龍笛、歌唱、キーボード
「あの、キーボードを持ってきたら、もしかして聴いてもらえますか?」
コンクールの相談に見せかけて問いかけた。
「ええ、喜んで。週末京都に行くのでその後、そうですね、来週の水曜日以降でしたら」
私の思惑をよそに、青造さんは笑顔で送り出してくれる。
鳥居の横の小さな案内板に次の月曜日に節分会があると出ている。京都でも大きな儀式があるのかもしれない。水曜日はお互い小学校だし、では来週木曜か金曜。
金曜にしようと決めて聴いてもらう曲を選ぶ。
私は演奏で告白をしようとしている。あのひとのことだから、私の選曲で想いは伝わる。
小娘が纏わりついているだけ。
離れていても音楽で会話ができるような錯覚に陥っているだけ。
心の支えになってくれているのは、神主という立場上。私は信者でも何でもない。
学部生の頃、付き合った人はいて人並みの経験はしたが、いつもピアノを優先した。それを許す相手でないと付き合えなかったし。
母が亡くなってからというもの、ピアノが一番の恋人で保護者だったと言っていい。
コンクール用に練習している曲からひとつ、リストの「ラ・カンパネッラ」。ピアニストであり作曲家だった彼が、夫のある女性と逃避行した時に聞いた鐘の音らしいから。キーボードではピアノの鍵盤の跳ね返りが再現しにくいから速度を落とし気味で丁寧に。
そして、「椿姫」を唄おう。Un di felice, eterea 告白の歌。
声が低いから歌唱は実は得意じゃないけど、テノールの高音側でレンジに合いやすい。青造さんなら何の歌かご存知のはず。
金曜日当日、またお社の中に入れてもらって、キーボードに脚をつけ立って演奏した。
まずはリスト。うまく弾けないかもというドキドキより、「好きです」と告げようとしている動悸がリズムを乱す。
「思った通り、貴女の音楽は熟しています」
思ったほど上手に弾けなかったことがわかっているだろうに、青造さんは細面で色白なくせにうっすら赤面してそう言ってくれた。音楽の神さまの使いとしての激励の言葉だろうけれど。
手の中に太めの横笛を弄っていた。
「その笛は小学校の顔合わせで吹いたものとは違うようですね」
「あ、はい、これは龍笛と言って、少し低音側です。あの時は篠笛で」
どうも青造さんもいつもの調子じゃないみたい。
「聴かせてくださらないんですか?」
「これはやめておきましょう。手が踊り出してしまいそうで止めていただけです」
「手が、踊る?」
「ええ、お神楽舞などもするので。京都で久々に人前で踊らされて」
なぜ私に見せられないのかわからなかった。リズムに合わせて身体が動くなんて、演奏者冥利につきる。きっと信者でないからだ、と俯いてしまった。
「仕草が言葉になっているのです。うちの舞は楽よりも歌よりも内面が出てきてしまうので」
「隠しておきたいことがあるのですね」
言ってもらえないんだ、とがっかりした気持ちをこっちこそ隠しておきたい。
「知らないほうがいいこともあります」
びくっとしてしまった。そうか、裏返しだ。私に自分の気持ちを言葉にするなという意味だろう。聞くわけにはいかない、聞いてもどうしようもないから、言・う・な。
下唇を噛んだ。許されない恋。どれほど憧れても目の前の人は奥様のモノ。
「例えばこの龍笛、鬼の笛と呼ばれています。女性を惑わせる、相手を手に入れたいときに吹くと良いと……」
じゃあ、その笛を吹いて全て笛のせいにして、私を腕の中に入れてくれたらいいのに。好きな人に身体ごと愛されたいという自分に驚きながらも、こみ上げる想いを認めてしまった。
「京都で存分に吹いてきました」
「効果はありましたか?」
「欲しい人がいないから、安心して吹けたんです」
はっと顔を上げて好きな男を見つめた。
青造さんは静かに言葉を続ける。
「京都でいろいろ考えていました。私には大事な妻がいて、春から大学生になる娘がいます。残念ですが貴女とこんな楽しい時を持っていい男じゃない。神官としてあちら神さま側、本殿に自分を閉じ込めるべきだと。楽奏なら平安の頃のように御簾越しで構わないはずだ。貴女の音楽の前途を心から応援していますから」
神主さまはすっと立ち上がると袖を翻して遠ざかり、正面にあった木戸をスライドさせると、奥に引っ込んでしまった。
唄う前に振られてしまった。動けなかった。
私を求めていると言ってくれた気もする。この場で笛が吹けないのは私のせい? それとも私の思いすごし?
