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錫の心臓で息をする  作者: 只野 鯨
第二章
126/144

126話 花冠3

 

【126】花冠3




「……そ、んな、のッ!」


 弾けるように顔を上げたテオが、今にも泣きそうな程に目に溜めた涙を散らす。

 奥歯が砕けたと錯覚するほど噛み締めた口を開いた時、その感情はもう取り返しがつかないのだと自覚した。


「そんなのッ、おまえの記憶じゃないくせに……!」


 一番言いたくなかった言葉が、一番言いたくない相手に投げつけられる。それでもそこで止まれたのなら、きっと、こうして泣き虫がまた顔を出すことすらなかったはずだ。


「そうだよ。僕の、僕たちの記憶じゃない。だけど僕も持っている記憶だ」

「なんだ、なんで、どうしてそういうことばっかり言う! 知らん顔をしておけば、ちゃんと隠せておけたんだ! 大丈夫だったじゃないか、大丈夫だったのに、たったさっきまで、ちゃんと、ちゃんと、がまんしてたのに……!」

「本当に?」


 しりすぼみになるテオの言葉に被せるようにアーニーが問いかける。その吐息が耳をくすぐるほど、少女はテオの近くへと顔を寄せていた。


「できた、できてたじゃ、ないか、い、っしゅうかんも、おれは、おれは、だまって、なにも、なにもいわなかったのに」


 嗚咽のように飛び飛びになる言葉を、それでも必死でテオは吐き出した。

 目の前にいるはずの少女を睨みつけてしまわないよう、必死に視線を地面へと向ける。


 ジルの診療所で、ぷんすかと怒るアーニーにリリーの記憶を重ねた。その時にテオは気が付いたのだ。


 駄目だ。これは、駄目だ。

 自分だけはそれをしてはならないと。


 代わりになどするものか。命に代替品があるなどと、そんな道理を認めるものか。

 それを認めてしまっては、あの子の死に希望の幕を掛けてしまう。沢山を救うためなら子どもが一人死ぬくらい仕方がなかったんだって、そんな言い訳に、生かされた側の自分だけは頷くわけにいかないのに。


 だから、代わりにしないと一人で決めた。

 強く刻みつけるでもなく、口に出すわけでもなく、彼らがリリーとは違う人間である事実だけを意識した。自分の事情と何の関係もない、初めましての別人だったと思い出した。


 関係のない人だから。煮えるような自分の感情を見せてはならないと、ざわつく心も無いもののように隠した。

 関係のない人だから。個人としての彼らの願いを妨げることを忌避し、叶えられるよう尽くそうとした。

 関係のない人だから。そうあって欲しかった線引きを飛び越えられた時、どうしようもなく動揺した。


 聖骸リリーが目覚める前に種を破壊して、死者としての眠りの尊厳を取り戻す。

 十年かけて否定した生贄の概念と、それを知らしめるために立てた目標は、理由となった少女自身が打ち砕いてしまった。


 もう全部、間に合わない。


 テオはその事実に気が付いてしまった。種を破壊しても聖骸リリーの名前は神の使いの一人として残るだろう。


 だから種の破壊、それ自体に意味を見いだせなくなった。それでも生かされた命を長らえるためには、壊れてしまった標の代わりを探さねばならなくて。


 目隠しをしたみたいに死人を理由にしてきた人生は、たったそれだけで着地点を見失った。

 それでも“こうしてくれ”と願われたことだけをしていれば、何とか体は動くから、それだけを心がけて。

 結局、聖骸リリーの保護も、レジーとリオの受け入れも、そんな惰性によるものだ。


「一週間しかできなかったんだよ、テオ。僕たちが“灯りのひとつ”を見たくらいで堪えられなくて後悔を漏らしたみたいに、君だって“花のひとつ”を見たくらいで耐えられなくなって口にしたんだ。君が持っている、そんな曖昧なリリーとの記憶でさえ、もう我慢できなかったんだよ」


 ゆっくりと、言い聞かせるような口調でアーニーが言う。ひ、ひ、と細切れに息を吸って跳ね回る心臓を押さえつけようとするテオの呼吸音が響いた。


「ねえ、テオ。僕はね、リリーの話がしたいよ」


 アーニーはそう言って、自らの額を俯いたままのテオのつむじへと寄せた。焦げ茶のくせ毛が少女の鼻をくすぐる。必要も無いくせに続けている呼吸が吐息となって、ざんばらな毛先を濡らした。


「それ、は、リリーの記憶だ。お前たちのものじゃない」

「それはそうだ。でも僕はね、彼女の記憶を辿った時、その暖かさに心を奪われて、思わず夢中になったんだよ。だからせめて、君たちのお話を、それを宝物みたいに残してくれた彼女のお話を、君としてみたかったんだ」

「お前が、お前たちが、リリーにさえ宿らなければ知らなかったはずのその記憶を、それを、それを、自分のものみたいに、扱うつもりか」


 許したくなかった。そんなことを、許してしまいたくなかった。大事な人のものだから、その人だけのものであってほしい。そういう願いは確かにある。

 でも、それだけじゃない。そんな純然な願いだけを抱き続けるにはテオが生き延びた十年余りの年月は長すぎたし、それを叶えた師匠の存在は大きすぎた。


 死んでしまった人間の記憶。それは本来、何の思い入れもなかったはずの世界の光景を心に焼き付ける。

 産まれたわけでもない。育ったわけでもない。特別に思う必要すらもない余所事の世界。


 そこで産まれ、育ち、生きて、死んだ。そんな人間が何を愛したのか、何を夢見たのか、何を祈ったまんま、二度と目覚めない眠りについたのか。そんな記憶を押し付けられるのはどんな気分だろう。その記憶の重量とは、知らん振りができるくらいに軽いものなのだろうか。


