133話 開示2
【133】開示2
最前線の街。その宿には似合わないほど美しい動作で頭を下げたリオに、テオは思わず顔色を悪くした。びゃ、と声にならない音を上げて体を固める。
王族? 王族って言ったか?
王族って国で一番偉い人間のことで合ってるか? 個人の一存で物理的に人の首を切れるタイプのお偉いさんで合ってるか?
幼い頃から壁外を練り歩き、精々がこの街、ポーロウニアくらいまでしか内地に来たことのないテオにとって、王都とは縁遠い地域であり、そこにおわす王族など何回生き返ったって手の届かない遠い存在だ。
それが目の前にいる、というか、ずっといた、というのは、いささかぞっとする話だった。そんな人間との口の利き方なんぞ知らない。
座った椅子の上で腰が抜けたように身を引いたテオが、はくはくと口を開閉させる。
テオほど露骨ではなかったにせよ顔色を悪くしたアーニーが、しかし間抜けにも臆した隣の小心者よりも先に持ち直す。
「そんな人間が、どうしてここにいるんだい。ミンディは“家出”だなどと嘯いていたが、それがそのまま事実ってわけじゃあないんだろう」
椅子に腰かけたまま、アーニーが尋ねる。つい昨日、ミンディが宿の部屋を襲撃した際、彼女は“リオ達の家出も見限りも興味が無い”と言っていた。
彼女の言葉が本当であると仮定するなら、リオが偽名を名乗ってまでこの街をうろついているのは家出が原因の一端であるということになる。
しかしつい先ほど明かされたリオの立場や出自を踏まえれば、それはきっと比喩であって額面通りの意味ではないのだろう。
アーニーの質問に対し、リオは再度椅子に座り直す。その細い手がより強くレジーの手を握り込むと、リオはやがて微かに俯いて口を開いた。
「私は、本来であれば一般的に王女と呼ばれる出自の人間でした。けれど、ご存じでしょうか。この国で特異体質者と呼ばれる吸引体質や放出体質を持つ人間は、しかし他国へと渡れば途端に鬼と呼ばれ、そもそもが人間の分類にすら入れなくなる場合があることを」
そう言って、リオは一度言葉を切った。リオが話して聞かせた内容に、しかしアーニーとテオは微かに目を見開く。
リオは自らのことを王女と言った。確かに子どもの体躯では性別の判断は難しく、特にリオは中性的な顔立ちだったので気が付かなかったが、どうやら経歴以前に性別すらも偽っていたようだ。自分達が認識していた情報をどこから修正しなければならないか。その線引きは思っていたよりもずっと根元の近くにあったらしい。
特殊体質者としての話もそうだ。それ自体の話はミンディやホゾキを含む近しい人間がそうである関係上、テオも多少の理解があった。アーニーとしても、その全容を詳細にとまでは言わないものの、事の輪郭程度には理解している。そういう時代の人間の記憶が、アーニーを含んだ六人のうちの数人の中に存在している事実もあった。
だからこそだろうか。ここまでの一週間を共に過ごした中で、徹底してその兆候を出さず、隠し通した精密なコントロールと強靭な精神力に息を吞まずにはいられない。彼ら吸引体質者にとって、魔力の摂取とは水を飲むのとそう変わらない。生きるのに必要な量は最低限度決まっており、たとえ我慢したところでそれを抑え続けることは簡単ではないのだ。
「テオさん、失礼します」
リオは名残惜しそうにレジーの手を離し、そんな形ばかりの断りをテオへと述べた。離れていくリオの手を黙って見送ったレジーが、ほんの少しだけその体を遠ざける。
その細い腕をおもむろにテオへと伸ばしたリオは、オーバーサイズの上着に包まれたテオの左腕を服の上から撫で下ろした。
瞬間、テオの背筋を撫でるように走ったその怖気には覚えがあった。
「……は、ッ!?」
それは唐突だった。リオの手がテオの前腕を半分ほど滑った瞬間、テオが弾けるように立ち上がったのだ。直前まで座っていた椅子を蹴り飛ばし、リオに触れられた左腕をかばうように構える。
唐突に立ち上がったテオに、アーニーは思わず声を裏返した。
「テオ!? 大丈夫かい!?」
「びっくりした……」
「び、びっくり?」
慌てて立ち上がったアーニーに対して、しかしテオは頬を伝う冷や汗を拭うようにして首を横に振った。蹴り倒した椅子を拾い上げ、先程よりもリオから少し遠い場所に置き直す。疲れたように僅かに顔色を悪くさせたテオは、しかし一瞬の焦り以上の感情を表さずに椅子に腰を下ろして口を開いた。
「吸引体質か。驚かせないでくれ」
「ごめんなさい。実演が一番分かりやすいかと思って。気分はいかがですか」
