131話 遣い4
【131】遣い4
ほの暗く色を落としたテオの目が、不快さを隠さずに歪められる。たった一枚、指先に摘まれたガラス片が照明に反射して存在を主張した。
「なんで、誰のせいで、俺、ここにいるんだっけ。何のせいで、ここに来る羽目になったんだっけ。うるさかったんだ。誰の声だった。やかましくて、煩わしい。あんなに気持ちよく寝てたのに。眠い、ああ、気分が悪い。どうしてだ。何のせいだ。俺の寝床まで聞こえてきた、あの騒音は誰のだった。なあ、あんた、知ってるか?」
そんなテオが、明らかに言葉にして、そして同時に態度に隠して怒り散らしている。まさに一度落ち着いてから暴力を選択しなおした状態だ。
酒瓶の破片、その先端を首に押し付けられた剣士は気が気ではなかった。サンドバッグにはなりたくない。
「だ、だれ、だろうな? お、おれらは知らな」
「しらばっくれる? そういうのは不快だ。でも別にいいよ。あんたの言葉、行動、全てあんたが決めることだ」
くるり、とテオの指先で酒瓶の破片が回る。剣士の首筋を軸に回転した破片の先が、薄らと皮膚を引き裂く手前で停止して、踊るような足取りを意識させる。
ネジのように回して押し込んだっていいんだぞ。テオの暗澹とした瞳が訴えていた。
「い、いや、その」
「怒りを感じて六秒かあ。本当に六秒後の俺は怒ってないんだろうか。いい機会だし、試そうよ。楽しみだね。そう思わないか。一緒に数えてみよう。ほら。ろく、ごお」
「帰る! すまん、本当、悪かった! 帰るから許してくれ!」
ギブアップは早かった。歌うように上機嫌を装ったテオの言葉を遮って、両手を上げた剣士が謝罪を繰り返す。重戦士の男はそれを機に、さっさと仲間を担ぎあげに行ってしまった。
「じゃ、じゃあな! ぐえッ!」
仲間を追いかけようと腕から抜け出す剣士の襟首をテオの手が掴む。駆け出そうとした勢いのまま引き倒され、テオの眼前に逆戻りした剣士は小さく悲鳴をあげた。
「ひッ」
「食い逃げか? 俺はそういうの、よくないと思う」
「払う! 払います!」
テオの言葉に剣士は財布を丸ごとテーブルの上へと投げ出した。それを見たテオが手を離すと、解放された剣士は素早い足取りで仲間の元へと駆け出す。
しっぽを巻くとはまさにこのことであった。へっぴり腰で振られる尻を目掛けるようにテオが手にした酒瓶の破片を投げつける。
硬い破片がズボン越しに当たる感触に大袈裟に驚いた剣士が振り向くと、テオは己のこめかみを指さして言った。
「残りは四秒。次は数え終えてから迎えに行く」
「わ、わわ、分かってる! 二度とこの辺りで悪さはしない!」
テオの言外の忠告に剣士はがくがくと頷き、仲間を担いだ重戦士と共に店を飛び出して行く。その背中を唖然と見送る大柄の男へと、テオはおずおずと近付いた。
先程まで、頭のネジが外れたように我儘三昧の理由を振りかざしていた様子と打って変わり、人見知りを発動した猫のように肩を下げたテオが大男に向けて口を開く。
「大丈夫だったか? 災難だったな」
「ああ、はい。助かりました。私一人ではどうしていいものか悩んでいたので」
へらり、と笑った大男にテオが苦く笑う。随分と肝が座った男だ。直前まで暴力に晒されていた割に、同じものを持って解決することを良しとした人間に対して臆する様子が欠けらも無い。
放っておいても自己解決は難しくなかったのだろう。荒事に慣れすぎている。しかしテオは小さく被りを振り、口を開いた。彼の味方をしにきた訳ではないのだ。
「俺は自分が世話になってる人に頼まれて来ただけだ。物事の善し悪しに関与する気はないし、損害を出したほうを追い払ったに過ぎないから、いつでも同じことをするわけじゃない。何が原因だったか知らないけど、少し気をつけて歩いたほうがいい。場所も場所だ。あんた、祭で来た客か?」
テオが尋ねると、しかし大柄の男は首を横に振った。この時期に訪れる人間は祭のために足を運んだのだろうと考えていたテオは驚く。
「いいえ。ただ、祭にも興味があるので、用事が終わって余裕があれば見て回ろうかと」
「そうか。こう言っていいか分からないが、楽しんで。良い夜を」
「ええ。あなたにも良い眠りが訪れることを祈っております」
「あ、はは……、ありがとう」
あくまで当てつけの理由付けでしかなかった眠気を心配され、テオはバツが悪そうに頬をかいた。
気疲れはしていたが既に散々ぱら爆睡したあとだし、別に眠いからってキレ散らかすほど本能で生きていない。
そんな幼い癇癪をその形のまま慮られると、罪悪感よりもまず羞恥が勝ってしまうのも無理がなかった。
「恩返しという形だとしても、人に手をさしのべられる。それは善き人の行いです。神の祝福があなたに恵をもたらすことを祈っております」
