106話 少年少女3
【106】少年少女3
がちり、がちりと重い四足獣を思わせる足取りで、ミンディのブーツが音を立てる。ゆったりとした動作で窓枠へと腰を掛けたミンディは、背後から吹き入れる風がうっとうしいのか、下に隠したうなじを撫で上げるように蜂蜜色のセミロングの髪を払った。
「協力って、何の事ですか」
ベルを背にかばうように立ち上がったリオが問う。砂金のような眉を吊り上げて、幼い顔立ちが必死にその下の感情を押し殺そうと、相対した女を睨み上げていた。困惑と恐怖、そしてそれを凌駕した不安を飲み込み切れないリオの視線を、ミンディはただ黙ったまま見つめ返す。ミンディの瞳は一度、リオの背に隠されたベルを見たが、しかし特に興味もないのか、すぐにそれはそらされた。
「帰ってほしいのよ」
「そ、れは」
「ああ、違うわ。“家に”とか言ってんじゃないの」
まるで戦場から一足飛びに駆けてきたように戦衣装のままだったミンディが、かぎ爪のように鋭い先端を持つガントレットを外しながら答える。武装を下す彼女に対して、しかしリオはいまだ硬い表情のまま長い袖の下に隠れた自らの腕を握った。
「テオのそばから消えて、ここからいなくなってほしいの。リオ君が何したいとか、何したくないとか、うん、どうだっていいのよね」
そう言って、ミンディは外したばかりのガントレットをベッドの上へと放り投げた。投げ出したそれを追いかけるように窓枠から離れ、我が物顔でベッドの上に腰掛けたミンディが、次は分厚い装甲のブーツを脱ごうとかがむ。
緊張に身を固めていたリオがこんな所で靴まで脱いでどうするつもりかと首を傾げた。しかしその怪訝な視線を向けられたミンディは特に気にした様子もなく、あらわになった白い足で先ほどまで履いていた厳ついブーツを脇へ蹴とばすと、ベッドの下へと手を伸ばす。
右に左にと手を揺らして何かを探すミンディだったが、やがて一足の靴を掴んでベッドの下から腕を引き抜いた。この部屋の家主であるテオが履くには小さなそれは、しかしミンディの足にぴたりとはまったことから、その靴の持ち主が彼女であることは疑うべくもなかった。
「ねえ、ちょっとここ暑くない?」
靴を履き替え、ぱたぱたと手で顔を仰いだミンディが言う。しかしリオも、ましてやその背にかばわれたままのベルも、その言葉に答えることはなかった。
暑いというのは嘘ではなかったらしく、返された沈黙に対して肩をすくめるミンディの頬に汗が伝っている。これまでこの部屋で過ごしていたリオは特段ここの室温が高いわけではないことを知っていた。
屋根裏という立地のわりに窓からの風がよく通り、ここより少し高さのある建物に囲まれたこの部屋は、人が過ごすのに困らない環境を保っている。それでもミンディが事実、暑いのだとするのなら、それはここに来るまでの彼女が何か運動をしたからだろう。
つい先ほど、随分な言葉を吐き捨てたミンディに対し、リオは眉を寄せて精一杯に金色の目玉で相対する女を睨み上げる。
協力しろと語った皮切りの言葉が、最終的にお前のことはどうでもいいのだと着地するのなら、それは利用や脅迫といったろくでもない行動に繋がるとリオは考えていた。リオとてそんなものを提示された以上、ミンディという人間に友好的な態度を取ることはできない。理性で考える頭を覆い隠す様に本能が抱く恐怖を必死に押し込めたリオが、ぎりりと歯を食いしばる。
「場所、変えようよ。何か食べたいならごちそうする。いい店知ってるよ。リオ君、魚は好き?」
「……行かない」
「魚が嫌い? なら肉は? ああ、それとも甘いもののほういい?」
「行かない! 何がしたいんですか! 帰れとか、どうでもいいとか、そんな、急にそんな人と仲良く食事に出掛けるとでも!?」
「んん、分かってないわね。思ってたより中身まで幼いのかしら」
突っぱねるように腕を振って拒絶するリオに、しかしミンディは億劫そうに髪をかき上げた。
