108話 少年少女5
【108】少年少女5
よそ者。
その言葉にソフィアは微かながら眉をひそめた。来たくて来たんじゃない。別れたくて別れたんじゃない。一つでありたかったかどうかすら曖昧なほど分割されたことすらないくせに。戻せるものなら戻してくれと。誰の世界の尻ぬぐいに呼ばれたと思っているんだと。
きっとここにいたのが自分ではなくアーニーやベルなら、そういうことを言ったのかもしれない。もしくはそれがマリーであったなら、きっと、もっと酷いことをするのかもしれない。ソフィアにはもう彼らのことを自分のように理解することは難しくとも、そう思うくらいの違和感が胸の奥底、核の隣で唸っている。
そういう意味では自分で良かった。これを聞くのが自分で良かった。
だって、どうだっていい。邪魔をしないならどうでもいい。
痛ましいと思う感情が、そこから先へ進まないから、それでもいい。
「ねえ、聖骸。お前の名前を私は知らなくていい。でもね、お前を追って中央の聖騎士が二人、聖骸が二人、そのお付きが数人、この街に入り込んでいる。お前を探してるんだから、そいつらはここにだって来るんでしょうね。あの人の前にだって立つんでしょうね。人間が、人間として、人間同士で起こることなら仕方ないわ。でもね、聖骸が関わっているなら話は別。嫌よ。そんなの鬱陶しくてたまらない」
だって、それは手に負えない。
苦虫を嚙み潰したように顔をしかめたミンディが言葉を続ける。
「そんなもんにかまけてほしくない。冒険者なんて向いてない人間なのよ、あの人は。傷が付いたら付いた分だけ、怖いものを怖いと思ったその分だけ、捨て方も分からないくせに浅いバケツに大事に痛んだ記憶を抱え込んじゃう。そういう痛いの一個だって大っ嫌いで我慢できないくせに。そんな人に痛いだけのもの近づけないで、足を引っ張らないで。もっとやることがあるの。あの人がやりたいって言ったものには、もっと沢山の積み重ねが必要だってあの人が言ってんの。邪魔しないで、邪魔をしないで、お願いだから、どっかへ行って。要らないものを、あの人の前に持ち込まないでよ」
ゆるりと上げられたミンディの手が彼女の髪を掴んで落ちる。彼女の言葉は全ておいてリオが中心ではなかった。なかったが、それでもその行き先はそこに立っている金髪の子どもであった。
ああ、子どもに対して話すわりに、随分と言葉を砕かないものだと思っていたが、そうか。
ソフィアは黙したままリオの手を取ろうと手を伸ばす。しかしその手が細い腕を取る前に、リオはゆったりとした動作で自らの胸に手を当てた。取ろうとした手が逃げていくことで、伸ばされたソフィアの腕が空を切る。
「分かりました。いいえ、分かりませんが、分かりました」
ぴんと背筋が伸びている。胸を張っているからなのだと、リオの後ろ姿しか見えないソフィアにも分かった。
「なに、どっか行ってくれる気になった?」
「いいえ。それはテオさんが帰ってきたら、“僕たちは邪魔ですか?”と自分でテオさんに聞いてから決めます」
「は?」
もうリオは怯えていなかった。先ほどまで少女ベルへと教えを与えていたときと同じ、柔らかで、それでいて芯のある、あの声だ。
「あなたはテオさんにどうなってほしいんですか」
リオはゆったりと、しかしその指先までもぴんと張った静かな仕草でミンディを示し、問いかける。怪訝そうにこわばったミンディの目がその質問の意図を促した。沈黙の催促にリオは一度、深く頷いて言葉を続ける。
「大事よ大事よって言って甘やかして守ってあげて、ペットみたいに愛でていたいんですか。それとも恩を売って言いなりにさせ、家畜みたいに扱いたいんですか」
「どっちでもないわよ」
「では、どう?」
リオの言葉に眉をしかめたミンディは、手元へと視線を下げて何度か瞬きをした。一度口を開き、しかしすぐに閉じる。
話し出せずにいるミンディの言葉を、リオはせかすことなく待ち続けた。沈黙が降りる。先ほどまで散々、悪態を吐いていた人間と同一人物とは思えない。それほどに、今のミンディは迷っていた。
しかしその沈黙にも終わりは訪れる。手元へと下ろしていた視線を上げ、ミンディはたどたどしくも口を開いた。
「……生きてて、ほしいの。もう一年もない、の、よね。それくらいで、もう種が来る。その時が来たら、そこで戦ったら、挑んだら。きっと自分は死んじゃうんだろうなあ、なんて投げやりにならないでほしい。自分のことを自分で決めるって、うん、そう、言うんだから、心行くまでそうしたらいい。でも、そうしたら。そうしたら、今度は、その後のことも考えてほしいの。その後を、どう生きるかを、想ってほしい。そうしたら、きっと、今度こそ、きっと、私のことも見てくれる。だから、生きることに、もっとって思うくらい、幸せでいてほしい。そのために、嫌なこと、近づけたくない。それは私が勝手に思ってることだけど、でも」
「テオさんのことが好きなんですね」
「うん、好きよ。あの人も自分のこと、同じくらいに好きになってくれたらいいのになって思うくらい、好き」
呟きのような声だった。それでもミンディはリオの言葉に確かにそう答えた。ミンディの返答を聞いたリオが、こわばった肩の力が抜き、安堵したように小さく息を吐き出す。
「僕も、ううん、私も、レジーが好き」
それは酷くやわらかな言葉だ。綿のように耳をくすぐり、それでいて圧迫された空気のように見えない形を持ってそこにある。
「あなたの言うような好きじゃないかもしれないけれど、少なくともあの子には、あの子らしい真っすぐさを持ったまま余計な汚れが付かなければいいのにって、そう思うくらい、好き。もし私のせいでその手が汚れるくらいなら、あの時にでも死んじゃえばよかったのかなって、そう思うくらい大好き。でも、そうしたらレジーは、あの子は、きっと悲しむんだろうけど、それでもそう思ってしまうくらい、好き。でもきっと、そんなことを私がまだ考えているって知ったらあの子は怒るんだろう。あの子のそういうところ、私は見ていて苦しいんだ。あなたがさっき言っていた“きっと嫌なこと”って多分、そういうことなのかな」
それとも全く違うものかな。
柔らかな唇からそう言葉を続けたリオは、後ろに束ねた髪を流して首を傾ける。少年とも少女ともつかない端正な顔立ちが、どこか遠くを眺めるようにミンディを見つめ続けている。声変わりのしていない子ども独特の高い声が、ただただゆったりとその続きを口にした。
それでも。ええ、そうだとしても。
「あの子がそういう人だったから、私も生きたいって言えるようになったんだ」
砂金色の瞳が、相対するミンディを真っすぐに見つめる。
人を傷つける固さを持たないようでいて、その実、自らの内面を踏みにじらない強さを持ちたいと、そう願った人間の強い瞳だ。