「大丈夫だ。君も少ししか取らなかったんだろう。でも、これ、あの、ホゾキさんに散々やられた経験があるので、俺も急には怖くて。本当に悪いんだけど、次からは一声掛けてくれるか」
「もうやることはないと思います」
「そ、そうしてくれ」
がくりと肩を落としたテオが小さく頷いて言う。その隣、困惑を隠せないながらもテオにならい再び座り直したアーニーがリオに向けて口を開いた。白金の偽装をかろうじて守りきったアーニーの瞳が、警戒を殺せずに細められている。
「どういうことだい。説明してくれるかな」
「ええ、もちろんです」
アーニーの言葉に、リオはただ静かに頷いた。依然、沈黙を守っているレジーの右手を握り直し、リオはさらに口を開く。
「このとおり、私は吸引体質者として生まれました。それは、この立場というものにおいて、いささか外聞が悪かった」
淡々とした声音で話すリオは、まるで無感情を装ったように無機質な砂金色の瞳で自らの爪先を見つめた。アイザックからお下がりでもらったカーディガンの袖が、レジーと繋いだ手に巻き込まれて捩れる。
「この国において特異体質者が人間として扱われているのは、彼らのうちの一人が聖骸として選ばれた過去があるからです。聖骸として神が選びたもうたならば、それは人間に他ならないと、聖教はそう解釈した。……せざるを得なかった。この国が歴史にその存在を許したのは、そんな神様の選択によるものからでした。そしてその選択ですら、時間としては浅く、数字にしてしまえばほんの十年程度前の出来事です」
十年。それは種からの侵攻に何百年という単位で晒され続けたこの国にとって、あまりに短い時間だろう。アーニーはつい先程まで目を通していた一冊の本を一瞥して考えた。
「私が生まれた当時は、この国においてもまだ特殊体質者が人間として正式に認められていない時代でした。とはいえ、認められていないだけで、完全な魔物の扱いでもないグレーゾーンの状態。人らしき人は人でよく、鬼らしき人は人でなし。そんな、疑わしきは罰せられる。その線引きのちょうど真上です。そんな時代でしたから、国の外に向けても、内に向けてですら、特異体質者が王族、まして、その当時はまだ王位を正当に継承していなかったにせよ、王子の立場の人間の娘として生まれたというのは、やはり少しばかり体裁が悪い」
体裁、外聞。そんな平たく言えば見栄っ張りの論理に晒されるのは、気分が悪いなんて話では済まされない。淡々と話すリオの隣、唇を噛み締めたレジーの様子を見て、テオはぼんやりとそう思った。
きっとその対象を大事に思えば思うほど、それは憎悪や嫌悪という枠組みに近しい感情へと傾く。例えばそれが命までもを脅かした時、何を諦めてよいと思えて、どれだけなりふり構わなくなるのか。テオはその身をもって知っていた。
「だから私は、隠されて生きておりました。いないものとして、いちはやくこの寿命の尽きることを願われて」
そう言って、リオは自らの胸へと手を当てた。
その下で脈打つ心臓が正常さを保ったまま自然と停止するのを待つには、人間の尺度で言えば長過ぎる年月を必要とするだろう。
それだけの時間を、何にもなれないままで在るしかなく、望みを抱いたところで全て無駄になる。それは、きっと、生きているだけの地獄だ。
足の裏が煮えていると知らなければまだましな類の、しかしどこまで行っても報いだけが存在しない、形のない苦しみだ。生きる意味などという言葉を聞いたこともない人間だけが、それに一度だって思いを馳せなかった人間だけが、かろうじて享受できる空白。そしてそれを人は、時として虚しさと呼ぶのだろう。
「そんな矢先に、特殊体質者の一人が聖骸として神より選ばれました」
けれどもリオは本来なら悲痛を伴って開かれる事実ですらも、あっさりと捨ておいて次へと話を進めた。本当にそれは些事でしかなく、本題の欠片にすらもならない下地なのだと、他でもない彼女自身が軽んじた。
「それがきっかけでした。隠されて生かされ、殺すこともされず、生かすと言うにはただ足りただけの私にも、“使い道”ができたのは」
そうして一度言葉を切ったリオは、足元へと落としていた視線を持ち上げた。かちり、とその視線が向かい合ったテオの灰色の目と合わされる。
恐らくそれは、ただ一人、この部屋において存在する純然たる同じ世界の生まれ、その同胞を選んだに過ぎなかった。
「想像してみてください。聞こえが良くはありませんか。王族から、神の遣いが選ばれるというのは」
ただまっすぐと向けられたリオのその言葉に、テオは小さく息を詰めた。