113話 少年少女10
【113】少年少女10
「あなたは追うのが得意でしょうけど、私も“撒く”のは慣れたものなんですよ」
前を走るリオが決して振り向かないよう、足を止めないよう、転ばないよう、権能による“操作”でアシストをしたソフィアが呟く。
一週間前、鉱山へと走るソフィアをホゾキが捕まえられなかったのは何故か。
“あの少女は足が早くないのに、どうしてか定期的に見失う”とテオに向けてぼやいたホゾキは、本来であればオルトロスを仕留めた作戦の一端を担ったテオを持ってしても、その相性の関係上、立ち向かいたくないと思わせるに足る人物である。たとえそれが相性の問題であったとしても、そこに力の差が存在しないわけではない。
そんな人物が、ただ前を走っているだけの少女に追い付けない。
それこそが、聖骸ソフィアに宿り、“操作”と呼ばれる権能を手に入れ、聖骸リリーに宿ったベルにより飲み込まれたソフィアの身に着けた処世術の一つであった。
ソフィアの権能は対人としても対魔物としても、最低限の対処が可能だ。鉱山で巨大蟻を操作して行ったような同士討ちや撹乱を初め、テオへと使ったように動きや発言の一切を封じることも出来る。実体のある生物を相手取ることにおいて、ソフィアは強力な支配力を持っていた。
故に、アーニーは当初、方針を打ち立てるにあたり、ソフィアへと一つの忠告を行った。
自らが聖骸である事が露呈してはならない。
相手に喜ばれる活動を心掛けることで、人間と敵対しないように心掛けなければならない。
前者は、聖骸である事が露呈する事により聖教へ突き出されてしまえば種への戦いを強制される為だ。
後者においては、人間の尊厳を丸ごと無視できてしまうソフィアの権能は、使いようによっては簡単に相手の敵意を買ってしまう。そう考えたアーニーがソフィアに言い聞かせたことの一つであった。
鉱山でのテオにおいては何を思ったのか、自分の体を好き勝手操り、ましてや負った怪我を思いやってもくれない相手に対して怒りの類の感情を剥き出しにはしなかったものの、大抵の場合はそうはいかない。
指先ひとつで共食いをさせられた巨大蟻などがいい例だろう。大概の生物は、身体の自由を奪い、意思を尊重しない相手を仲間とは認識しないものだ。
自衛のための反撃で“やり過ぎ”た結果を出してしまう。それがソフィアだった。
故にアーニーは余計な恨みを買うことを恐れ、より平和的な手段を用いるようソフィアへと“お願い”をした。
人から追いかけられたら、とりあえず撒いてみよう。
そのお願いを今もきっちりと守り続けるソフィアは、聖教リリーの活動時間の三分の一を担う。そして同時に、その殆どが安全地帯外での活動である。
ポーロウニアの城壁より外を、グレッグと別れてから歩いた時間のほとんどを経験しているのはソフィアだ。治安の低下という言葉だけでは片付けられない地域を、ソフィアは言いつけを守りながら通り抜けてきた。
その細い指先が、くい、と上げられる。
細く、くすぐるような魔力の糸が不可視のつながりを強制した。
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前方を走る鼠色のケープのフードの上、風に飛ばされないように押さえていた少女の指が、不自然にくいと上げられた。
それを視界に捉えたミンディは、その少女の前を走るリオに向けて何かの合図をしたのかと少々の警戒をした。どれだけミンディが自分の力に自信があったところで、聖骸と正面切って争うのは初めてだった。不安がないわけではなく、警戒は怠れない。
二人が走っている方向からして、恐らくギルドへと逃げ込むつもりだということはミンディも理解している。
ホゾキの相手をする事も面倒だが、それ以上にオルトロスを撃破したテオはその報告にギルドへと足を運ぶ可能性が高いと考えたミンディは、出来ることならその手前で事を終わらせたかった。
しかしミンディが警戒からリオへと視界をずらした瞬間、二人とミンディの間を歩いていた客引きの男が、バランスを崩して手にしていた店の旗を取り落とした。
ばさりと風に煽られる音を立てた大きな布の旗が、旗竿を巻き込んで地面に転がる。それを避けようとした周囲の人々は、それまでの足取りを乱してまちまちによろけた。
例えば、それぞれの人が本来、傾くであろう方向から、ほんの少しだけ逸らされたなら。
例えば、たった一歩で踏みとどまれるはずだった人が、何かの拍子でもう一歩だけ後ろに下がったなら。
不規則に乱れた人々の流れを抜けようとしたミンディは、ふと何かに気がついたように小さくその目を見開いた。
最短距離で抜けようとしたルートがことごとく塞がれる。次に選ぼうとしたルートも瞬きの間に埋まる。人がいないと思っていたはずの後方から近付いていた他人が、なぜかミンディの肩にぶつかった。
小さく揺れただけの視線は、正常な視界をもたらすまでに一秒もしないラグをはらむ。
驚いて飲み込んだ息を吐き出そうとしても、喉がつかえたような遅れがある。
それでもと足を踏み出した瞬間に、もう少しだけ進むはずだった足が地面の凸凹につまづいた。
「何か、変ね」
足を止め、その場に立ちすくんだミンディが呟く。その視線の先で、リオの背中を追いかけて走る鼠色のケープが風に揺れていた。
突風にでも吹かれたように体勢を崩した人々が、しかしそれも気のせいだったと思う程度の違和感に首を傾げて歩を進める。その不規則に揺らされた人並みの中、ミンディはぴたりと足を止め、その違和感が去るのを待っていた。
「収まった、みたい」
道の真ん中に立ちすくんだミンディが、リオとソフィア、二人の子どもが角を曲がる背中を見送る。やがて身体にまとわり付くかのような違和感が消えたことを確認したミンディは小さく息を吐いた。
ほんの少しのずれ。ほんの少しの違和感。ほんの少しの不調。
不思議な感覚だ。まるで自分の不備の範疇を装ったように、体のほんの少しを他人から弄られる感覚。
これは、外からの攻撃だ。それは魔術による強化を一切使わず、自らの手足と体質のみを頼りに生きてきたミンディだからこそ分かる異常性だった。
「逃がさない」
小さく顔をしかめたミンディはそう小さく呟き、近くの路地へと駆け出した。
向かう先はギルド。当たりが着いているのなら都合は悪いが先回りだっていい。薄い靴の底を踏み鳴らしたミンディは、強く地面を蹴って跳躍した。
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「ベル、ミンディさんは!?」
「来てないみたい」
ミンディを妨害し、リオを誘導したソフィアが手をつないだままのリオの言葉に答えると、その建物は見えてきた。大きな木製の建物だ。周囲と比べて一回りも二回りも大きいそれは、一目見ればそれと分かるほど、確かに目立っていた。
冒険者という荒くれ者を大人数収容するのに困らない面積があることが外観からも分かる大きさだ。きかん坊達が暴れて穴を開けたのか、日焼けした外壁は所々に修繕跡が目立つ。
その中でも特に目立つのは、新しく付け替えられたことが目で見てわかるほどに白々しい色をしたスイングドアだ。質感だけは新しいのに、人の出入りの度に着いた傷のせいか、嫌におんぼろに見える。
冒険者ギルド。
建前としてはそう呼ばれる組合は、最前線の街という特異性を前に、その実質を前線を支える即戦力の斡旋所へと変えている。本来のギルドの目的のようにどこへ冒険に赴くわけでもない、ただ純粋な戦力を持つものとして傭兵のように身を寄せあった人間たちの巣窟。
その埃にまみれた二枚扉を、リオとソフィアの不釣り合いな細い手が押し開けた。