「ごめんね」と「お疲れさま」甘いものでもどうぞ
「……」
スマホのアラームで目が覚めたのは、久しぶりな気がする。
私と彼の働く会社は近所にあって、最寄の駅が同じ。だから、毎日、同じ時間に家を出て、いつも決まった電車に乗る。起きるのだって一緒だ。
アラームをセットするのは私。止めるのは彼。私の一日は、アラームを止めた彼の声で始まる。
いつもなら。
『スマホばっか見ないで、私の話も聞いてよ』
『愚痴ばっかり聞きたくないんだけど?』
昨日の夜のケンカを思い出す。
今、思い出してもイライラする。でも、彼の気持ちも分かるから、同じだけやってしまった感があった。
隣に眠っていた筈の彼の姿はもうない。いや、そもそも、私の隣に眠っていなかったのかもしれない。
私と彼のケンカはいつも最終的に、私一人カッとなって色々言って、彼は黙りになってしまう。
『ねぇ、何か言ってよ』
『……今のお前に何言ったって火に油を注ぐだけ。意味もないのに、会話なんてしたくない』
『分かった。もういい』
と、彼と相対するのをやめ、寝室に引っ込んで、私はそのままふて寝した。
最後に聞いた彼の疲れたような溜息に、イライラが増したけれど、仕事でクタクタだった風呂上がりの体は、あっという間に、睡魔に襲われ眠ってしまった。
彼が寝室に来たかどうかは分からない。ふて寝した私と一緒に寝たくないから、ソファで寝ました。なんて、有り得そうだ。
そして、私の顔を見ずに会社へ。
「……」
いつまでも、ベッドの上にいるワケにはいかない。今日は平日。誰かとケンカ中でモヤモヤしてるなんてことには関係なく、当然仕事はあるし、働かないと生きていけない。
何となく怠くて重い体で、ベッドから抜け出し、家を出る準備を始めた。
朝の情報番組を見るともなしに流し見しながら、私はヨーグルトをかけたグラノーラを咀嚼する。噛んで飲み込むのを機械的に繰り返した。
天気予報が終わって、星座占いが始まるまでには食べ終え、空になったボウルをシンクへと持って行く。
泡立てたスポンジでボウルとスプーンを洗いながら、洗った食器を置いている乾燥棚を見れば、昨日の夜にはなかったコップがあった。
きっと彼が、野菜ジュースかオレンジジュースを飲んだんだろう。
彼はいつも朝はあまり食べない。コップ一杯のジュースを朝ごはんにしている。
もっと食べた方が良いよ、と口出ししていた時もあったけれど、言っても聞かないので、自然と何も言わなくなっていた。
『いってきます』
ここに居る筈のない彼の声が聞こえた気がした。それに倣っていつもと同じように、私も口にする。
「……いってきます」
私と彼は玄関から出る前に、誰にともなくそう口にしていた。
マンションを出て、最寄の駅へと向かう。
いつもなら、二人で歩いている道。彼も私も今日は一人で歩いている。
「今日、落ち着かないね。ずっと、そわそわしてる。何か良いことでもあった?」
なんて、全く見当違いなことを同僚に言われた。
確かに、私はずっと時間を気にしているし、早く仕事が終われば良いのにとも思っている。
でも、それは楽しいことが待っているというワクワク感ではなく、何とか今の状況から脱却したいというか不安感からだった。
「その逆」
端的に答えて、私は自分の仕事に集中する。
もうすぐ定時。今日は絶対残業しない。
私と彼のケンカの原因は、多分ストレスだ。仕事に追われ、最近、思うようにリフレッシュ出来ずにいた。私は彼に愚痴ることでそれを解消しようとし、彼は趣味のスマホのアプリゲームで解消しようとしていた。
互いに相手を気遣う余裕もなく、結果、ストレスとストレスがぶつかり合い、ケンカに発展してしまったのだった。
疲れてしんどいのはお互いさまで、彼は自分の自由な時間が欲しいだけだと分かっている。私だってそう。でも、誰かと共有してほしいと思ったりもする。
矛盾しているかもしれない。けれど、つまり、結局のところ、一人は寂しいということ。
だから……。
「お疲れさまです。お先に失礼します」
と挨拶しながら、定時ちょっと過ぎに、私は会社を後にした。
私と彼が出会ったのは、早々に結婚して、専業主婦になった友人からの紹介。
電話のたびに、母親から誰か相手はいないのかと、結婚の予定について聞かれるようになり、嫌気がさしていた私は、友人の「あなたにオススメの人がいるんだけど」の一言に食いついてみることにした。
何でも、彼の旦那さんの同僚で、彼もまた親から結婚について色々言われているらしい。空気感が似ているという理由で勧められたのが彼だった。
だから、婚約という大層なものはしていないけれど、私と彼は一応、結婚を前提にお付き合いというヤツをしている。
