125話 花冠2
【125】花冠2
「どうしてなの、テオ。求めてもいなかったことを、ただ面倒なだけのことを、それでも君が僕たちにしてくれるのは、どうしてなの」
「守るって言ったじゃないか」
「まも、る?」
あまりにもあっけらかんとテオが言うものだから、アーニーは素っ頓狂な声を上げてしまった。それを真っ直ぐと見たテオが、だって、と繋げて言葉を続ける。
「君が言ったんだ、この街にいる間は守ってくれって、俺に。花手水っていうのを見れなかったことが悲しかったのか、悔しかったのか、俺には君たちの気持ちは分からないけど。でも、やっときゃよかったなって思ったんだろう」
そう言って、テオはもう一輪の花を摘んだ。角のように天を向く白い花弁が、そのまめだらけの手の中で揺れる。
「なら、やったらいいんだ。灯りの一個を見たくらいで思い出すんなら、やってしまってから思い出せばいいんだ」
そうしたら少しはましになるだろう、そう言葉を続けたテオは、ほんの少しだけ唇を尖らせた。
しゃがみこんでいる事もあり、まるで拗ねているようにも見えるその姿に、けれどアーニーはきっとそうではないことに気が付いた。
「後悔でずっと心を傷付けるくらいなら、ちゃんと膜を張らなくちゃならない。じゃないとずっと苦しいままだ。なのに、それを知らされといて見過ごすのは、守ったことにはならないだろう」
多分、きっと、悲しんでくれている。
泣くのを我慢する子どものように、心の中の悲しみを、そのままの形で吐き出さないように堪えている。
そうだ。
知っていたじゃないか。幼い頃の彼は、うんとうんと泣き虫だった。
「なに、それ。なんだよ、それ」
声を上ずらせたアーニーが、自分の胸よりも少し上、ちょうど鎖骨の真ん中のあたりに手を添える。
その皮膚の下、骨よりもほんの少し奥。そこに“彼女”の記憶も潜んでいる。テオが決して名前を呼びたがらなかった、たった一人の少女の記憶だ。
記憶でしか、なくなってしまったものだ。
「嫌だったか」
「そういうことじゃない、ばーか」
「そういうことを言われると、それなりに気にする」
「……ごめん。でも……、ありがとう」
その場で膝を抱え、すっかりと俯いてしまったアーニーが消え入りそうな声で言う。それを辛うじて耳にしたテオは、ほっとしたように小さく息を吐き出した。
その姿を見たアーニーは思う。
なんだ。あの子の記憶の少年は、まるで別人みたく変わってしまって残っていないと思っていたのに。どこまでのその芯の部分、根底みたいに隠された場所は、やっぱりそのまんまだった。
アーニーには、それが嬉しくて仕方がなかった。
「じゃあ、作ってみようか」
がばり、と顔を上げたアーニーの言葉に、テオはひとつ瞬きをした。その灰色の瞳が一瞬だけ隠れる様を見つめたアーニーは、手にしたままだった花をバケツの水面に浮かべる。
流れることもない水は、ふわふわと落ち着きなくその花を右へ左へと揺らした。
「沈むかな」
「沈めるのか」
そろってバケツを覗き込む二人が、囁きのように言葉を交わす。アーニーの細い指先が、ふかりと浮いた水面の花をつついた。
「そう言われるとどうだっかな。僕が見た写真では青い花を使っていたから水の底に沈んでいるように見えただけかもしれないや。どうだっけ、浮かべていたんだったかな。そもそも花って水に沈むのかも分からないや」
そう言って首を傾げたアーニーは、同じ様にして頭を傾けていたテオを見上げた。追加に摘んだもう一輪の花を水面に浮かべたテオが、指先で押し込んでも反発するように浮かび上がる花を見つめて口を開く。
「……どうやったら沈むんだ、これ。押しても押しても浮いてくる」
「と、とりあえず、たくさん入れてみよう。底が見えないくらい、うんとうんとたっぷりと」
アーニーの言葉に頷いたテオが、水に濡れた手で次から次へと花を摘む。それ倣うように地面から生える花の茎を撫でたアーニーが呟くように言った。
「どれくらい要るかな」
「こんな所、どうせ誰も来やしない。ちょっとくらい禿げさせてしまえ。贅沢三昧だ」
「ははは、そうだね。うんと贅沢しよう」
花を摘み続けるテオの言葉に、アーニーは柔らかに笑った。花を集め続けるテオに習ってアーニーも白い花に手を伸ばす。下を向いたためによく見えるようになったつむじへと、テオはおもむろに手にした花を乗せた。
ひとつ、ふたつ。数えるように乗せられていく花が髪の流れに沿って水面に落ちる。
それに気が付いたアーニーが顔を上げると、追加にとまとめて乗せられた花が、ぱらぱらと少女の周りに散った。
ぱちくりと瞬きをするアーニーの頭の上に、テオは更に摘んだ花を次から次へと乗せていく。無言でそれを繰り返すテオを見上げたアーニーは、やがて、にやりと笑って口を開いた。
「そういうのは耳の上にさすものだぜ。一歩足りないね、キザ男」
「さして欲しいのか」
「ううん、やめて。僕、君に格好よく口説かれたい願望はないや。流石にむず痒い」
「そうか。なら、やめておこう」
これが最後と言わんばかりに、アーニーの前髪に花を横たえたテオが言う。艶のある少女の髪を伝って落ちた花が、ぽたりとまた水面へ落ちた。
そうしていくつも花を浮かべた頃、バケツの水面には沢山の花が白い花弁と緑を織り交ぜて横たわっていた。
