罪の現場
夕方神社で、青造さんは私を神官用の派手な座布団に座らせた。
「今日は君が本殿、神さま側だ。敷居からは出てこないで。僕が下座」
彼は境界線の向こう2メートルほど離れて、袴姿で板の上に胡坐をかいた。
「綺麗だ」3秒ほど私を眺めて照れたように話す。
「あの日これだけの距離を保てていたら君をこんなに困らせないですんだのに……」
私の返答を待たずに堰を切ったように続けた。
「心配なんだ、あれから君はずっと難しい顔をしている。酷い落とし穴にはまったと思っているだろう、酷い男に引っ掛かったと感じているかもしれない。好きになってすまない。ああ、これだけは言うまいと思っていたのに。僕なんかが手を出していい君じゃない。こうやって距離を置いていられたらどんなによかったことだろう……」
「現場に来てもらうようなことをして申し訳ないが、ここでないと突っ込んだ話はできないから……」
「罪の現場ですか?」
やっと口にした私の言葉は相手を責めるように響いたかもしれない。
青造さんはじっと見てから微笑むと
「ここが何の現場なのかは、奈緒子が決めてくれ」と言った。
「手術を受けるとすれば一日でも早いほうがいい、身体の負担が少ないと聞いている」
「お医者様に言われた決断期限まであと8日です」
青造さんは黙って何度か頷いた。
「僕はあの日ここで君に謝らないと言った。好きになったことは絶対否定しない。小学校でショパンを聴いて僕は足元からひっくり返された。京都に行った数日、僕の恋患いはそれはもう酷くて、会いたいと思えば思うほどもう止めなきゃならないと実感した。合わせるのは音楽だけに留めないと。東京に戻ったら君がキーボードを演奏してくれる。それを最後の思い出に距離を置こうと決めた。だが、あの歌は反則だ。低めの君の歌声はビブラートがかかって魔力でも込められていたかのようで……」
「いや、言い訳にしたいわけじゃない。自分には許されない愛情表現をしてしまった、これについてはまず、きちんと謝らせてほしい」
青造さんは胡坐から正座、そして土下座に変わった。
「柱に両手足縛ってでも、君に触れてはならなかった。妻と別れ君とお腹の子供を養う甲斐性も経済力もない自分だ、どれほど魅せられようと僕に許されることは、憧れ見守り、応援することだけだった。すまない……」
「後悔していますか……?」
私の言葉は青造さんの頭から肩、背中と撫でていく。
「後悔すべきだとは思うんだが……」ゆっくりと顔を上げた人は微笑んでいる。
「奈緒子の人生を狂わせたこと、静香を苦しめていることについては申し訳ないと心底思っていても、君が僕の子供を身ごもっているという事実は喜びでしかない。君が僕の腕の中にいたあの日を何度思い出しても、幸福感しかない」
顔色がすっと曇った。
「あれが強姦だったのかどうか、君が決めてくれ……」
「ごうかん?」
思いがけない言葉が聞こえた。
「君はただ、あるオペラの歌を口ずさんだだけ、好きだとも言ってくれていない。あるのは僕が襲ったという事実だけだ」
「その罪はないです。そんなところから検証しなくてはなりませんか?」
私は真っ赤になった。確かに言葉で告白、はしていない。
「あの後君はぱったりと姿を見せなくなった。後悔しているかと訊きたいのは僕の方だ」
はっと口に手を置いていた。私は動転して自分のことに必死で、好きなひとの心を置き去りにしていたかもしれない。
一回り以上年上の私の想いびとの、少し拗ねた物言いがまた可愛らしいと思ってしまう。
「あの瞬間僕は、君を繋ぎ止めたかった。どんな形でも。君もそう思ってくれていたと信じたい……」
「私は……、貴方に私を見て欲しい一心でした……。奥様も世間も、自分の人生のことも考えられなかった。神主さまが私を認めてくれるなら何でもできる気がした……」
「やっぱり僕が取り違えたのか、君が求めたのは音楽の神主からのサポートだったのか?」
「違います! ごめんなさい、ちゃんと言います。私は長慶青造さんが欲しかった、私のにしたかったんです。全部奪ってしまいたかった。音楽も視線もその心全て。でも静香さんと話して、青造さんが神主さまでなくなるのは嫌だと思ったのも本当です」
「ありがとう」
青造さんは恥ずかしそうに俯いてから言った。
「じゃ、君のお腹の子供はふたりの気持ちが通じ合った結果だと言っていいか?」
「はい」
ふたりふうっと同時にため息を吐いた。
青造さんは裏でお茶を淹れると、下手からお供えするように私の目の前にお湯呑を置き、後ずさりしてから私の身体を気遣った。
「寒くないか? 気分悪くなったら言って。それにしても、恋愛とは全くもって我儘で破壊的なものだね」
「ええ、ほんとに」
「見事に足を掬われた。あの日から君に誠意を尽くすとはどうすることなのか、考えていた。妊娠の可能性も考慮に入れた上で、これでもずうっと悩んでいたんだ。困ったことに僕の心は、静香への想いと君への気持ちが共存する。僕が道徳的におかしいと非難されるのは全然構わない。酷い男なんだろう。でも問題はそこじゃない。今の状況に陥ったらどうしたらいいかなんだ。もう既に落ち込んでしまったこの状態に、何とか答えを見つけるにはどうしたらいいのか。ことの善悪を知りたいわけじゃない、全面的に僕が悪いとわかっている。二人の女がどちらも大切で両方に子供がいたら、どちらの責任を取るべきなんだろうか? 離婚して君と結婚することが責任を取ることになるのか?」
「やはり、手術を受けたほうが……」
「まだ結論には早い……」
青造さんは私の言葉を遮った。
「君と結婚したら、娘と息子には一生会えなくなる。一族から抹消されて仕事も住むところもなくゼロからの出発だ。生まれてこの方神社のことしかしていない僕に何ができるのか、一般社会に通用するのか、かなり疑問ではある。それでも君は夫として僕が欲しいか?」
「わかりません……」
「左右両方大事でどちらかを選べない、それならば全体を俯瞰してみようと思った。僕が神社を続け安定した生活をして君を助けるほうが、見通しが立つ気がした。それで静香に全て話した。新しい生活に踏み出せない臆病者、卑怯者だと言われたら返す言葉もない。都合のいいことばかり、と罵られてもしかたない。でも奈緒子のためなら僕はさくらさんにでも静香にでも頭を下げて廻る。お父さんに殴られても構わない。君がその子を産んでくれるのなら、何としてでも支えてみせる」