124話 花冠1
【124】花冠1
朝、ベッドの上で目を覚ましたテオは、どうにも痛む頭を掻きむしりながら上体を起こした。
自らの隣でくうくうと眠る菫色の髪をした少女へと毛布を掛け直し、テオはつきつきと痛む頭を手で覆う。
「……頭、痛い」
どうにも、昔から朝は調子が悪くて敵わない。凝り固まった首を解し、脳に登る血流を耳の奥に感じながら、テオは小さくない溜息を吐いた。
「う、ん、朝?」
声を出さずに唸りをあげるテオの気配に起こされたのか、ニーナが目を覚ます。よく寝ていたのに悪い事をした。テオは寝ぼけ眼を擦る少女を見下ろして頬を掻く。
「おはよう。今日は随分と機嫌が悪そうね」
「おはよう、ございます。機嫌は、特に、悪くないよ」
地を這うように低く消え入りそうな声で、テオは返事をする。すると、のそりと起き上がったニーナがテオの下がり切った肩にのしかかった。
その拍子に引きつったこめかみが痛む。テオはささくれた指先で眉間に寄ったしわを必死に解した。
「今日もお仕事?」
「今日は休む。どこか行きたいところでもあるかい」
「私は特に無いわ。昼間のことならアーニーに聞いてちょうだい」
そう言って、ニーナが自らの長い髪を払った。途端に菫色の髪が、根元から夕暮れのような橙へと変化する。
窓から差し込む朝日を恨めしげに眺めるテオが、灰色の瞳を目一杯に細めると、ニーナから入れ替わったアーニーが心配したようにテオの顔を覗き込んだ。
「おはよう、テオ。気分が悪いのかい?」
「大丈夫。朝はたまにこうなる。気にしなくていい」
自分の顔を覗き込むアーニーの橙の瞳から逃れるように、ついと目を逸らしたテオは小さく頭を振った。固まった血液がごうごうと音を立てて首元で詰まるような感覚は、夢見の悪い朝に酷くテオの気分を落ち込ませる。
自分の荒れた唇を指先でつついたテオは、ちりちりと不快感をもたらす感触を他所に口を開いた。
「アーニー。どこか行きたいところとか、用事はあるか。入り用なものを買いに行くとか」
テオのその言葉に小さく首を傾げたアーニーは、一度考え込むように視線を下に向けた。しかし数秒して橙色の瞳をテオへと戻し、ゆっくりと首を横に振る。
「特にはないかな」
「なら少し付き合ってくれないか」
「分かった。どこへ行くんだい?」
テオの言葉に、なるほどあの質問は外出の誘いだったかと合点がいったアーニーは、行先も聞かぬまま快く頷いた。
アーニーの肯定に対し、テオは緩慢な動作で灰色の目を少女へと向ける。それは寝起き故の眠気をはらんだように、どこかぼんやりと遠くを眺めているようにも思えた。
「花を、見に行こう」
命を奪う武器の転がる部屋の中、無骨な男の低い声音が場違いなまでに可憐な要望を零した。
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宿を出て、城壁ともギルドとも違う方向に歩くと、なだらかに坂になった町外れの森に辿り着いた。
いつかの昔、エイダンから引き継いだ幽霊探しの夜間巡回をした場所だ。あの頃に気を払っていたご婦人は、二年前に内地へと越して行った。もぬけの殻となった家は手入れさず、朽ちるのも早い。壁を伝って屋根までも登ろうとする蔦を払う人間はもういないのだ。
獣道を伝って森に足を踏み入れるテオの腕にアーニーが抱かれている。
生い茂った草で肌を切らないよう、テオの大きな上着を借りて体を覆ったアーニーは、足元の悪い獣道をものともせずに進むテオの腕にしがみついた。
「墓参りに行くみたいだ」
少女の小さな体を支えるテオの逞しい腕、その反対側の手に携えられたバケツを見て、アーニーは思わず呟いた。
宿を出る前にアイリーンに借りたそのバケツの中では、森に入る途中にあった古い井戸で汲んだ水が揺れている。
片腕には決して幼いとは言えないはずの少女を、もう片方の腕に水の汲まれたバケツを持ったテオは、普段大薙刀を振り回すその腕で軽くないはずのそれらを支えていた。
「どうして墓参りだと?」
木の葉が日差しをさえぎって影を落とされた灰色の目でアーニーを一瞥したテオが問う。
夜間に足を踏み入れた見回りと違って、午前中の麗らかな日差しの元では、深い森独特の不気味さはない。
同じように斑な影に髪を浸したアーニーが、揺れる腕の中から落ちないよう、テオのシャツにしがみつきながら答えた。
「僕達の国では、お墓に水を満たしたバケツを持っていくんだよ。お参りをする前に、墓石に水をかけて溜まった汚れを落とすんだ」
「これから行くところに墓はないけれど、代わりになる石でも探すか?」
「いいや。ここに偲びたい墓はないから、いらない」
「そうか」
首を横に振ったアーニーに、テオは言葉少なに返した。テオの履く分厚いブーツの底が、土を踏み、枝を折り、時折飛び出た木の根を踏み越える音が心地よくアーニーの耳に届く。
「急に、どうしたの」
「なにが」
「花だなんて、君が言うのは意外だった」
テオの腕の中で揺れる視界、その左右を埋める数多の木の肌が、どこか干からびた水底のように思えたアーニーは、湧き上がる正体不明の不安感を隠そうとテオの肩口に額を埋める。
意外だなんて嘘だ。
昨日、さんざんぱらテオとソフィアと話した内容を、アーニーはきちんと知っている。知っているからこそ期待を抱き、同時にそのおこがましさを恥じた。
