109話 少年少女6
【109】少年少女6
自らの命の存続を願う言葉を口にしなければならないのは、どういう気分だろう。
生物として弱くとも生存を許されていた社会。叶えられるかどうかは度外視された権利としての許容。
その暗黙の了解に育てられたソフィアには、恐らく根本的な部分で、それを理解できない。それは恐らく他の五つの人格でも同じだ。死にたいと願ったことはあっても、死んでくれと詰られたことのない命。
きっと、真綿の幸福の中しか知らない。そうあってくれと思われていたはずの、命だった何かでしかない。
「リオ、大丈夫?」
「大丈夫。自分で話せるよ、ベル」
痛々しい。そう思ってしまったのは、なぜだろうか。ソフィアの手がリオの服の裾を掴む。それでもリオは、ただゆっくりと首を横に振った。
「私は……僕は、生きていたい。あの子ともっといろんなものを見てみたいんです」
真っ直ぐな瞳が相対するミンディを捉える。
だから、と言葉が続けられた。
「道は狭いんです。テオさんを一つの目印として指定された以上、僕たちがこの先を生きるためには彼のそばで待つ必要がある。それが僕たちが自由に戦うために、現状を打開する最善策なんだと思う。でもそれをテオさんが嫌だというのなら、やめます。“自分で決める自由”が欲しくてここまできたから、テオさんのことをテオさんが決める権利を阻害することはしません。それではいけませんか」
リオの問いかけに、ミンディは沈黙を返す。
ただ薄らと、その蜂蜜のように滑らかな泡を彷彿とさせた目が細められた。
「足りませんか。足りないならせめて話し合いませんか」
一歩、リオはミンディへと歩み寄った。ソフィアの手がその歩みを引き止めるように、リオの袖をいっそう強く握り込む。
どうしても、ソフィアは警戒を解けなかった。この街にたどり着くまで自らの足で歩き、その手を振るった経験が訴える。肌感覚に近い言語化できない座りの悪さだ。刺激しないようにゆっくりとした動作でソフィアはフードをかぶる。
嫌な予感がしていた。先程までリオに絆されたように心の内を吐き出してしたミンディ、そのこいねがうような声は確かに甘かった。
でも。けれど。
多分、彼女は、そんな柔らかいだけの人間じゃない。
「テオでないといけないのね」
「ごめんなさい。それを決めたのは僕達じゃない、だから」
「ええ。だから、どうにもできない」
もう一歩、ミンディへと近付いたリオの足が止まる。その小さな爪先を睨むように俯いたミンディが、低く、低く、獣の唸り声のように言葉を吐き出した。
足を止めたリオの袖を腕ごと掴み直したソフィアが、背後にある扉を確認する。木製のそれは固く閉じられたままだった。
「どうにもできないことって、本当に話し合いで解決できるのかしら。私は冒険者であって交渉人じゃない。舌先の駆け引きで飯を食ってるわけでなし、自分の苦手分野くらいは理解している」
戦闘を生業としているからか、皮の強ばった跡の残るミンディの指が、先程脱ぎ捨てられたガントレットへとかけられた。窓から差し込む明かりを冷たく反射する金属の表面をなで上げる。
指の上を沿うように角張った意匠だ。護るということだけを考えれば不要なデザインの鋭角。きっとそれをはめた手で相手の手を取れば、柔らかい皮膚を傷付けるのには困らない。
誰の手も握ることを前提としていない装甲。それはきっと、人を殴れば十二分な凶器になる。
守りを固めて防具で殴る、なんて。そうテオが言っていた言葉がかわいらしくデフォルメされたものだったと、ソフィアはここにきてやっと気が付いた。
ミンディが手にしたあれは、掴み、砕き、むしり取る。そのための爪だ。あるいはその両手にあってこそ初めて口を開く牙の類なのかもしれない。
「返答が“いいえ”であった以上、話し合いを続けるつもりはないわ。そちらが都合のよさだけでテオを選んだわけではないことは理解したけれど、それまでにする。それ以上を慮るつもりはない。私たち、他人同士だもの。ならばそのまま、互いの都合で争いましょう」
ぎしり、と音を立ててミンディはそれまで腰掛けていたベッドから立ち上がった。
開戦。
ソフィアはそれを理解する。今度こそ、ソフィアの左手はリオの右手を掴み取った。薄手のカーディガンの袖の下、ごつりとした感触がソフィアの指先に触れる。リオの細い体から思いもよらない感触がしたことに一瞬だけ驚いたソフィアの手が緩められたのと、それが起きたのは同時だった。
「そう、残念だな」
その呟きはリオの口から発せられたのだと思った。ソフィアがそれに確信が持てなかったのは、振り返ったリオがソフィアの頭を抱えこむように隠したからだ。視界のほとんどを遮ったリオの高い体温がソフィアの長い髪を撫でる。瞬間、その背後、ミンディが今しがたいたはずの方向から何かが割れる音がして、途端、閃光が走った。あまりに強いそれは、直視すれば目がつぶれると思うほど眩い。
フラッシュバンだ。
ソフィアはその現象に近しい名前を知っていた。しかし同時に、それはこの世界にあるはずがないと思う類の兵器であった。
マグネシウムを主とした炸薬を使用するそれは、魔術全盛の世界において迂遠すぎる。目を焼くなら光ではなく炎で構わない場所。なにせ、治る。癒術があればすべての負傷が振出しに戻る世界では制圧に非暴力が推奨されない。ゆえに、この世界は何においたって優しくない。ソフィアはそれをよく思い知っていた。
割れた瓶のかけらと革製のバンドが床に落ちている。先ほどまではなかったものだ。それがこの現象の正体の一つであることは間違いなかった。
「う、……っ、この!」
「行くよ、ベル!」
光が収まった直後、リオはそう言ってベルの手をとって走り出した。体当たりでもするかのように乱暴に木製の扉を開けて部屋の外に飛び出す。残されたのは目元を押さえてうずくまるミンディただ一人だけだった。