101話 外野5
【101】外野5
果たして、振り上げたこぶしは空を切ることすらなかった。怒りに任せて握られたレジーの拳が振り下ろされるその直前、対立する二人の頭上に水の塊が降り注いだからだ。雨というには塊に近く、バケツをひっくり返したというには量の多すぎるそれは、立ち尽くしていた二人の視界をぐちゃぐちゃにかき乱すには十分な効果を発揮した。
頭を押さえつけるように耳を覆うそれが水の塊だとレジーが気が付いたころには、腕を掴まれて走り出していた。男と話をしていた後方からは絶えず水が土を叩く音が聞こえるので、まだ局所的な“豪雨”は続いているらしい。
連れ去るように腕を引かれて走るレジーの目が、水気を払い、視界を取り戻したころには、すでに建物を経由したのか、元いた場所は見えなくなっていた。
「おれが格好つけた意味、少しは考えてほしいんだけど」
その言葉と共に、レジーの腕を引いていた人間が停止する。よく見てみれば、それはレジーが先ほどまでロープを探しながら話をしていた魔術師の男だった。胡乱な瞳が、ぼけらと状況を理解し始めたレジーを見つめている。
どうやら魔術師の男は、物置小屋から送り出した直後のレジーが指揮官の男を殴り飛ばそうとしている現場を見て、止めに入ったらしい。あまりにタイミングが良かったことを考えれば、立ち去るレジーの様子を見ていたのかもしれない。そう考えれば、レジーとテオの諍いに開始の合図をしてからオルトロス討伐作戦が終わるまでもそうだ。あの時一人でいたレジーを偶然を装って待ち構えていたのだろう。結果として大きな独り言の声に反応した魔術師の男をレジーが捕まえたが、レジーが声をかけなければ自分から捕まえるつもりだったのかもしれない。そういう意味でも、この魔術師の男は恣意的にレジーへ恩を売るタイミングを見計らっていたのだろうことが窺えた。
「頭は冷えた?」
「……ええ、物理的にも」
「文句言うのはやめてくれよ。言ってはなんだけどね、おれはこれでもきみの恩人を名乗っていいと思うんだわ」
「…………………………………………ありがとうございました」
雄弁な沈黙はレジーの不服を酷く露骨に表したが、それでも最後に吐き出されたのは感謝の言葉だった。水に濡れて伸びた前髪をかき上げたレジーは、腕を組んで疲れた顔を張り付けた魔術師を見つめた。それに気が付いた魔術師の男が、促す様に肩をすくめる。その仕草を見たレジーは、水を吸って重くなったコートの襟を正しながらも口を開く。
「あなた、お名前、イーヴァとかっていったりします?」
「はあ? あんなんと一緒にしないでよ。おれ、あそこまでひねてないって」
「そう、ですか。ところであなた、お名前は」
「……はあ、もう、また今度ね」
レジーの質問に、今度ばかりは魔術師の男も大きなため息を吐いた。食い下がろうとするレジーの肩を叩き、壁の向こうを指さす。その先にいるものを思い出したレジーは、はたと息をのんだ。
「次は助けないよ。おれだって、自分で助かろうとしない人間まで欲しがるほど飢えてないからね。今のうちに、きみの避雷針のところにでも戻った方がいいよ」
「すいません、本当にありがとうございました」
「きみが買った恩の値段はきみがつけるものだけど、安くないってことだけは言っておく。じゃあね」
そう言って、魔術師の男は今度こそ立ち去って行った。その背中を短く見送ったレジーは、自分と同じく水を浴びて重くなったロープを担ぎ直して走り出す。随分と時間がかかってしまったけれど、たとえそれが怒りから生まれたものであったとしても、必要な勇気を培えた。きっと、今ならば話ができる。そうしなければならないのだろう。この縁を曖昧なままで利用する不確かな感謝と見限りへの恐怖は、もう見ないふりをしてはならないのだとレジーは思った。
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レジーがオルトロスの死体が寝転がる穴の縁にたどり着くと、そこには穴の底を覗き込むモニカとジルがいた。二人は穴の縁ぎりぎりにしゃがみ込み、白衣の裾が地面の埃を撫でるのも気にせずに、穴の中に向けて何やら声をかけている。
「もう少しだよ、がんばれがんばれ」
「そこから落ちてみろ。先ほどの狼のように、お前ののたうち回る声が辺り一面に響くことになる。お前はそれが、さぞ愉快なショーになると期待しているのかもしれないが、それを聞かされているこちらは、ただただ不快なだけだ。これ以上恥をかきたくないのなら、せめてひいひいと泣いていれば次は私が下に降りてもいい」
「失敗しても大丈夫さ。ここには優秀な癒術師も、世界一の頭脳を持つ錬金術師もいる。腕が砕けても、足がひしゃげても、半身不随になっても、まあどうにかはなる。トライアンドエラーさ。失敗してもその挑戦に意味がないわけではない。がんばれ、がんばるんだ」
