幻想即興、思考停止
神社に行く回数が自然に減ってしまった。行ってもお社には近づかず、鳥居の辺りから眺めて聞こえてくる音楽だけ楽しんだ。好きだという思いは募っても、あのひとを泣かせたという罪の意識が胸にこびりついている。自分としては、奥様に悪いというより青造さんを苦しめているという後悔の念が強い。
3月中旬になってそうも言っていられなくなった。
生理が来ない。検査薬は薬局で売っていなかったから、どうしても産婦人科に行かなくてはならない。安全日だと確信があったわけじゃないのに、続けてと頼んだのは自分だ。迷惑はかけないと叫んだ気もする。責任は全て私にある。
自分の将来が音を立てて崩れて行く。
まだ心臓なんてできているはずないのに早くも、下腹がトクトク言う気がする。鏡に映して撫でてみた。
「お母さん、こんなときどうしたらいいの? なんでさっさと死んじゃったのよ」
そんな言葉が勝手に出てきた。
診断結果が出てからその足で神社に赴いた。
拝んでいる内に足音が自分の横で止まった。顔を上げると青造さんだった。
「嫌われたかと思った」
と淋しそうに微笑んだ。
これから言うことを聞いたら、このひとはどう反応するのだろう?
私は彼の神官服に付いた染みみたいなものな気がした。
「それは困る。すまない」と言ってくれればいい。そうしたら諦めもつく。決断して手術を受けて自分の道に戻ればいい。
「月のものが遅れてて……」
それだけ何とか口にすると、
「なら身体を冷やしちゃいけない。おいで、熱いお茶を淹れよう」
と言って私の腕を掴んだ。
青造さんは私を本殿と呼ばれる神さま側に入れた。正座を崩すように言って、後ろから肩に毛布をかけてくれる。
「病院に行ってきたんじゃない?」
「はい」
青造さんがお茶を持って戻ってきても会話が始まらない。貴方の答えは予想できているから口にしてと言おうとした。目が合うと、
「産んでくれないかな?」
と聞こえた。
「え?」
「奈緒子の人生を狂わせてしまった。それは申し訳ない。だが君への気持ちが否定できないと同様に、なかったことにしたくない。そんな生半可な気持ちで好きなわけじゃない。ならば妻と別れるべきだろう。でも妻への気持ちも枯れていないんだ」
このひとは何を言っているのだろうとぼんやり眺めた。私を好きだけど奥さまも好き。それを認めろと?
そして私に子供を産めと。未婚の母になれということ? 妾になれということ?
コンクール時が妊娠五カ月、ドレスでぎりぎり隠れるかどうか。どうせ勝てないのだから妾に収まれということだとしたら、このひとが今まで言ってくれたことは何もかも信じられなくなる。
産婦人科でつわりはまだないかと訊かれた。これから酷くなったら、練習どころじゃない。
やはり、最高権威のコンクールなど私にはムリだということだ。
「産んだらピアノ、諦めなきゃならなくなります……」
「なぜ?」
――宗教絡みの人ってこんなに常識や社会通念に欠けるの?
湯呑を持つ両手が震えた。自分は神主さまの偶像に恋をしていたのかもしれない。
「妻に会って欲しい」
「え?」
「母屋に一緒に来てくれないか?」
「あの、奥様、ご存知なんですか?」
「ああ、話してある」
頭を抱えてしまった。
「どうしても産みたくないなら仕方ない。そのサポートもするつもりだが、僕は産むほうを選択してほしいと思っている。そのうえで何ができるか考えたい」
できることなど何もない。できなくなることばかりなのに。
青造さんは離れたところでお琴、正式には筝と呼ばれるものを弾いていた。ショパンの幻想即興曲のスローパート。
弾き終わるとそっと囁いた。
「君が悩むのは僕が不甲斐ないせいだ。頼りないだろうね」
「だって、お嫁さんにしてくれるわけじゃないじゃない!」
私は思わず叫んでいた。自分がそれでもいいと押し切ったことを棚に上げて。
「酷いことをしたと思っている。奈緒子と一緒になるためには、この神社も教団も、妻、長男長女とも縁を切ることになる。卑怯なことだが、どちらも選べない」
「言えばいいじゃない、堕ろせって、それだけじゃない! 自分が悪者になりたくないから言わないだけじゃない!」
「奈緒子と僕の子供がいたら嬉しい、それだけだ」
私の金切り声に比して、青造さんは落ち着き過ぎていてまたイライラする。
「そのためにどれだけの犠牲を払わなきゃならないか」
「犠牲? 君の心はまだ母になってないね」
「どうして私が母親になれるの?」
「もうなってるって思ってごらん。僕はもう君のお腹の中の子の父親だと思っている。それだけのことをしたのだから。僕は自分の意に反することは欠片もしていない」
「世間体とかは?」
「そんなものが大事かい?」
ふうっと深呼吸して頭を働かせた。
「貴方だって世間体が大事なんじゃない。私のために神社を捨ててはくれないのでしょう? バレたら困るんじゃないの?」
「まあ、いろいろ言われるだろうが、神社を捨てないのは知られたら困るせいじゃない。僕がいなくなると困る人が多いからだ」
「信者さんが困るより私が困ったほうがいいのね?」
住んでる世界が違う。常識が通じない。世間の荒波に晒される私のこと、どこまでわかってくれているのか疑ってしまう。
逃げ出した方がいい。手術を受ければいい。リセットできる。そしてピアノに一生を捧げればいい。
「お父さんに相談はできないだろう? 誰か、ご親戚か友人か女性で相談できる人がいるかい?」
私は首を横に振った。
「静香に会ってみる気はないか? 僕の奥さんに」
もう何もわからなかった。思考停止。音楽は通じても言葉は通じないひとだとぼうっとした頭で思った。
青造さんに手を引かれるようにして神社の石段を降り、母屋へ行った。