私も彼も、元々、一人でいるのが好きだ。大勢でワイワイするより、自分の世界で何か楽しむ方が良いと思っている。そんな私と彼が出会って、隣にいることが当たり前になっていた。
奇跡って言うのは大袈裟だし、運命なんて言うのも恥ずかしいけれど、きっとそんな感じ。私はふとした瞬間に、こっそりとそんなことを思っている。
自宅マンションの最寄の駅のロータリーを足早に歩いた。仕事が終わった開放感なんてものはなく、目的地へと淡々と足を動かす。
帰る前に、近くのコンビニに寄ろう。
私も彼も甘いものが好きだ。時々、無性に食べたくなる。そんな時はコンビニに寄り道して、いつもスイーツを買って帰る。
疲れている時に甘いものが染みる。今日もそうしようと、仕事をしながら考えていた。
適当にいくつか商品をカゴに入れ、私はレジに向かった。お金を払い、コンビニを出る。
何気なく夜空を見上げ、彼はもう帰っているだろうかと、ふと思った。
朝、避けられてしまったみたいに、私と顔を合わせなくていいように、夜遅くに帰ってくるなんてことはないだろうか。一瞬、過ぎったそんな不安は、自宅マンションが見えてきてなくなった。
私と彼の住む二階の角部屋に、灯りがついているのが分かった。
「ただいま……」
恐る恐る、彼がいるであろうリビングへと足を進める。出した声は微かに震えているような気がした。
「……おかえり」
返ってこないかもしれないと思ったけれど、声が返ってきたことにホッとして、彼の姿を見て拍子抜けする。
ケンカなんてなかったみたいに、いつもどおりの姿だった。先に帰っていた彼は、ソファをに座ってスマホを弄っていた。
またスマホ? なんて嫌味が一瞬、口を衝きそうになって飲み込む。それに目敏く気付いた彼がスマホから視線を外し、ちらりと私を見た。目が合ってドキリとする。
煩わしそうな溜め息を吐かれるんじゃないかと、思わず体が強張った。私がムッとしたように、彼もうんざりしちゃったんじゃないかと思ったのだ。でも。
「これは、別に。亜希が帰って来るのを待ってただけだから」
彼はスマホを見るのを止めて、スマホを自分の隣に裏返して置いた。
気まずそうに視線を逸らしながら言った彼の言葉が、言い訳しているみたいに聞こえて、ちょっと可笑しくて、あはっと笑ってしまう。私は強張った体が弛緩するのを感じた。
「そっか」
彼も私とケンカしたことを気にしてくれていたことが、純粋に嬉しかった。だから、やっぱり仲直りしたいと思う。
「これ……」
「これ……」
私と彼の声が重なる。
声だけじゃなく、カサっと鳴った音、手の動きも揃っていた。互いに相手に向かって差し出していた。それは、コンビニの袋。中身は訊かなくても分かった。
「結局、同じことを考えてたみたいだな」
と、彼が苦笑する。久しぶりに、彼の柔らかい表情を見た気がした。私もつられて口角を上げる。
「……みたいだね」
疲れた時には甘いもの。
今の私達に足りないのは、糖分と相手に対する思いやり。
「祐太、昨日はごめん。今日もお疲れさま」
私が笑って、そう言えば、彼も笑ってくれた。
「俺の方こそ、ごめん」
ぶんぶんと、首を横に振る。
またこうして笑い合えることにホッとして、嬉しくて、何だか泣きたくなった。目頭が熱くなって、溢れてくるものを抑えようと、目を瞑ってぎゅっと瞼に力を入れる。
衣擦れの音が微かにして、彼が動いたことが分かったから、目を開けようとして、気付けば私は温もりに包まれていた。
彼が私を抱き締めてくれたのだ。
ごめん、やっぱり、情緒不安定過ぎるよね。そう言って、笑おうとしたけれど。
「お疲れさま」
と、彼が耳元に囁くから、堪えようとしていた涙がまた溢れ出してしまう。
私は彼の胸に顔を埋めて、ちょっと泣いてしまった。
口にしたことがないから、彼はきっと知らない。
私が彼から「お疲れさま」って言われるのが好きだってこと。
ごめんなさいと、お疲れさまを込めて、お互いに買ってきたコンビニのスイーツ。ストレス発散の意味も込めてしまったのか、やや自棄買い気味。夕食後のデザートにするにはちょっと多かったので、健康的とは言えないけれど、今日はスイーツを夕食にすることにした。
でも、甘いものの食べ過ぎは危険。疲れた体を癒すどころか、逆効果になってしまう。食べ過ぎには注意しないといけない。
けれど……。
「私が声を掛けたりした時に、無視とかしないんだったら、ゲームしてもいいよ」
「愚痴だけど。毎日とかじゃなくて、時々だったら別に聞いてもいいよ」
求めていた糖分を吸収して、満たされた私と彼は、笑いながらそんなことを言い合うのだった。