天頂から見下ろせば均等に開いた丸い花も、横にしてしまえば湖にいくつもの水死体を浮かべたように見えてしまったテオが口を開く。
「茎は外した方がよくないか」
「そうだね。なんか、横向きだとそっぽを向かれてる気分になる。せっかく丸くて綺麗なんだし上を向いてて欲しいよね」
物騒な連想を隠したテオの言葉に渋い顔をしたアーニーが頷く。水面に浮かぶ花を一輪だけ手に取ったテオは、試しとばかりに花と茎の付け根に爪を立てた。
ぷちりと音を立てるような感触を指先に残し、短く茎を切り取られた花は、丁度よく頭でっかちな花弁の塊だけを残した。ひんやりとした水滴が指を伝って手首を冷やす。
テオの向かいで同じ様に茎をちぎろうとしたアーニーは、花弁の根元から力をかけてしまったために、はらはらと花を解体させてしまっていた。
「あー、がくまで取っちゃった。これじゃあ散らばってしまうね」
「その下で切るとどうだろう。ほら、こう」
「わあ、綺麗に残ったね。ううんと、このあたり?」
「ああ。それでいいんじゃないか」
テオが指先で摘んで差し出した茎をもがれた花を見てアーニーが真似をする。細い指の爪先で茎と花を切り離したアーニーは、陽光を眩しがるように目を細めて口を開いた。
「それにしてもこれは、小さくて、丸くて、とても綺麗な花だね」
新たに水面からすくい上げた一輪を日にかざして見上げるアーニーの言葉に、テオは新しく花を三本ばかり摘みながら答えた。
「そうだな。子どものころはこれでよく花冠を作ったけど、もう編み方を忘れてしまった。固結びではなかった気がするが、どうだったか。三つ編みが近かった気がするけど。……ねじるんだったか?」
そう言って、テオはうろ覚えの記憶を頼りに、三本の花を繋ぎ合わせようと絡ませた。十数秒に渡り四苦八苦した挙句、思い出せないと諦める。
「無理だ、できない。忘れるもんだな」
そう呟いたテオの隣で膝に頬杖をついたアーニーは、微かに眉を寄せた。絡まっては解けるテオの手元の花たちを睨むように見つめる。
一度口を開き、閉じる。やがて意を決したように震えた息を吐き出した。
「君が一番上手だったのに、忘れてしまったのかい」
それはどこか緊張したような声だった。アーニーの言葉に目を見開いたテオが息を呑む。
アーニーの言うことに気が付かなければ少しはましだったのだろうか。テオはそんな考えに顔を顰める。
この手に武器を持つようになってから、花なんて摘んだ試しはなかった。兄弟子ニールはテオがそこらの戦場で死なないように育てるのに必死で、間抜けが道端に腰を下ろす暇さえ許さなかった。
テオもそんな兄弟子の扱きに必死でしがみついた。ようやっと人並みに動けるようになった頃、兄弟子ニールがテオの限界を悟り、戦闘員としての育成を見限ったときですら、やっぱり花になど手を伸ばさなかった。
だって、そんなもの、その時にはもうとっくに忘れていた。
だから、アーニーの言う“花を編むのが一番上手かった”のは、リリーがまだ生きていた頃の話だ。神様を讃える孤児院で、ゆるやかな死を無自覚に待っていた、取り返しのつかないほど幼い頃の話だ。
「聞きたくない」
詰まった呼吸を解すように深く息を吐き出したテオは、震える言葉で辛うじて短くつっぱねた。反射的に顰めていた眉を隠すように手で顔を覆う。閉じきった視界にはもう何も映ることはなかった。
それでも。
「リリーもグレッグも不器用で、君の作る花冠を見ては対抗心を燃やして競走を始めていたね」
それでもアーニーは語ることを止めなかった。恐らく、それはテオの拒絶を見てから決めた続行だったはずだ。
視界を閉じたテオへと近付くために、ずりずりと靴裏を土に滑らせる音が聞こえる。
「君はそんな二人の仲を取り持とうとして、三人でまとめて被れるくらい、うんと大きな花冠を作ろうとして」
「……アーニー」
「君が摘もうとした花を、グレッグに挑発されて興奮したリリーが踏んづけたものだから。それに驚いたのかな。君は大泣きしてしまって、それをグレッグがまたからかって」
「アーニー!」
「……いっつもみたいに喧嘩する二人を見て、君はやっぱりいつもみたいに泣いていた」
テオの拒絶に取り合うことなくアーニーは言葉を続ける。その小さな口を塞ぐでもなく、首の後ろを通して頭を抱えたテオの指が、晒された首をがりがりと引っ掻いた。
押さえつけるように頭を下げて、やがて地面に膝をつけたテオが土の上に丸くなる。いつかジルが言っていたように、腕を三つ折りに畳んで地べたに額をすり付けるなんてことを本当にするとは思ってもいなかった。
でも、そうしなければたった一週間と少し前の坑道の中、後悔したあの日と同じ自分になってしまいそうだったのだ。頭ごなしに怒鳴りつけて、きっと、今度はその胸ぐらすら掴んでしまうかもしれない。
テオは、それが恐ろしくて仕方がなかった。
「あのとき、珍しくなかなか泣き止まなかった君の頭を撫でた感触を、僕は知っている」
震える手で必死に頭を押さえつけるテオのくせ毛に少女の指が触れる。人差し指と中指が確かめるように、焦げ茶の髪に隠れた頭皮を撫でた。
「リリーの手の暖かさを知らなくても、彼女の指が触れた君の髪の柔らかさを覚えている」
もう、限界だった。