 どれだけ体の末端を壊しても、それでも種へ挑むことを諦めなかった聖骸ミダス。

 彼女はどうして戦うのだろうと、そんな疑問を、そのそばに居続けたテオが感じないわけがなかった。

 それでもそれを聞こうとするといつだって口を塞がれるので、聞いてはならないのだと覚えた。


 だからこそ、リリーの記憶を軽んじたくないと同時に、テオはその記憶がせめて軽ければいいのにとも願わずにはいられない。


 だって、そうじゃないのなら、とんだ呪いだ。


 他人の記憶が持つ愛着に振り回されて、向き合わなくてもいい終焉に立ち向かわなくてはならないという義務感に苛まれる。それはなんて酷い話だろう。

 この世界で生まれたわけでもなく、真っ当な人生の謳歌すらも邪魔された。そんな彼らこそ、一番最初に逃げていいはずなのに。


「お前たちは、リリーじゃないから」


 だから、リリーの記憶を重石にして逃げ遅れる必要なんかない。今際の際に形見や言葉のひとつも残さなかったリリーが、それでもたったひとつ残したものが、そうして人を縛る呪いになりかねないなどと、そんなことには耐えられない。師匠のように呪われた人になって欲しくない。


 取り返しのつかないものになってしまったからこそ、それ以上の悪いものになってほしくない。そう思うのと同時に、テオはどうしても願ってしまうのだ。

 一人の人間として命のような何ものかを再び与えられた彼らにこそ、彼ら自身が望むことを叶えてほしいと、そう願う。


 そうすれば、せめて、きっと。

 リリーの残した数少ないものたちは、祝福の紛い物のままでいられるはずだ。


 だからテオはリリーの記憶を理由にされたくないのと同時に、その扱い自体を蔑ろにはできなかった。


「そうだね。そうあるつもりなど、僕とてありはしない。君は君、僕は僕。そしてリリーはリリーだ。それぞれがそれぞれの思いを持つように、やっぱり僕は世界の命運を大事にできない」


 だからこそ、落ち込んだ頭を引っぱたくようなアーニーの言葉に、テオはきょとりとした顔を上げた。


「言ったじゃないか。僕の肩には六人分の命が乗っているって。選択を誤れば道連れにしてしまう残り五人分の命を僕は軽く見てないよ。だってのにさ、使命がー、とか、大義がー、とか。そんなものいちいち気にしてたら早死にしちゃう」


 だから戦いたくないって言ってるんだ。アーニーはそう言葉を続け、テオの額を小突いた。


「でも、君の命も君一人分で、君の心も君一人分だったなって、いまさらだけど気が付いて」


 じゃあ、ちゃんと大事にしなくちゃなって思っちゃった。あっけらかんと言い放ったアーニーは照れたように頬を掻いた。ちらり、と一度花の積もったバケツへと視線を逸らし、再度テオへと向き直る。

 意を決したのだとテオが気がついたのは、アーニーが口を開いた後だった。


「それって多分、君が僕に優しくしてくれたからだ」


 少女の小さな手がテオの頭を撫でた。それは幼い日の再現のようでいて、おっかなびっくりの不慣れな手つきはどうしたって思い出の少女とは別人のものだった。


 なにせ、テオの記憶の中にあるリリーは泣き虫な弟の扱いにも慣れきっていた。そっちこっちに意識を向けながら片手間に人の頭を撫でるみたいな乱暴なところのある人だった。


 だから、関節の曲げ具合とか、指の腹の当たり具合とか、たまに爪が髪を巻き込んで引きつるだとか。

 そんな節々に垣間見える不器用さしかないアーニーの手つきが、忘れかけていたリリーのものとはあまりに違っていたものだから。


 きっと目の前のこの人は、他人の頭を撫でるのなんて初めてだったのだろうと。テオは何となしにそう思って、小さく息を吐いた。


「ちゃんとなんてしなくていいよ。我慢しないで話してよ。僕だって本当は、リリーの話を君としたかったんだ」


 大事にしたいだけだったら遠ざけていればよかった話を我慢できなかったのは、アーニーも同じだった。

 けれども、そもそも、そういう後悔をやってみてから思い出せ、なんて荒療治を持ち出したのはテオのほうだ。


 だったらやっぱり、色んな後悔を抱えている彼を慮って手を引くのは、リリーの姿をしていることでそれを思い出させてしまう自分たちでなくてはならないとアーニーは思ったのだ。

 でなければ自分は、人の心を食らうしかない能無しになってしまう。


「君がいいなら話そうよ。そうやって忘れないように覚えていよう。忘れてしまったことは思い出していこう。リリーのことを知っているのは、もう君とグレッグしかいないんだ。なのに、君たちが我慢してたら何も無くなっちゃうじゃないか。それでさ、良かったらそこに僕たちも混ぜてよ。みんなでいつかリリーのお墓を作ろう」


 アーニーのその言葉に、テオはずりずりの顔を上げた。その拍子に逃げ遅れた少女の手が額に触れる。水に触れた後だからか、ひんやりとして心地がよかった。




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