つわりと男親
その後すぐだった、かなり激しいつわりに襲われた。ご飯の炊ける匂いに耐えられず、朝食の用意が遅れる。10年間毎日やってきたことが突然できていなくて、父は当惑して怒った。それでも配膳しようと炊飯器を開けたら吐き気をもよおし、トイレに駆け込んでしまった。
父は出勤間近の時計を見て怒りながら、私が妊娠していると気付いた。
「相手は誰だ!」
と怒鳴られて、今自分の口から言っていいものかどうかわからなかった。
「なぜ今まで相談しなかった? もう出なきゃならない。そんな大事なことも言えないのか?!」
黙りこくった私に業を煮やし父が浴びせた言葉は、「出ていけ!」だった。
その言葉を待っていたかのようにうちを飛び出した。ハンドバッグひとつ掴んで。行く先は静香さんの元しかない。
青造さんの元なのに、私は奥様の愛嬌のある笑顔を思い出していた。
青白い顔をしていたのだろう、静香さんは私を六畳間に横にならせた。
10時過ぎに目覚めると、枕元に着替えや洗面用具があった。まだお邪魔するのは2回目の平屋建ての広い和建築のお宅の中、お手洗いや洗面所を探しあて身づくろいをした。
静香さんはお台所にいた。
「青さんは毎日、朝7時半から5時半まで神社かどこかに出かけてるから」
お料理から目を離さずに話す。
「うちに電話はあるのかい? ないならお昼に会社にかけたほうがいい? 一応、お嬢さんお預かりしてますって言っとくべきかと思うんだけど」
「あ、夜、自分でかけます」
朝食を目の前に並べられて私は困惑する。
「食べられるものだけでいいから口をつけなさい」
お豆腐のお味噌汁を啜ってみた。薄味だった。妊婦用に特別薄くしたのかなと思ったら、
「あたしも青さんも京都生まれで薄味、特にうちの家系は高血圧が多いから塩分控えめなの。美味しくないかもしれないけど」
と静香さんがちょっと照れて説明した。
「ご飯用意してもらえるだけで幸せです……」
涙ぐみそうになってしまった。
「加藤のお父さんも男子厨房に入らずとか言いそうな雰囲気?」
「自分のことくらい、できると思うんですけど」
「だといいけど。こっちは予定より早く駆け込み寺開始だね」
舌を出して茶目っけを見せる静香さんにとっては、世界はとても楽ちんで安穏な気がしてしまう。邪魔な私の存在をぐっと堪えているのだろうけど、それ以外は揺るぐものも壊れるものもない。その間を悠々と泳いでいるような。
それに引き換え自分の人生の心許なさが悲しい。自分の身体さえままならない不確かさに慄いた。
「青さん、昼ご飯には戻ってくると思う。これからどうするか相談したらいい」
言い捨てるようにすっと台所に立って行ってしまった。
「あ、あの、駆け込み寺って、少しの間ここにいさせてもらえるってことですか?」
青造さんよりも奥様に訊くべきだと思った。
静香さんは真意を測るように私を見つめる。
「帰りたいのかい?」
「いいえ、どこか下宿でも探そうと思って」
「下宿ってそれ、学生っぽい!」恋敵なはずの彼女は急に破顔した。
「お母さんになるんだから、おうちを探すんじゃない?」
「え、でも学生じゃ間借りくらいでないと……」
生活の基盤がないのは情けないことだとわかる。いい気になって家を飛び出しても所詮、父が働くお金で今まで、大学もレッスンも食事も寝るところも与えられてきたんだ。
家事くらい、父の食事を作ることぐらい、もっと頑張るべきだった気がしてくる。せめて一言、いたわりの言葉がもらえたらよかったのに。
「望んだ妊娠なのか? もしかして襲われたのか? ピアノはどうするんだ? 今までこんなに頑張ってきたのに」
そう尋ねてくれたら。
静香さんの明るい声に思考が途切れる。
「下宿ならここですればいいじゃない」
「ここ?!」
「うん、あの部屋使えば? 大学行ったり、練習行ったり、教えたりでしょ? しんどかったら寝ててもいいし」
「そんなお世話になれません」
「じゃ、想像してみて。青さんが離婚してあたしを追い出し奈緒ちゃんと暮らすと決めたらそうなるんじゃない? たいしておかしくないわ」
「でも青造さんは離婚したら神社もご家族も捨てなきゃならないって……」
「まあね、実はそう。神社もこの家も教団の持ち物で、ここは神主用の家だから。そのうえ、うちの歴代神主に離婚した人はいない。宗教って変よね。うちの神さま拝めば幸せになれるっていう例を神主が見せなきゃならないとか思われてるから、あたしを離縁するような男に神主は無理だってなっちゃうのよ。あたしも一族内の分家出身で、父親は熱心な信者だしね」
静香さんは私の顔色を見てころころと笑う。
「でもね、青さん、生活能力はないよ。この神社があるから雅楽演奏したり教えにいったりもするけど、教団から外れたら個人でどこまでできるか……。雅楽の演奏って一つの楽器じゃさまにならないし、お金になるかもわからない」
青造さんと二人で住むところを想像してみる。
小さなマンションを借りて、私は彼のご飯を作って衣服を整えて、家を快適に保つ。できそうにない、と思った。夫婦生活に自分は向いていない、ピアノにもっと時間を割きたい。家庭生活に向いていたら今父を投げ出してきていない。
父と暮らせなくて青造さんと暮らせるかと訊かれるととても自信がない。
青造さんとなら笑顔で、支え合いながらやっていけるだろうか?