「まさか、そこまで来て諦める気ではあるまいな。その程度の努力しか支払えないならばなぜ挑んだ。失敗に痛みが付きまとうことが分かっているなら少しは後先を考えたらいい。行けると思ったのだろう。ならばここで止まるな。さっさとここまで上がるか、それが出来ないのならもっと手前で落ちていろ。お前の引き際の悪さは悪癖だぞ。身を滅ぼす前に自覚することだ、優柔不断め。考えるなら止まれる場所で済ませておけ」
「登れ、登れ。いいぞ、ここから落ちることに意味はなくともここまでは登れたことには意味がある。もう少し行けば成功だ。今までの失敗もすべてはその前に報われるさ。がんばるんだ、諦めてはいけない。さあ、さあ」
二人の声を耳にしてさらに足を速めて穴へと近づいたレジーは、思わず同じように穴の底を覗き込んだ。そこには、びたりと穴の内側に張り付き、大分高いところまで登っていたテオの姿があった。それはレジーが最後に見たときよりも、返り血と土で大分汚れていて、さらにその下の地面に丁度テオくらいの背丈の人間がのたうち回ってできたような、オルトロスの血液製の判が押されていたので、恐らく何度か落下したであろうことも伺えた。
「も、もう、もうなんでもいいから……、だま、黙ってて……。そうでないなら難しいこと言わないでくれ……、た、頼むから……」
壁に張り付き、小ぶりのナイフをピッケル代わりに壁を登攀するテオは、自分の姿を覗き込むレジーに気が付いていないのか、酷く情けない声でモニカとジルに抗議する。その姿を穴の底から見上げるエイダンは、到着したレジーの呆れ顔に気が付いて、苦く笑った。
ぐぎぎ、と唸り声をあげながらも、テオの手が穴の縁にかかる。落下を防ぐために、ジルの手がテオの大きな上着の首根っこを掴んだことで、おかしく首を絞められたテオは、ただでさえ荒い息をさらに苦しそうに乱した。
「先生……それ、ぐるし……」
「黙れ。上がれ」
「……はい」
ジルとの短いやり取りを経て、ついに穴を登り切ったテオは、しかし同時にロープを肩にかけて自分を見つめるレジーの存在に気が付いた。荒い息を整えるように胸をさすり、疲れた体を地べたに擦りつけたテオは、酷く力なく口角を上げた。
多分、笑おうとして失敗したんだな、とレジーは歪な表情を張り付けて萎びたテオを見て思った。愛想笑いが板についていない先輩だ。だが、それでも笑うということに安心が伴うことは知っているらしい。先程の能面のような笑みとは違う、計算のないその作り笑いに、こわばった肩の力が抜けるのを感じた。
「レジー……ロープ、ありがとう……でもあともう少し、早く来てくれたら……。なんだ、どうしてそんな濡れてる」
「色々あって。というか、まさか自力で上がってきたんですか」
「……あ、ああ、そう。死ぬかと思った。悪いんだけど、エイダン、下にいるから、上げて、怪我してる。俺、もう限界、むり」
「あなたのそういう最後まで格好つけられないところ、嫌いじゃないですよ」
「もう格好良くなくていいから休ませてくれ……、疲れたんだってば……俺にミンディみたいな役回りは無理だって……あの子はあの子の凄さでいいの……」
「はい、はい。分かりましたから、休んでてください」
頬に付いた土汚れをごしごしと擦っては広げながら愚痴をこぼすテオは、しかし肩にかけたロープを広げるレジーの顔色を見て、少しばかり考え込むように俯いた。
「……あのさ」
「なんです」
短く答えたレジーの手に握られたロープは、水を吸って冷たくなっていた。同じように水を吸った鉛色の髪と丈の長いコートが、夜風にさらされている。顔を上げて、そんなレジーの様子を再確認したテオは、するすると穴の底に垂らされたロープをレジーの手から取り上げた。
ひんやりと色を暗くした縄を奪われたレジーが、きょとんとした顔でテオを見上げる。いやに幼く見えたその表情に、テオは小さく首を横に振った。
「やっぱり、エイダンは俺が引き上げるよ」
「え、でも疲れたんでしょう」
「なんていうか、ずぶ濡れじゃ寒いだろ。乾かしてきなよ、風邪ひく」
「テオさんったら、もう。今更、格好つけても遅いですよ」
靴の裏の泥を落とす様に爪先で地面をつついたテオが、身体強化を自らの体に施す。テオの手に握られたままの縄を取り戻すわけでもなく、からかうように肩をすくめたレジーは、しかし寒さとは違う意味で細かく震える自らの手には気が付いていなかった。
「別に、そうじゃないけど」
視界の端にそれをとらえたテオは、もごもごと言い淀みながらも口を開く。疲労というのは身体的なものだけではない。たとえ自分が疲れていると愚痴を吐いても、それが他人に強がりを強いる理由にはならないような気がした。
「なんか、疲れてるように見えたから」
「……はは、もう。あなた程じゃないですよ。大丈夫、大丈夫ですから。一緒にさっさとエイダンさんを引き上げちゃいましょう。お腹、多分、そろそろ空いてきています」
「そうだね。リオとベルも、待ってる」
そう言って、テオは微かに俯いて笑った。きっと今度は作り笑いじゃないのだろう。テオと同じ縄を手に取ったレジーは、どうしてか、そんなことを考えた。