123話 帰路4
【123】帰路4
「そうだ。あれ、少し見ていかないか」
テオがそう言って屋台のひとつを指さしたのは、あと二つ角を曲がれば宿が見えてくるといった地点だった。
「いいですよ。何があるんですか?」
「石が光っている。ああして置いているのは今しか見られないから」
夜も深くなりつつあり、人のはけた道の中でも、その屋台は一目でそれと分かるほど鮮やかな明かりに取り囲まれていた。無愛想な様子の店主が椅子に座って居眠りをしている。かくり、かくりと船を漕ぐ姿には疲労が伺えた。
その店主の足元に置かれた木枠の水槽には、なみなみと水が張ってあり、底から登る何かの光が水面に反射して揺らめいている。地面の上に置かれた水槽は、まるで金魚すくいの出店のようだった。
テオに促されるまま近付いたソフィアは水槽を覗き込み、その底に沈められているランプ石を見て感嘆する。
「ああ、これは」
「どうかな」
「綺麗ですね」
その水の底には、大きさもまちまちなランプ石がそれぞれ違う質感の表面をさらして輝いていた。淡い赤や爽やかな緑、その中にいくつか混ざるひややかな青は重なりたいながらもその色を混ぜることはない。
溜め込んだ魔力により発光するそれは熱を持たず、まるでガラスに込めたイルミネーションのようにも見える。もしこれがもみの木を飾っていたならば、ソフィアはきっとクリスマスの到来を思い出しただろう。
「売り物なんですか?」
「いいや、これは違う。祭りの日に山の斜面に飾るランプ石なんだ。魔力を込めておかないといけないから、こうして飾っておくことで魔力の寄付を募っている。これは客寄せのために灯している分だね」
そう言って、テオは水槽の側へと屈み、手を浸けた。表面を飾っている光るランプ石をずらすと、その下に隠されていたそれがあらわになる。光を放つ石の影に見えたそれは発光していないランプ石だ。
水に触れて魔力を流すと、中に沈められたランプ石に充填される仕組みとなっているので、魔力の操作が苦手なテオでも困らずにランプ石の充填ができる。
「あの山が夜の空に見えるくらい沢山を飾るんだ。だから、こうして皆で灯りを用意する手伝いをする。この街はそうして皆で死者を弔うんだ」
指先から微量な魔力を放出しながらテオが話す。種の接近に際して、この街はその人口を減らしてしまった。テオが住み着いた五年前と比べても、装飾の規模は縮小している。
それでも最後とされる今年まで、街の住人はその灯りを諦めなかった。
だからこそ、テオはこの灯りを愛おしく思ってならないのだ。いつか壁の向こう、自らの命すら無くなった時、この灯りがあったという事実は死への恐怖を隠してくれる。そう思ったのだ。
水槽を見下ろすテオの顔を灯りが照らす。それを一瞥したソフィアは、再び水槽へと視線を戻して呟いた。
「アーニー、見えていますか」
水槽のそばにしゃがみ込んだソフィアは、水に沈むランプ石に目を奪われているようだった。その横顔を見つめたテオが黙って少女の呟きに耳を傾ける。
「綺麗ですね、アーニー。いつか写真で見た花手水を思い出します。あれを見たがったのは、きっとあなたでしたね」
ソフィアはそう言って、水槽に張られた水面を撫でた。ひんやりとした温度が少女の指に触れる。
「花手水?」
「ええ。私たちのいた世界では、神様や仏様に手を合わせる前に手水舎で手を洗うんです。そこに花を沈めたものを花手水と言いました。春には春の花を、夏には夏の花を、秋には紅葉を沈めることもあったかと思います」
「綺麗だったのか」
「ええ、そうだったんでしょうね。私たちはそれを写真……書物の挿絵で見た程度でしたので、現物を見たことはないんです」
懐かしむように目を細めたソフィアが言う。大輪の花の首を切って水に沈めたその光景は綺麗だった。液晶越しの光景ですらそう思ったのだから、きっと肉眼で見たらもっと素晴らしいのではないかと期待した。
「多分、あじさいが見たかったんです。梅雨の最中、小さな花が球をかたどって咲く花の花手水。その中でも、きっと、青いあじさいが見たかった」
でも梅雨は気が滅入るとか言い訳をして、足を止めた。結局あれは後悔となった。
「見たいなあって。ずっと思ってて、でも見に行かなかった。行かないままで、終わってしまった」
一等贅沢なものを見てやるんだと、だから今、動かないのは仕方ないのだと。細長い国を半分縦に移動するくらい遠い所なら、一番綺麗な花手水が見られるから、そこに行けるまでは動かなくても仕方ないんだって。そう言い訳をしたまんまだった。
「“いつか、いつか”はいつまで経ってもこないものです。いつまでも自分が動かないから、そうならないのも当然でした」
いつまでもあると思っていたものは錯覚だった。当たり前だ。手を伸ばさないものに触れられるのは稀であり、期限のない物事は皆無に等しい。それでもまた来年、まだ来年、そう思っては遠ざけたのは自分自身だ。
「行けばよかったのにね」
どうせいつか見れなくなるんだから。そう気が付いたのは、全部間に合わなくなった後だった。
あーあ、と溜息を吐いたくらいで諦められると思っていた後悔が、思ったよりも大きかった。そう気が付いたのも、やはり今更なのだ。
憧れの再現のように輝くランプ石は、あの日、焦がれた花の代替品にはなりやしない。
「今でも」
悪態のような後悔を吐くソフィアをぼんやりと見つめたテオが言いかける。一度、はっとしたように言葉を飲み込み、しかしやはり口に出すことを決めたのか、テオは再び口を開いた。
「今でも、それが見たいのか」
テオの灰色の目が真っ直ぐにソフィアを見つめていた。ソフィアはその問いかけに少し悩んで首を横に振った。
「多分、あれを欲しがった自分は私の中に残らなかったんです。だから、やっぱり今の私には、それはどうだっていいものになってしまった」
だけど、とソフィアは言葉を続けた。
あの日、それに焦がれた自分の心を覚えている。その記憶を、延長線の一部を、誰が持っているのかも見当がついている。
「だけど、だからこそ、アーニーには見せてあげたいんだと思います」
そう言って、ソフィアはすくりと立ち上がった。長い白金の髪がさらりと揺れる。
「私が覚えていて、私が選んで、私があなたに持ち出した、私たちのお話です」
ソフィアはそう言って、テオの手を取った。目線の高さが合うようにしゃがんだままのテオがその目を見つめ返す。
灰色の瞳の男へと、ソフィアは小さく笑って言葉を続けた。
「あなたは、覚えていてくれますか」
「ああ。覚えていよう。必ず」
その言葉が願いの形をしていたと気付いたテオが頷くと、少女は安心して笑った。