出会って数日、しかも彼の姉の体を借りた身で、一体これ以上の期待していいものか。
力のついた体つきも、低くなった声も、つっけんどんになったその態度も。
聖骸の核に残された記憶、その中心にいた泣き虫の少年と彼は、もうこんなにも遠ざかってしまっている。
揺れる瞳を伏せて地面を睨むアーニーに、テオはひとつゆっくりと瞬きをした。
木の葉の緑には紛れなくとも、木の幹の色に埋まる様な焦茶のくせ髪が揺れている。
「ここ一週間、俺は仕事で外に出ていたたけど君達は夕飯時以外ほとんど引きこもりっきりだったろう。……昨日の騒ぎは、また、除くけど。たまには外に出て、何かをするのも必要かと思った」
「そう。それで、花を」
テオの返答に、アーニーは自分の口から零れかけた言葉をその途中で飲み込んだ。
左右に伸ばしたパン生地が途中で千切れるように途切れたアーニーの言葉の違和感は、しかし途端に開けた視界に映る景色を前に霧散する。
そこはまさに花畑であった。それまで歩いた森の木々が場所を譲るように開かれた小さな広場に、白く群生した脛丈より低い花が絨毯のように咲き誇っている。
木々の葉が陽の光を遮った森の中とは違い、目一杯に陽光を浴び、朝露の乾いた細い花びらがそよ風に煽られて揺れていた。
「きれい、だね」
ほう、と息を飲んだアーニーが零すように呟いた。それを耳にしたテオは、抱き上げていた少女の体をゆっくりと地面へと下ろす。白い花弁の先がアーニーの細い足をくすぐった。
「凄く綺麗だ。僕、こういう景色を写真以外で見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。すごく胸がどきどきする」
「そうか。なら良かった」
目の前の光景に目を奪われた様子のアーニーを見下ろしたテオは、ただ一言、そう言って目を細めた。
水を湛えた重たいバケツを下ろしたテオは、土の上に敷かれるように咲く花を踏まないように、その場にしゃがみこむ。
ささくれの出来たテオの指が、花のひとつの茎をつついて離れた。
「青くはないけれど、丸い花だろう。水も用意した。あじさい、では無いのだろうけど、これで作れはしないかな」
「なにを?」
「花手水。見たかったんだろう」
テオの言葉に、アーニーは弾けるように振り返った。地面に置かれたバケツは未だにゆらゆらと水面を揺らしている。
その傍に膝を着くテオは、試しに一輪と足元の白い花を手折っていた。
「それが、したかったの?」
灰色の目を地面へと落として、無骨な手に似合わなくなってしまった小さな花を携えるテオを見下ろしたアーニーが、零すように言葉を落とす。
“花を見に行こう”。
思い出すのは、自分のものですらない記憶の中の、幼い子どもの姿だ。
アーニーの言葉に顔を上げたテオが、小さく首を傾げて問い返した。
「見たいんじゃなかったのか?」
「……そう、だけど。でも、あれは、ここじゃ、なくて……」
そこまでを言いかけて、アーニーは言葉の先を飲み込んで俯いた。
昨日、過去自分であったはずの一部が漏らした願望は、無い物ねだりの我儘や、する気もない癖の妬みたがりの羨望だと知っている。
ここにないから違うのだと、出来たはずの物事をしなかった自分が吐き出すのは、やはりおこがましいように思えてしまった。
けれど、目の前の男は違った。テオはただひとつ頷いて、願望に付加された負の感情など無かったように、言葉の先を引き継いでみせる。
「君たちが、元いた場所の話だろう」
テオのその言葉に、アーニーは顔を上げた。拍子に揺れる白金の髪が、橙をはらんだ陽光を浴びる。
「……そうだよ。あんなの、ただの愚痴だ。億劫がった女が、面倒がらなきゃ良かったなんて、手遅れになってから宣った泣き言だ。そんなこと、君が取り合う必要なんてなかったろう」
「でも、そうしたかったんじゃないのか。俺はそれを知らないから、これでいいのかも分からないけれど。でも、君が見たいと思ったそれは、どうしても諦めなくてはならないことだったのかな。今からでは、もう間に合わないものなのかな」
アーニーの言葉に、困ったように眉尻を下げたテオが答える。アーニーの揺れる視線が灰色の瞳とかち合った瞬間、テオは気まずそうにその視線を落とした。
きっと、テオが抱いたそれは善意だと、アーニーは思う。喜んで欲しいと思って差し出した行為を、行き先となった相手が素直に受け取らないから、椀のようにすくい上げた手の行き場を失って困っている。
その椀は、受け取る手がなければ、干からびるか、ひっくり返るかをして、空になるのを待つしかない。
その優しさのようなものが、ただの意地だけを理由に無駄になることが、アーニーには悲しいことのように思えた。
「……君のことは、よく分からないよ」
テオの指先に摘まれた一輪の花を受け取ったアーニーが呟く。伺うように視線を上げたテオの目に、アーニーは横倒しにした花をかざして見せた。
テレビニュースで流される荒い画像の中、そこだけ鮮明に映される黒いラインを真似したけれど、思ったようにはいかなかった。
視線を遮るにはあまりに細すぎた目隠しは、天からそそぐ青い光を反射して、その向こうの灰色の視線を浮き彫りにする。