子供のしあわせ?
「コンクール、諦めたら許さないからね」
青造さんがふとそんなことを言う。
「でも万が一勝ってしまったら事務所と契約してレコーディングやオケとツアーもあるって」
「それが何だって言うの? 妊婦に出場資格がないとか? 未婚の母では不道徳だとか?」
「そんな見方もあるのか。いったい僕は何てことを……」
青造さんが名前の通り青くなってうなだれた。
「今更何言ってんの?」
静香さんの声は打って変わって、座卓の上を這うように凍りついていた。
「あたしに何をしたかは説明しないわよ。でもね、奈緒ちゃんは結婚前のお嬢さんなのよ? 結婚も仕事も、人生の夢全部を棒に振ったかもしれない。こんなことあっていいわけないじゃない! 好きならしていいんだったら世の中どうなると思ってんのよ!」
冷たかった声が急に荒げられて、私は正座のまま畳の上に飛び上がった気がした。
「私のせいですから、静香さん、どうか……」
「ええ、そうよ、貴女のせい。貴女があたしの世界を壊すの。ピアノの先生なんか呼ばなきゃよかった。小学校のイベント、後藤で全部請け負っていたら……」
静香さんが唇を噛む。きついことは言ってもどこか制御されていて、後から思えば考えがあって発言していたんだとわかる女性の、初めて見せた激昂だった。
「静香、僕には何を言ってもいい。だが奈緒子を責めるのはやめてくれ」
青造さんの目に強い光が戻る。優しいだけじゃない覚悟のような眼差し。
その発言を聞いて静香さんと私は同時にショックを受けた。
奥様は自分の夫が外の女を庇うのを目の当たりにして。私は奥様と青造さんの間は決して揺らがないと見て取って。
「私の人生のことは自分のせいだからいいんです。でも子供は、産んだとして幸せになれるのかどうか、それがわかりません」
静香さんが手伝ってくれようが、青造さんが面倒みてくれようが、私に人ひとりの人生を支えることなんてできない気がする。この子が生まれて思春期頃になって、
「なんで産んだんだ? こんな家に生まれたくなかった!」
と叫ぶ姿のほうが容易に想像できる。
「酷いこと言われるでしょうね。片親だってだけでいじめられたりするんだから。両親が納得ずくで離婚しても憐れみという優越感の視線を受ける。若いお嬢さんが結婚前に産んだ子供だとしたら世間は、『身持ちの悪い女の自業自得、苦労して当然』っていうレッテルを貼るのよ、孕ませた男は何も言われないのに」
「世の中そんなに遅れてるか……」
「青さんがズレてるんでしょ? 悪いのは貴方なのよ? 社に籠って神さまの振りなんてしてるから、現実がわからなくなる!」
奥様がご自分の鬱屈を吐き出しているのを、私はまるで映画でも観ているかのように眺めていた。判断不能なことばかりで、目の前で起こっていることなのに自分から物事が遠ざかっていくように感じる。
間がどれくらい空いたのか、ふと青造さんの声が聞こえた。
「すまん。すまない、奈緒子……、産んでほしいからって産んでって言ってはいけないんだな?」
「青造さんは産んでほしいんですよね?」
私は厳かな神主さまでありながらかなり抜けている相手を見つめた。わかっているのは、彼のその落差に自分は魅了されているということ。
奥様と私両方とも好きだと言う言葉に嘘はないらしい。どちらか選べないから困っているんじゃない。両方好きだから好き、選ぶ必要ない、両立させてみせるとでも思っていそうだ。
そして彼は軽い気持ちで私に触れたわけでもない。それは神社で会話したり音楽を奏でたりしているうちに、しっかりと私の中に根付いてしまっていた。あの歌を唄う前から、愛し合っていないはずがないと私は自信があったのだろう。
奥様から青造さんを奪ってでもふたりの間で感じているものを形にしたいと願ってしまった、私の浅ましさが引き起こしたのが今の状況だ。
「もちろん、産んでほしい」青造さんの瞳に迷いはなかった。
「授かった命のほうが、どんな苦労より大事だ。奈緒子の人生がめちゃくちゃになるかもしれない、辛い立場になることはわかった。その覚悟が奈緒子にあったかどうかは知らないが、君も僕も大人だ。大人の都合で命を絶っていいとも思えない。僕にできる限りのことはするからこちらに担わせてほしい」
「貴方のできる限りのことに、奥様と離婚して私と結婚するという選択肢は入らないんですよね?」
静香さんも腹の内を見せたのだから、私もはっきり言わせてもらうことにした。突き詰めないと面と向かって話をしている意味がない。
「悪いが、入れられない」
「なら、出産は無理です、と言っても?」
「奈緒子が無理だと思うなら……僕にはどうしようもない……」
酷い人だ。結局全て、私任せ。自分で決めるしかない。
いやきっとそうなのだろう。人生全て、自分で決めるしかない。青造さんは彼のすること、できることを決めた。私も決める。
「奥様は? 本当にこの子が生を受けてもいいと思ってるんですか?」
柔らかな表情に戻っていた静香さんは微笑んだ。
「あたしは楽しみで仕方ないわよ?」
私はこの常識の通じない夫婦をかわるがわる眺め、自分のお腹に手をやった。
そして心の中で「あなたが生きていく方法があるかもしれない」と胎児に語りかけた。