121話 帰路2
【121】帰路2
「それともコンプレックスの暴露でもしましょうか。人の恥を知れば、あなたの不安も楽になるでしょうか。そんなことはないでしょうかね」
宿へと向かう足をとめないまま、そして同時にテオの顔すらも見上げないまま、ソフィアはまるで吐き捨てるように続けた。
白金の髪が月明かりを反射して揺れる。その色が緑に染まらないのであれば、ソフィアは権能による操作をする気がないということになる。魔力の操作と激しい感情の揺れ、それが白金の擬態を剥ぐのだとアーニーが言っていた。
誰のことも好きに動かせる人間が、対話を選ぶ理由は何だろう。その先を想像した時、テオは自然と口を開いていた。
「……俺の、コンプレックスは」
声が微かに震える。コンプレックス、恥、劣るもの。そんなもの、探す必要もなく思いつく。自覚的に選びたいものも、無自覚に遠ざけてしまいたいものも、その形は様々だ。
聖教が嫌いだ。それを押し付ける人間が嫌いだ。救いの一端として担ぎあげたはずの相手ですら、挑んだことの代償を理由にして爪弾きにする世の中が大嫌いだ。
でも、それと同じくらいに、自分が許せないからと他人が大事にしているものを嫌いだと言ってしまえる自分が嫌いだ。火をつけたように腹を立てるのではなく、水が布に浸透するように粘り気のある嫌悪をかざす自分が嫌いだ。それを飲み込めないことを、どこまでも言い訳のようにして生きている自分が嫌いだ。
でも、それを看板に生きるには、その根本すらも揺らいでしまった。隣を歩く少女の姿が、いつの間にか足を止めていたテオを振り返る。
聖教嫌いのテオドール。そのスタート地点だった少女は既に現状に追いついてしまった。
こうならないように生きてきたのに。
喉を突いて出そうになる言葉をテオは飲み込んだ。そういうことを、言っていい相手では無い。きっと、これはもう、一人で考えないとならない事だ。
「……俺のコンプレックスは、そうだな」
誤魔化すように小さく笑って首を掻いたテオは、再び帰り道を歩き出す。その隣に並び、同じように歩き出した少女は、やはり黙ってテオの顔を見上げていた。
テオにとって自らを低く見積った項目など沢山ある。それでも、その中で恨みを除外した純然たる憧れがあるとしたならば。
テオは思いついたそれを、今度こそ躊躇うことなく口にした。
「魔術を使えないこと、です」
「意外でした。興味が無いものと思っていたのに」
「火を起こすのにも、水を浴びるのにも困らない。きっと便利だ。戦うだけではなく、生きるのに。でも、知ったところで何もならないし、他のことにかまけてたから、知らないのは本当だ」
「なるほど。それはコンプレックスらしいコンプレックスですね」
テオの言葉にソフィアが深く頷く。誤魔化されたことくらいは気付いていただろう。だからこそ、ソフィアはその話を掘り下げることはしなかった。
「私のコンプレックスは、ものを決められないことです」
続きの代わりとして述べられたソフィアの言葉に、テオは耳を傾ける。その鼓膜へと届けるように、ソフィアはゆっくりとした口調で言葉を続けた。
「笛を選べと言われた時に、私にはそれが出来なかった。笛なんてどれでもよかったし、どうだってよかった。自分の中に何かを指さす願望がない感覚です。ですから私は、そういった判断、選択、決断に関する部分をアウトソーシングしています。外、というにはあまり境のない相手ですが、最たる相手がアーニーです」
興味が無い、関心が湧かない、それを確保するための受け皿が傾いている。それでもそんなソフィアをいっぱしの少女として振る舞わせているのはアーニーの言葉だ。
「アーニーの言うことに私は従います。アーニーが従えと言った相手に従います」
その場限りでいい。他人に良い顔をさせる振る舞いを要請する。ソフィアはアーニーの示したその方針に則って、自らの姿に最適化された自然な振る舞いを再現するのだ。
子どもの体なのだから、自らをそう見えるように取り繕う。目が覚めてからこの街にたどり着くまで、そうして演じた自分がいるから、今の今までそうしてきた。
「ああ、いえ。ごめんなさい、一つ嘘をつきました」
しかし、ふと気が付いたようにソフィアが足を止めた。吊られて立ち止まったテオを見上げ、ソフィアはにぱりと笑う。
「私には目的を達成したいという欲がありました。それだけはありました。忘れていました。それしかなかったので、当たり前になりすぎて」
胸を張るように体の後ろで指をからめたソフィアは、ゆったりとした足取りで歩き出した。今までよりもずっと小さな歩幅に合わせるよう、テオの長い足が続く。
「多分、初めは疵でした」
