女同士の話と和菓子
「女同士で話して」と独り広い畳の部屋に通されて、青造さんはどこかへ行ってしまった。
座卓の向こうに床の間があって、掛け軸が下がっている。
和服に割烹着のとっても小柄な女性が入ってきてお茶を出してくれた。
手もつけずに俯いていると、するりと割烹着を脱いで斜向かいに正座した。
――やはりこのひとが奥様。
痩せているけど丸顔で10歳くらい年上だ。恐る恐る顔を上げると二重のぱっちりとした目が、睨んでいた。
「赤子はあたしが育てる。産んだらさっさといなくなれ、と言ったらどうする?」
ぞっとした。ピアノもできなくなり子供も取り上げられる。そんなのって――
「嫌、です。できません」
「じゃ、殺すのかい?」
コロス、下腹部に手を当てて呟いた「ころす……」
「殺してくれたら楽だよね。あんたの恋心ごと殺してくれたら、丸く収まる。青さんは一生気にするだろうけれど、身も心も傷つけたあんたに合わせる顔は持たないだろうし。あんたももう関わりたくないだろ?」
「嫌、です」
「何が嫌なんだい?」
「わかりません……」
「本当に困ったときには、嫌な順に番号付けて最悪を避けるのも手だよ」
「嫌な順?」
「あたしはあんたに青さん奪われるのが一番嫌。あのひとが『小学校で出会った若いピアニストさん』に懸想してるのはすぐにわかったの。昔から、普段は露天風呂みたいにぬくぬく落ち着いてるくせにたまに間欠泉みたいに熱水吹き上げるのよ」
「前にもあったのですか、こういうこと」
「ないよ。あたしとの始まりがそうだったってだけ」
奥様の表情が柔らかくなった気がした。
「あんたの一番嫌なことはなんだい? ピアノが弾けなくなること? 青さんに会えなくなること? 子供を奪われること?」
子供のことは想像がつかない。お腹の中にいるらしいと思うだけでよくわからない。
「ピアノは……、辞められません。ピアニストになれなくても、教えるだけでも続けます、から……」
「じゃ、やっぱり長慶青造を諦めることかい?」
「いえ……、わかっていますから、お嫁さんになれないのは……、でも好きな気持ちは……止められない」
「あのひとの音楽に術をかけられ幻惑されただけだったら?」
「それでも、いいです。好きになってしまったから」
「そっか……」
外はもう日が暮れたのだろう、障子が黒ずんで見える。雨戸を閉める音が聞こえていた。
「青さんはただの神主ではなくて、うちの教団のトップなんだよ。四つの神社を仕切ってる。平安時代の貴族の末裔で血筋も直系、継承してきた雅楽でも舞でも敵う人がいない」
奥様、静香さんがなぜそんな話を聞かせるか危ぶみながら次の言葉を待った。
「古い考えもたくさん残っていて、正妻以外に子供を持つなんてちょっとやそっとじゃ許されない。殺してくれないか?」
「嫌です!」
考える間もなく叫んでいた。自分でも驚いた。その瞬間まで自分に命が宿っていて、それが大好きな人の子で、かけがえのないものだという意識はなかったのに。
「じゃあ、あたしにおくれ」
「嫌!」
私と青造さんの子供、はいどうぞって渡せるわけない。
「あんたはさっきから嫌としか言わない。今の状況全てが嫌なのはわかる。でもだからこそ、どうしたいか見えてこないかい?」
「わかりません……」
わかってはきていた。堕ろしたくない、奥様にも渡せない、なら自分が産み育てるしかないんだ。ピアノを教えてなんとか生計を立て、この子を育て上げるしかない。
未婚の母に理解のある世の中じゃない。子供は「ててなし子」とか呼ばれるのだろう。それを私独りで守っていかなきゃならない。
私はふしだらな女と後ろ指さされて、青造さんに頼ることもできず。
自分の父親が助けてくれるかどうかわからない。助けになるのかどうかも。他に親しい親戚もない。たった独りで。
「残念ながらあたしにはもう子供が産めない。17年前に長男を難産してね、もう子宮がないんだ。困ったことにそれが教団中にバレてる。だからその子をうちにもらっても、正室の子だと誤魔化すこともできない」
「もう青造さんを煩わせず、縁を切って欲しいということですか?」
「そうするとあのひとの心はもっとあんたに奪られてしまう気がするんだよ。あたしにとってそれが一番嫌だから考えたのさ。手伝わせてくれないかい?」
「え? 手伝う?」
「あたしは20歳になる前にもう子供が産めなくなったんだ。もう一度この手に赤ん坊を抱いてみたい。あの柔らかい乳臭い匂いに鼻を埋めたい。それが好きな男の赤子だったら、きっと愛せる。青さんが惚れたあんたなら、きっと好きになれる」
「おく、さま……?」
「青さんはあたしを愛してる。ふたりで築いてきた歴史もある。あのひとが苦しむところは見たくない。生き難い人生ばかり選ぶ人だから、あたしくらいは味方でいたい。あのひとがあんたを好きなら、あたしも好きになってみせる」
「私が未婚の母として子供を産み育てるのを、助けてくださると仰ってるんですか?」
少し嫌みが籠ってしまった。あなたが奥様なのは変わらないんですよねと。
「早くにお母さんを亡くされたと聞いた。あたしじゃだめだろうか? 祖母のような立場であんたの赤ちゃん、抱かせてくれないだろうか?」
――前代……見聞だ。
別れる別れない、堕ろす堕ろさないで話は終始するもんだと思っていた。不倫、浮気、不義、不貞、そんな言葉はどこに……行ってしまったんだろう?
答えられないうちに襖が開いて青造さんが入ってきた。お盆にはお茶と和菓子が載っている。
「目移りしたから片っ端から買ってきた。どれがいい?」
この家は静香さんも青造さんも、答えられない質問をするのが大得意らしい。
「あ、芽生え、下萌え、こぼれ梅、寒梅、初音。でも和菓子って食べちゃえば味は一緒なのが多いのよね」
静香さんは嬉しそうに、
「ほら、奈緒ちゃんが選ばないとあたしが食べられないでしょう?」
と笑った。
それを見て青造さんが私に微笑む。
「やっぱり丸め込まれた? 練り切りで餡を包むみたいに」
私は腑に落ちず、訊き返した。
「おふたり打ち合わせ済みだったんじゃないんですか?」
「いや、会いたいって言ったのは静香で、包丁で刺し殺すとか取っ組み合いの喧嘩をするとかじゃなければ会ってもらいたいって言ったのがこっち。話の詳細はわからないけど大筋は予想通りだと思う」
失笑してしまった。
私はお茶をいただき鶯の形のお菓子を口にした。ふたりの絆を酷く見せつけられながら。