体調悪ければ悪いと言って寝ていてもいいんだろうか?
彼が会社勤めをする姿は想像できないし、お料理をするところも描けない。私は音楽に造詣の深い、凛とした神主の彼が好きな気がする。
「青造さんは神主さまでいるのがいいと思います」
言ってしまった。言わされたのかもしれない。静香さんに操られている、誘導されているようだ。
「青造さんは私が連れて行って幸せにします!」と宣言できない自分を突きつけられた。
「それは追い追い考えればいい。奈緒ちゃんが有名ピアニストになったら、青さんに笛でも吹かせて一緒に音楽活動できるかもしれないし、奈緒ちゃんの収入だけで食べていけるかもしれないよ。今はこの家に奈緒ちゃんが住んでもあながちおかしくないって話をしてたんだから」
静香さんの言葉にはっとした。そうだった? それがこの会話の目的だったっけ?
「おかしいと思います。奥様に面倒みてもらうって絶対おかしい……」
「でも孕ませた青さんには面倒みる責任があるだろ?」
「あ、まあ、そうかも……」
「青さんにはあたしがセットで付いてくる、それだけ」
静香さんがまた恥ずかしげに笑う。
「あたしを追い出さなかったらこの家も取られない。だから安心して奈緒ちゃんはここに住む。これが一番名案よ」
やはり腑に落ちない。理解はできなかった。夫の浮気相手と一緒に住む。子供だけなら何とかまだ愛せるかもしれない、でも恋敵の自分にどこまで優しく手を差し伸べる気なんだろう?
遅い朝食をもらった私は、お昼は食べず青造さんの綺麗な箸使いを眺めていただけだった。
「それでいいんじゃない?」袴で正座した青造さんが微笑む。
「お父さんにはちゃんとご挨拶したいから、今晩にでも一緒に行こうか?」
軽く言われて驚いた。
短気な父は青造さんを殴るかもしれない、罵るだろうし、暴れるだろう。そう言っても目の前の人はびくともしない。
「それが筋だから。僕だって娘の加代がこんなことになったら、逆上する」
「あ、あの加代さんのお姿が見えませんけど、こちらにお住まいって言ってましたよね?」
「うん、入学式前に京都に行ってしまった。これも自業自得だ」
急にお父さん顔になる青造さんがおかしかった。
「静香がもう少し経ったら加代にも話せるだろうけどまだ無理だって」
「それは、そうですよね、わかってもらえるわけがない……」
「嫌われたくなかったら今は下宿で羽伸ばさせておけって。それでもし悪い男に引っ掛かったらどうするんだ?」
うちの父より10歳若い青造さんも父親同士似ていると思う。
「世の中悪い男ばかりですものね」
からかうと青造さんが頭を掻いた。
「京都に娘の許婚がいるんだよ。お目付役もいる。だから安心といえなくもない。でも結婚してしまうと神官の嫁になる。神社の世界に入ってしまうからね、今のうちに世の中を見ておくのも意味があるだろう、許婚より好きな男ができたらそれも考えなきゃいけない。恋をして自分の意思で選んでほしいから。そのために早めに送り出すんだって自分を納得させた」
男親の心配を見せられてしまった。ヘンなひとでもやっぱり好きだ。器が、想像できないくらい大きいみたい。度量があるんだと思う。それが世の中とはちょっと外れている。
「お父さんのご都合伺っておいて。土下座しにいくから。あ、その前に君の決断をまだ聞いてない。産むか産まないかで土下座の意味が変わってくる。悪いが夕方にでも一度神社に来てくれ。ふたりの子供の話だ、ふたりで決めよう」
笑顔で神社に戻る彼を送り出し、「片付けはいいからピアノ弾いておいで」と静香さんに追い出された。
父が仕事でいない間に自宅に戻り当面必要なものを旅行鞄ひとつに詰めて、その足で行きつけのピアノ教室に向かった。