ソフィアがそう話し出す。いつの間にか宿町に着いたらしく、夕飯時をほんの少し過ぎた街並みは、就寝の準備のためか静かになり始めていた。
「失敗したんです。達成できなかった過去があるんです。難しい話じゃない。仕事を辞めたってことなんですけど」
子どもの姿には見合わない話だった。しかし彼らが本来、自らよりも長く生きていたことを知らされているテオは黙って耳を傾ける。
「あんなに頑張って入ったのに、結局、辞めるんだ。情けないな」
それはまるで他人事のような話ぶりだった。白金に繕われた瞳がどこともなく前を向く。
「あんなに胸張って生きていたのに、結局、投げ出すんだ。恥ずかしいな」
ぼんやりとした輪郭のない話だったが、それはこの世界にない言葉ではなかった。システムが違えど、人が人として生きる以上、共通となる土台がある。
「あんなに夢見て目指したのに、結局、どうでもいいんだ。みっともないな」
だからこそ、テオはソフィアの指す疵が理解できた。プライドの高さが自信の無さに比重負けする。ちぐはぐなようでいて、自然な心の動き。周囲の評価が過ぎれば詐欺師になった気分になるし、自信が過ぎれば道化になる。その間で気分のいい立ち位置を探すのは困難だ。
「そんな感情が初めでした。それだけが全てと思えるほどに視野が狭かったのだとも思います。周囲、というか、親ですね。責められた、気がします。気がするというのは、私もその当時の自分の感性に自信が持てないからなんですが」
するり、とソフィアの手が自らの髪を撫でる。毛先を確かめるように指の間で止まった髪を目線の高さまで掲げ、興味を失ったように手放した。街灯にきらめく髪が、幕のように落ちて揺れる。
「ともかく、責められた気がしたので、だから“最後までできない人は正しくない”のだと思いました。もう子どもではありませんでしたけど、親の言葉ってどうしてあんなに重いんですかね。振り払うには、あの時の自分は少し疲れすぎていて」
言葉を挟まないことで続きを促すテオに応えるように、ソフィアは話すことを止めなかった。
「あなたは二十八なんて立派な大人だと言いましたが、本当にそうでしょうか。あの頃はまだもう少し若かったですけど、元の私達はどうだったんでしょうか。大人って、昼に食事を取り、夜に眠れば勝手になれるものなんでしょうか。私にはあまり分かりません。その定義すらも曖昧です」
ソフィアの言葉に、やはりテオは黙って耳を傾けた。大人の定義。それを定めるのは簡単ではない。ここから先が大人、そう言える定量的な基準をひとつ定めるとすれば、それは成人に達する年齢なのかもしれない。しかし、それですら場所や時代が変われば上げ下げされる曖昧な線引きだ。
まして、彼らは世界を渡り、テオはそうして渡った人間に育てられた。周囲との感覚のずれは多少なりとも感じたことがあるし、それ故に、ひとつの定義に依存することの意味に疑問を持ったこともある。
結局は、何を持って決めるのか、何をしたくて許すのか。それを自分で選ぶしかないのだろう。誰の言葉に従うか、それを決めるのだって自分だ。
「今、あの当時の自分と、多分、私は地続きじゃない。でも、それを疵として残してしまった自分という人間の一部が私です。全体で見て小さかったはずの疵が、六等分の面積では大きかった。人から見た花は小さくとも、蝶から見た花は大きい。そんなイメージです」
そう言って、ソフィアは小さな手をかざすでもなく持ち上げた。ちょうど胸の高さ、心臓のあたりで手を握り込む。
「だから、成し遂げる。成し遂げなくてはならない。今度こそ」
その言葉は誰に向けたものでもないようだった。隣を歩くテオにすら宛てられていない言葉が、踵を返して少女の胸へと落ちる。
「そういう欲が、私にはあります。そして同時に、本来あるはずの“何を”や“どうして”という部分が欠落しています。思いつかないというよりは何だっていいという感覚です。と言っても、正確には六等分の精神の欠損を聖骸ソフィアの感性が補完している部分もあるので、全くないという程ではないですけど。そうでなければ歩くことすらままならなかったと思います。本来あるはずだということが分かるゆえに、不足していることを自覚させられて苦しいです。だから、私のコンプレックスは、自分でものを決められないこと、ですかね」
そう言葉を締めくくったソフィアは、自らの足の感覚を楽しむようにくるりと回った。一回転したところでテオの前へと躍り出た少女が腕を広げる。
「これで、あなたの不安は埋まりますか」
にこり、と少女は笑った。安心を促すような笑みだった。きっとこれは本心の笑みじゃない。ほんの少しだけだが、それでもテオはソフィアと話してみて、そう感じた。