乾いた笑いで足元へと視線を落としたテオへと、その男はさらに言葉を向けた。
ぎくり、と固まったのは周囲の冒険者だ。聖教嫌いのテオドールがこういう文句を好かないことは、ポーロウニアの冒険者の間では暗黙の了解であった。
地雷を踏んだぞ、あいつ。一難去ったら一難生まれた。などと周囲が呟く。だが、そんな周囲の予想と反して、テオは小さく詰めた息を吐き出し、困り顔で首を横に振った。
「その祝福はあんたが絡まれないために使ってくれ。じゃあな」
そう言って一方的に会話を切り上げたテオが、少しばかり足早に酒場の出口へと踵を返す。テオが入ってきた時と同じように、そそくさと周囲の冒険者達がその道を開けた。
「ああ、待ってください。これも何かの縁です。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「うん? なんだ」
散らかった皿を踏まないよう気をつけながらも、小走り未満の足取りで退散しようとしたテオを、しかし大柄の男が引き止めた。
倒れた椅子を跨いだ状態で器用に振り向いたテオが首を傾げる。
「金髪の子どもを見ませんでしたか。背丈はこれくらいの。恐らくは最近、こちらの街に訪れたかと思うのですが」
「……いいや。見てない」
「そうでしたか。では、見かけたら教えていただけますか。探し人でして。それが見付からないと、私もおちおち祭を回れない」
「ああ。気が、向いたら。じゃあな」
小さく息を詰めたテオは早口にそう閉じて、今度こそ酒場から出ていった。いっそ逃げ足に近いくらいに急いだ足取りが、床に落ちた空き瓶にぶつかって転がす。
足早に出ていったテオとすれ違いのようにして、一人の男が店へと入ってくる。深く被ったフードのせいでその容姿は伺えない。背は低くなく、しかし高いとも言いきれない中肉中背の男だ。
その男は、顔をすっぽりと隠すほど深く被ったフードの縁をさらに引き下げながら、先程まで絡まれていた大柄の男へと近付いた。
腰に提げた短い杖がふらりと揺れる。一見して、その男は魔術師のようであった。
「なんだ、あいつ」
「ああ、ケイレブ。遅かったですね。随分と待ちましたよ」
つかつかと近寄ったフードの男を見つけた大柄の男が、両腕を広げてその男を迎え入れた。ケイレブと呼ばれたフードの男は、ふん、と鼻を鳴らし、不機嫌を全面に出す。
「道に迷っていた。この街、少し入り組みすぎじゃないか。大通りから外れると訳が分からなくなるのだが」
「迷子だったのですね」
「迷子はお前だ、バーナード。待ち合わせの店は一本隣の通りだぞ。無駄に探させるな、肝が冷えた」
ケイレブの言葉に、大柄の男、バーナードは困ったように苦笑いをし、頭を下げた。
「いやあ、そうでしたか。だからなかなか落ち合えなかったのですね。申し訳ありません」
「……済んだことだ。もういい。それよりもだ。さっきの男、普通、金髪で小柄の子どもと聞いただけで分かるものか。それともこの街には金髪の子どもはいないとでも。怪しい男だ。嘘は下手なようだが」
「……んッ!? 確かに! 追いかけますか?」
ケイレブの指摘に、バーナードが大袈裟に驚く。芝居じみた仕草だが、それが彼の素であることを知っているケイレブは特に気にした様子もなく肩を竦めた。良くも悪くも人の癪に障る大男はケイレブと組んで長い同僚なのだ。
「土地勘もない街で夜に追いかけっこして勝てる面子ではないだろう。あっちは地元民のように見えた。それに今日はもう疲れた。次に見かけたら捕まえるのでいい。というか、お前は行儀の他にも頭を使え、頼むから。なんで咄嗟に気が付かない」
「ははは。どうにも探り合いは苦手で。私は人探しに向かないと思うのですが、なぜ呼ばれたのですかね」
バーナードの足元に倒れていた椅子を起こしたケイレブは、どかりとそこに腰掛けた。疲れたという言葉は本当らしく、テーブルに肘を着いて頭を抱える。その拍子に、深く被ったフードが落ちた。
「聖骸様が相手にいらっしゃるのに戦力なしで探せるか。お前は馬の代わりだ。とくと走れよ」
「了解しました。足の遅いあなたの代わりとなりましょう、ケイレブ」
「一言多いぞ、バーナード」
フードが外れたことであらわになった鉛色の髪が揺れる。ケイレブは、髪と同じ色の瞳でじとりとバーナードを睨んだ。
髪と目が同色の魔術適正には困らない体質。きっとテオと並べば少しその背丈はそれより小さいことが分かるだろう。腕を取り合って力較べをすればあっさりと負けてしまうような体格だ。
苦労を重ねたように隈の目立つ目元と、不機嫌そうにへの字に曲げられた口元。不健康と言うよりは、単に疲れ果てているように見えるのは猫背気味な背中のせいか。
そんな部分だけがほんの少し違う。
その男は、レジーと瓜二つの姿をしていた。