104話 少年少女1
【104】少年少女1
テオとレジーがオルトロスの首を断ち切ったのと時を同じくして、普段からテオが寝泊まりする宿の屋根裏部屋で、二人の子どもが熱心に一冊の本を覗き込みながら話をしていた。
開け放たれた窓から入り込む微風が、宿の裏でアイリーンが育てる花の甘い香りを微かに運ぶ。現在二人が覗き込んでいるのは、初めに診療所でアーニーが読みかけにしていた簡易的な歴史書だ。分厚いそれは子どもの腕で抱えながら二人で覗き込むには重く、仕方なしに床の上に広げられていた。
窓から吹き込む風に、低く纏めた髪を撫でられながら床に座り込んでいたリオは、ソフィアが演じる少女ベルと並び、共に覗き込んでいた本の一節を指さした。
「ベル、魔法っていうのはね、こういうものを言うんだよ」
リオの手により一つに結えられたベルの髪が、ページの半ばを指さすリオの小さな手を擽る。リオが指さしたのは、過去、この世界において活躍した聖骸の権能に関する記述だ。赤く、人の形をかたどった炎が、一人の女と手を取り合って踊っている挿絵が目立つ。
ジルの診療所から借りてきたいくつかの本は、テオとレジーが城壁で仕事をしている間に留守番をする二人にとって、丁度いい暇つぶしになっていた。ひとつひとつの聖骸の歴史を、まるでおとぎ話を語るように、しかし時としてそれを変えられない現実に倣う学問のように語るリオに、アーニーは小さくない興味を示していた。しかしながら、テオという防御機構がいない状態で、アーニーがベルとして外に出ることは少なく、それまでと主な同様に基本的な対応はソフィアに頼るのが現状だった。
「これが魔法?」
「うん、これが魔法。もっと言うならね、人間が使うのは魔法じゃない」
「どうして? リオだって、火、出せるでしょう?」
そう言って、ベルが首を傾げると、リオは一つ頷いてその指先に蠟燭ほどの火を灯して見せた。リオがこうしてベルの前で魔術を披露するのは初めてではなく、また、同様にその知識を振舞うことも少なくない。テオとレジーの二人が帰るのを待つ部屋は、いつでもこうして教室とも塾の一室ともつかない様相を見せていた。
「これはね、魔術って言うんだ。ベルはそういうのも全部、魔法って呼ぶでしょう? 前にさ、ご飯を食べてる時に“レジーは魔法が使えるの?”って聞いてたよね」
「うん、言った。でも、じゃあ、それって何か違うの?」
「うん、違うの」
きょとりとした顔で尋ねるベルに、リオはくすりと笑って答えた。目を細めるリオはどこか力なく、しかし同時に芯のある声で語る。この五日間と少し、ベルとしてリオに接し続けてきたソフィアは、彼のこの声が好きだった。人を傷つける固さを持たないようでいて、その実、自らの内面を踏みにじらない強さをもっているように見えるのだ。
何も決められない自分が、誰かの判断を頼る自分が、何よりもそういう自分自身を情けなく思ってしまう自らが。どうしてそれをうらやむのか。ソフィアには分からないが、それでもこの声の波を聞くことで心が落ち着く気がしたのだ。
「ねえ、ベル、魔法ってなんだと思う?」
「ええと、火が出て、水が湧いて、風が吹いて、物が凍って、あと、うーんとね」
「うん」
「人が空を飛んだりする」
「それがベルの思う魔法なんだね」
「うん、そういう凄いことが起きること。魔法ってそういうものだと思ってた」
ベルの言葉をせかすでもなく待つリオが頷くたびに、窓から差し込む光がその金の髪に反射する。しらしらと流れる束ねたそれを、手癖のように指先に巻き付けたリオは、そうだね、と前置いて口を開いた。年相応のようでいて、どこか品を感じさせるその姿に、ベルは微かに目を細めた。
「魔法と魔術ってね、凄く似てるけど、同じじゃないんだ」
「そうなの?」
開かれた窓の向こうから、鳥のさえずりと馬車の車輪が轍を跳ねて土を叩く音がする。時折、近所の店の客引きの声が機嫌良く高くなることから、近くの通りには誘いに答える人間がいると思える程度には人通りが多い事を予想させた。
そんな穏やかな帳の外側の気配を傍らに、リオが柔らかな笑みを浮かべる。目の前の相手を従順な教え子とするか、温厚な友とするか、そのどちらともつかない態度はそれでも好意的な色をもってそこにあった。
「この世界の法則を作ったのは神様で、それを使って何かをするのも神様の特権なんだよ。だけど、それだけじゃあ不便だからって、神様は人間に使っていい範囲を限定した術を与えてくれた。法則に乗っ取った術、そこから生まれた技、つまりは技術」
「うん」
「魔法って言うのは、神様が作ったように法則を定めること。人間が使うものじゃないんだよ。逆に魔術って言うのはね、人間が使える技術の範囲に収まること」
板張りの床の上に指先で円を描いて説明するリオの言葉にベルは耳を傾ける。子どもであろうとも聡明であるリオが、その説明がどれだけその年頃の子どもに不釣り合いなのかを気が付かないはずもない。
けれども、必要以上に言葉を噛み砕かない事を選んだかのように、リオは淡々と説明を続けた。
「でもね、少し違うこともあるよ。人間が使うのは魔術。でも、人間みたいに手足を持って、土の上に立って、目で物を見て、口で意思を語っても、それでも魔法を使える人もいる」
「どんな人?」
「聖骸だよ。知ってるでしょう?」
ベルの問いかけに対し、同じく問いかけで返したリオが言う。
聖骸と言うものを知っているかどうか以前に、少女ベル自体が聖骸である。その質問は、事情を知るものからすれば、どこか噛み合わないものにも見えるだろう。しかし、この場においては少女ベルとして振る舞うようアーニーより指示を受けたソフィアは、リオの問い掛け対してにこやかに頷いた。
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