をさておけば、反抗期の盛りの姪が家に入りびたることも取りあえずは許せる立場だったことも幸いした。


 男の一人暮らしのその部屋は、和博が煙草を吸う関係か、それとも掃除がまめにされていないのか、少しだけくすんだ色をしていた。

 狭い部屋の中央に鎮座したローテーブル。その脇に置かれた座布団に祐希が腰を下ろせば、先に向かいに座った和博は辞書を思わせる分厚いルールブックに手を伸ばした。


 それは二人にとって、“いつもの遊び”を始める合図だった。空想の冒険に期待が隠し切れない祐希が和博に問いかける。


「今日は何するの?」


 尋ねたのは、二人がよく遊ぶゲームのことだった。テーブルトークロールプレイングゲームと呼ばれるそれは、対面で会話をしならがら進める遊びで、ロールプレイングという名の付く通り、参加者たるプレイヤーがキャラクターを演じて遊ぶものだった。


 今日はどんなシナリオを遊ぶのかと、わくわくした表情の祐希が尋ねれば、和博は小さく笑って答えた。

 

「君はとある国の盗賊に成り下がった身分だ。日々を生きるには金がいる。次はどこを狙おうか。そう空を睨めていたとき、ふと視界に高い石造りの塔が飛び込んできた。ああ、あれほど立派な塔を建てるくらいだ。その懐は焚き火なんかよりもずっと厚いに違いない。さあ、塔の上には見張りだろうか、娘が一人。これから盗みを働くというのに、あんな鷹のような場所に目があるのは邪魔だなあ。まずはそれから引きずり落とそうか。行動を決めた君は、そうしてまず、高い塔への侵入を考えることだろう」

「ひっでえ」

「君はしがない盗人風情。餌を食うため金がいる。ひもじい思いはしたくないよね。だからこれも仕方のないことなんだ」

「それなら仕方ないな!」


 ルールブックとスマホを並べた和博が簡潔な前口上を述べると、祐希はそう言ってからりと笑った。和博がルールブックの隣に重ねていた透明なファイルから一枚の紙を祐希に手渡す。


 それはキャラクターシートと呼ばれる登場人物の人となりを数値化した情報を書き込むための用紙だった。名前や所属、体型や能力値など、そのキャラクターを彩るパラメーターを書き込むためのテンプレートだ。

 

 ペーパーレス化だ、デジタル化だと叫ばれる昨今で、それでも和博はアナログなその一枚ぺらの物理的な紙を用意するのが好きだった。

 データではなく形として残しておけば後になって、ふと思い出したように見直せる。それは写真をフレームに飾っておくのと同じ感覚なのだろう。能動的ではなく受動的に記憶に触れる機会を設けられる。


 和博が手にしたルールブックは、何度となくページをめくったために角が潰れている。ページを開く側である小口は、本来の滑らかな手触りを色とりどりの付箋に奪われていた。

 そのルールブックの隣で、安物のプラスチックケースに乱雑に放り込まれた数々のダイスが、かちかちと音を立てて存在を主張する。一般的なすごろくで使うような六面ダイスの他に、四面や十面といった他ではあまり目にしない珍しいものまでもが用意されている。


 身を乗り出すように座り直した祐希の膝に人肌よりも温かい柔らかな塊が触れる。ソックスからはみ出した足をくすぐるようなその毛足に、祐希は思わず手を伸ばした。


「にゃーすけ、いたの」


にゃあ、と一つ返事が返る。祐希のペンだこが目立つ右手の指先に鼻を擦り付けたのは、和博が飼っている猫のにゃーすけだった。


「おじさん、にゃーすけ、おやつ」


 祐希がローテーブルの天板の上に顎をつけながらまとまりのない要望を言うと、叔父の和博は首を横に振った。

 

「さっき食べた。先生に太り過ぎって言われてるから駄目」

「駄目?」

「駄目。良いご飯買ってるのに食べないし。おいしくないんだもんねえ、にゃーすけ」


 祐希の催促を突っぱねた声とは裏腹に、ぐたりと砕けた甘い声を出した和博がローテーブルの下から一匹の猫を引き上げた。

 和博の腕に大人しく抱えられていたのは、墨をこぼしたような真っ黒な体毛の中、尻を中心に赤毛が目立つ錆猫だった。

 

「今度、シナリオににゃーすけ出してよ」

「にゃーすけはこのにゃーすけだけだから駄目」

「けち」

「猫ならいいんだよ。にゃーすけは駄目」


 それの何が違うって言うんだ。祐希は、べ、と舌を出しながらもそんな文句の言葉を飲み込んだ。目の前の叔父がそういうところをよく気にするのは知っている。

 現実を遊びに持ち込みたくないのだろう。娯楽を娯楽のまま閉じていなくては、問題が起きたときにそれが逃げ場所としてうまく機能してくれなくなるからだ。


 現実を持ち込んだ遊びは、その現実が崩れたとき、思い出の輪郭ごと重石になる。それを二人はよく知っていた。

 祐希の父も母も、この遊びが好きだった。三人だったり、四人だったり。たまには二人でなんていうのもあった。そうやってみんなでいくつもの世界を走って、たくさんの自分達を作り上げた。キャラクターシートなんていう薄っぺらな紙一枚一枚から出来上がったその残骸は、きっと今もなおこの部屋のどこかにファイリングされて並べられている。


「……何ができるといい? 推奨技能とかある?」


 ふとした瞬間の沈黙が息苦しくなった祐希が話を戻せば、和博はスマホの画面に並んだシナリオ内容を確認しながら口を開いた。


「完走するなら体力多め。まあ、なるようになる」

「なるようにするんでしょうが、GM」


 祐希が茶化して言えば、和博は黙ったままただにかりと笑った。


 まるで空元気のようなその笑顔が酷く父に似ているたので、祐希は静かに息を吐き出し、同じように笑った。



 

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