いやきっと、私の恋心を傷つけまいと離れてくれただけ。そういう人だとわかってしまっている。優しくて公明正大、私に揺さぶられてくれるのはあのひとの音楽性だけ。
泣いていたらそのまま帰った。でもまだ涙にはなってないから声は震えても唄える。練習してきた曲を弾いてから去ろうと思った。最後にそれくらいはさせてもらおう。歌なら聴いてもらえるだろうから。
♪ Un di, felice, eterea,
Mi balenaste innante,
E da quel di tremante
Vissi d'ignoto amor〜
(ある日幸せそうに爽やかに私の前に現れたあなたよ、あの日から震える思いで未知の愛を生き、この愛は世界の鼓動、あなたに会ってから拷問と至福の愛に囚われている)
ワンコーラス終わるや否や前の木戸がガタンと開き、神主さまが仁王立ちしていた。怒鳴られると思った。全身から怒りのようなオーラを感じた。彼の瞳は一層細められて鋭く光っている。
彼は低い声を震わせて、
「ああ、それが本当なら忘れてください、私には友情しかお約束できない」
と、呟いた。
同じオペラの私が唄ったパートの後に続く歌詞。
私は黙って青造さんを見つめた。それしかできなかった。
すると彼は前に足を踏み出し、腰の高さのキーボードを廻って、私を後ろから抱き締めた。口づけされて押し倒された。
「青造さん……!」
力の強さに驚いた。何が起こっているのかわからなかった。でも自分が望んだことだった。
「何てことを……」
触れ合った衝撃で我に返り私を引き剥がそうとする人に、渾身の力でしがみついた。
「お願い、続けて、このまま、このままお願いします」
それでも振りほどこうとする。
「お願いします、ご迷惑はかけませんから、最後まで、どうか最後まで!」
「すまない、好きになってすまない、こんなことになって、すまない……」
青造さんは半分泣きながら謝りながら私を愛した。
「奈緒子、好きだ」
掠れた自分の視界の中で、濡れた瞳を拭いもせずに青造さんは言う。ああ、酷く困らせていると思いながら、意識が遠のいた。
気がつくと私は神官服と毛布に包まって横たわっていて、青造さんは隣で微笑んでいた。
「大丈夫かい? 酷いことをしてしまった」
「ごめんなさい」
後悔しているのだと思ったから謝った。
「奈緒子が謝ることじゃない。いい歳して抑えがきかないなんて」
額の髪を撫でてくれている。
「あの、青造さんはいくつ?」
「え? 歳? 38」
「なんだ、お父さんよりも若い」
「だとしてもこんなことしていいわけがない」
「ごめん……」
骨ばった細長い掌が私の口を覆っていた。
「悪いのはこっちだ。でも僕は謝らない。謝ったら自分の気持ちまで否定してしまう」
「否定?」
「奈緒子を好きな気持ち。手荒にしてしまったことは謝らなきゃならない。悪かった。するならするでもう少し優しくするべきだ。が、そんなコントロールができていたらこんなことになっていない。向こうの本殿で座禅でも組んでる。それができなかったのだから」
「私が……好きだから?」
「そう、奈緒子に惚れてしまったから」
えへへ、とふたり照れ笑いをした。
でも現実は笑っていられる状況じゃない。
――奥様は? 私は? これから、どうなるの?
青造さんが優しく笑いかけてくれればくれるほど、私はどうしていいのかわからなくなる。本当は困っているはず。後悔しているはず。奥様に申し訳が立たないと思っているはず。
オペラ「椿姫」もしくは「ラ・トラビアータ」ヴェルディ作。
イタリア語のdi(英語のday)のiはアクセントが付くのですが、出し方が解りません。ごめんなさい。