せいぜいが十二やそこらに見えるリオに対して、幼いという言葉が釣り合うのか、リオの背中に隠されたソフィアは小さく首を傾げる。
まるでそれでは“見た目以上に”リオの中身が成熟しているとミンディが信じていたようではないか。そりゃあ、リオは知識という面においても、その話しぶりという面においても、同じ年頃の子どもよりは大人びているだろう。
だからこそソフィアは思わずにはいられない。内外の年齢差に幼いという言葉を当てるには、リオはあまりに大人びている。本来であれば幼いというには遠いリオの振る舞いに、しかしミンディはまるでマイナスの評価のようにその言葉をあてがったのはなぜか。
微かな違和感と既視感がある。
それがソフィアの中で明確な形を成す前に、ミンディの言葉がその思考を遮った。
「場所を変えてくれれば代わりにそこのお友達、巻き込まないであげるってことが言いたいのよ。後ろの子に怖い思いさせたくないでしょう。“だから”、ちょっとどこか別の所でお話をしましょうよ」
苛立たし気に床板をかかとで鳴らすミンディが言う。時折、その紅茶色の瞳が落ち着きなく扉を窺っていた。
焦っている。リオの肩越しにミンディの小さな焦燥感に気が付いたソフィアが目を細める。まるでタイムリミットがあるかのようだ。ミンディが気にしているその扉を開いて外から帰ってくるであろう相手だろうか。しかし先日のテオの言葉を借りるなら、テオとミンディでは規格が違うらしい。それをテオが見上げる立場で言うのだから、彼の登場がミンディにとって物理的な障害になるとはソフィアには到底思えなかった。
はて。
では、なぜ。
暴力が一定の手段として認められているこの世界で、力のあるらしい彼女がいったい何に怯えているのか。見てくれのとおり幼い感性でその不安を測らんとするソフィアは、その感情の機微に首を傾げた。
「ベルには、手を出さないで。彼女は僕のこととは関係ない」
ソフィアがまるで蚊帳の外から事を眺めていたその時、リオが震える声で言う。
当のリオはミンディの抱く焦燥に気が付く様子はない。リオ自身もそれ以上に焦りを感じている。言い換えるならそれは恐怖に近いのだろう。じりじりと床板の上を擦って後退するリオの足が、背にかばった“少女ベル”の爪先に触れた。
仮名とは言え自らを指す一つの固有名詞であるベルの名を耳にしたソフィアが、思い出したようにリオの袖口を握る。はた目には縋りついたように見えるその仕草のまま、ソフィアはリオの耳元に口を寄せた。ミンディのように斥候の職を名乗れる人間の力を推しはかれるほどの経験はない。それでもソフィアはせめて、体裁的には隠しましたというポーズを取ることを選んだ。
隠そうとしたものまでを暴こうとした人間にあてがう慈悲は、ここにはいらないらしいので。
「大丈夫だよ、リオ。私がいる」
「ベル……でも、でも君は」
「私、あなたが笑うほうがいい。“子ども”を守るのだってきっと良いことだわ。私はそれを指針にする。善行の基準を、今はあなたに預けている。そう“指示”があったんだから、今の私はあなたのための私だわ」
「し、指示? それって、テオさんが?」
小声で話すベルにつられて同じくこそこそとリオが問いかける。その質問に、いいえを返そうとしたソフィアが口を開いたその瞬間、がつり、と嫌に大きな音が部屋に響いた。
数ある名詞の中で斥候という職を冠するミンディだ。こそこそと話していた子どもの言葉すら聞こえていたのだろう。乱暴に床板を踏みつけたミンディが、苛立ちを隠さない顔でリオを睨みつけていた。
「……ひっ、う」
「あのさあ」
蛇に睨まれた蛙とはこのことだ。怯えたように息をつめ、肩を震わせたリオの小さな悲鳴をかき消すように苛立たし気なミンディの声が覆いかぶさる。いまだにベッドの上に腰掛けたままのミンディは、膝の上に肘をつき、とんとんと自らのこめかみを指先で叩いた。