110話 少年少女7
【110】少年少女7
ベルの手を取ったリオが宿を飛び出し、少し離れた路地裏に駆けこむ。アイリーンが席を外していたのは幸いだった。子どもが二人、外に出たことも気が付いていないだろう。
「ごめん、ベル。君のことをこんな風に巻き込むつもりはなかったんだ、本当だ」
体力のないリオが息を切らして壁に手を着いた所で、掴まれていたリオの手から開放されたソフィアは微かに薄緑に染った瞳を細めて小さく首を傾げた。
「それを私は判断できないよ、リオ。それよりも」
「……ベル?」
「これから、どうするの?」
少女ベルの言葉に、リオは息をのんだ。砂金色の視線を自らの足元へと向けて考え込むリオの答えを、ソフィアは黙したまま待っている。
向かい合うリオへと問いかけたような言葉ではあったが、その実、返答を求めた相手は聖骸リリーの中にいた。
聖骸リリーとして、全体の方針を定めるのがアーニーだ。ソフィアはリオへの問いかけを装ってアーニーへと指示を仰いだが、しかしアーニーが答えることはなかった。
沈黙する少女ベルの前で、やがてリオが、ふと、その中性的な顔を上げる。判断を下すまで、十秒とかからなかった。
「ギルドへ行く」
そう言って、リオはカーディガンの袖をまくった。幅2センチほどのベルトが三本、子ども独特の細い腕に巻き付いている。
三本のベルトをつなぐようにガラス製の試験管のような容器が取付けられており、本来、五本あったであろうそれは、既に残り三本となっていた。二本分の空間が、空の輪のついたベルトの上にできている。
「ここに来るまでとさっきとで二本使った。残りは三本。だから、三度までなら、怯ませられる」
「それは何?」
「強い光で目つぶしするんだ。音は出ないから、耳、というか三半規管にまで影響は出ない。でも、これだけでも、しばらく歩けなくするには十分だったよ」
「そんなもの、どうしてリオが持ってるの?」
「僕が作ったんだ。発案はレジー。あの子はこんな遠まわしなの使わないけど、僕には必要だったから」
そう言って、リオはまた袖の下に試験管のようなもの――フラッシュバンをしまい込んだ。フードの下に長い髪を隠した少女ベルの緑の瞳を真っすぐと見つめたリオは、さらに口を開く。
「ギルドへ行けばホゾキさんって人がいるんでしょう。アイザックが困ったときは頼っていい人だって言ってた。ギルドの人ならレジーのことも知ってるし、ミンディさんだってそういうところで話したくないから、わざわざ宿まで来たんだろうから、少なくともレジーが来るまでの時間稼ぎにはなる。だからレジーが来るまでギルドで待つよ。レジーも宿に僕らがいないって知れば探せる所は限られてる。僕たちに伝手は多くないから、そんなに時間もかからないはず」
そう言って、リオは一度、言葉を切った。方針は決まったようだ。けれどもリオは、何かを迷うように、そこから動くことはなかった。
リオの言葉を聞いたソフィアがその白い手でリオの手を取る。走ったために高くなったリオの体温が、ソフィアの指先を暖めた。
「じゃあ、行こうよ、リオ」
緩く手を引くソフィアに、しかしリオは答えなかった。戸惑うように砂金色の瞳を揺らしている。
「……ベルは」
眉尻を下げたリオは、目の前の少女、ベルの目を見て口ごもった。その暖かな指先が、縋るようにベルの指先を握る。それは置いて行かれたくないと喚き散らすことすら怖がる幼子の仕草のようであった。
「ベルは、待っててもいいんだよ」
だというのに。
だというのに、口から出るのがそういう言葉だったから、ソフィアはどうしてもその手が離せなくなってしまった。弱弱しく握られたリオの手を、ソフィアが強く握り返す。それに驚いたリオの顔を見上げるように腰をかがめたソフィアは、ただ、にこりと笑顔を貼り付けて口を開いた。
「一緒に行こうよ、リオ」
「ベル、でも」
「一人で行くことなんてないよ。私もいる。テオがミンディは凄い人なんだって言ってたもの。そんな人に一人で立ち向かうことない」
ソフィアはそこで一度、言葉を切った。ミンディの名前を聞き、微かな恐怖が浮かぶリオの目から風景を奪うように、睫毛の先が触れるほど近く額を寄せる。
胸を張って対峙しようと、それでもリオはミンディのことが怖かったのだろう。毅然と振る舞うことが恐怖しないことではないと、ソフィアはよく知っていた。
なにせ、昔の自分もそんな意地っ張りな所があったのだ。今、自分としての曖昧な枠組みの中にそれが残っていなくとも、経験としての記憶が知らしめている。
「言ったでしょう、リオ。今の私はあなたのための私。だから、ちゃんとそばにいる」
ソフィアの言葉に、リオは静かにうなずいた。水の幕を張った金色の瞳が誤魔化すように擦られる。不安だったのだろう。仕方のないことだ。ここにレジーはいない。
リオの手は、誰を頼りにしてよいものか、揺れるのは当然だ。けれど、ソフィアから握った手が、同じように強くリオからも握り返された。答えはそれで十分だった。
「行こう、リオ」
「うん、ベル。行こう」
頷きあった二人が路地裏の中をどちらともなく駆け出した。ミンディの気配は未だにないが、追いつかれるのは時間の問題だろう。
ソロの斥候というだけでも厄介だが、その上、この街に居付いている彼女には土地勘もある。そんな相手に純粋な鬼ごっこで勝てるとは思えない。
ならば、取り急ぎギルドへ向かい、“保護者達”の到着を待たなければ。
走り出した今になってもアーニーからの返答はなかった。
交代も、また、ない。
であれば、これでいいのだろう。
ソフィアの指針はアーニーを最たるものと定めている。その彼が何も言わないのであれば、これまでの五日間と変わらず、リオを基準に動いても構わないということだ。
今は腹の中まで明確でない別人になってしまったものでも、元は自分だ。エスパーのように考えの全てが見通せなくとも、言葉の間と沈黙の意味くらいは読める。
ソフィアも自分の予想が大きく外れているとは思わなかった。
リオの手を握るソフィアが薄緑に染まった瞳で前を見つめる。いくつか角を曲がってしばらく走ったが、子どもの小さな歩幅で精一杯、早く走ろうと足を動かすリオは既に息が上がっていた。
リオは運動が得意ではないのだろう。実際、庭を走り回るよりも、本棚の間で読み物に耽るリオの姿のほうが想像しやすい。
並んで手を取り、同じ速さになるように合わせたソフィアは前方を見て目を細めた。
あの角を曲がれば、もう少しで大通りに出る。そこからギルドまでは、子どもの足でおおよそ十五分。
時間だけで言えば、ミンディがリオを襲いに来るチャンスは多いだろう。けれど、大通りに出れば大衆の目にさらされる。彼女がそれを許容するかどうか。それは先程のリオの言葉が否定していた。
彼女が宿まで来たのは人目のない所で話を終わらせたかったからだろう。彼女が暑がっていたのは、城壁からよほど急いで走ってきたからなのかもしれない。どちらにせよ、タイムリミットという意味では不利なのはミンディだ。
であるからこそ、ミンディが次に行動を起こす場所がどこなのか。ソフィアの予測は大きく外れることはなかった。
視界の端、正確には上空に当たる部分に影が掛かる。それが建物の屋根から飛び降りてきた人影だということに、ソフィアはすぐに気が付いた。
「待って」
人影に気が付かず直進しようとしたリオを引き止めるため、ソフィアは路肩の石につまづいたふりをして、その手を引いた。
「わ、わわ、ベル、大丈夫?」
「大丈夫、それより」
急にソフィアから引き止められたリオが心配した声を上げて振り向くが、ソフィアは首を横に振って目の前を指さした。
「来てるよ」
「……っ、もう動けるの」
ソフィアの指が示した先を追って振り返ったリオの声が引き攣る。目の前には街歩きをするような薄い靴と、魔物の肉をむしり取るほど鋭利な指先を持つガントレットという、ちぐはぐな格好をしたミンディがいた。
こんな早くに追いついて、あまつさえ上から降ってきたということは、屋根を飛んできたのだろう。派手なことをする。
「逃げてんじゃないわよ。どこに行く気」
大通りへと続く道を背にしたミンディが睨む。鋭利な指先が壁を引っ掻いた。
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