ピアニストの最初の一歩は
涙と共に疲労物質が溶け出していってくれたらしく、お風呂の後は私も笑うことができた。信也はいつもの私の信也だった。ほっと安心した。
そして夕食の間に私は決心した。
「青造さん、食事の後、お時間いただけますか?」
「うん、座敷で話そうか?」
青造さんはいつもの調子だ。静香さんは微笑んだだけ。
静香さんを蚊帳の外にするのも失礼だと思い直した。今までどれ程信也を可愛がってくれたか、母親代わりを務めてくれたのは静香さんなのだから。
「コンサートに専念したいので、京都に行きたいと思います。信也も連れて。託児所かどこか、探せますか?」
静香さんは気を悪くした様子もなく答える。
「さくらさんとこに居候すればいいわよ。あそこもお部屋余ってるし。いいお庭はあるし。ピアノも防音設備もある」
「あちらにこれ以上甘えるのも心苦しいのですが……」
「あら、問題ないって。奈緒ちゃんは後藤音楽教室の契約ピアニストでもあるんだから。今度はさくらさんが信ちゃんにめろめろになって可愛がってくれると思う……」
いや、きっとそれじゃあダメなんだ。静香さんがさくらさんに変わるだけ。私は自分から「こうしたいから手伝ってください、報酬は払います」と言えるようにならなければならない。
お金なんて気にしなくていいって静香さんにもさくらさんにも言われるだろう。でもこのままずるずる甘えたら、私は自分が出せなくなる。
どこにいっても居候という立場では、私のピアノは鳴り響かない。
経済力で一人前かどうか測る必要はないと思っても、私は不器用なのだろう、自活もできないでは発言権は無い気がする。
表現者として「自分の奏でたい音楽はこれです!」と言い切るためには、私は自立したい。
「ごめんなさい……」
そう言うしかできなかった。
静香さんは急に淋しくなってしまうだろうに、恩を仇で返すような私の希望を咎めもしない。
「落ち着いたらまた信ちゃんに会わせてよね?」
と無理に笑顔を作ってくれる。
「はい、もちろんです」
信也のことに関しては、単なる立ち位置、主導権の問題だから。
静香さんが私の赤ちゃんを可愛がってくれるのはとても嬉しい。この世に有り得ないだろう複雑な位置にいながら、深い愛情を無尽蔵に注いでくれる。
ただどうしても私が、「青造さんと静香さんのところにいる赤ちゃんに会いに来る」という感覚に陥るわけにはいかない。
食後の片づけを済ませてから青造さんを座敷に訪ねた。
いつものように床の間を背に座っている。私の腕には生後6カ月の信也。もう人見知りを始めたせっかちさん。
「淋しくなるな……」
私が口を開く前に青造さんが呟いた。
「でも……、これ以上は、けじめをつけないと、私も踏み出せません……」
心に巣くった思いを、何とか言葉に紡いだ。
「私みたいなひよっこ、全身全霊で当たらないと良い演奏なんてできない。そして私の全身全霊には信也が含まれている。京都と東京、信也とピアノ、分断されていては……、心ゆく音楽なんて作れない……」
「そうだな。君の瞳に強い光が宿った気がする。音楽家として自分の足で立ち上がる時なのかもしれない」
「はい。そうしないと自分の表現ができない……」
「やはりな……」
青造さんは、私の葛藤をわかってしまっていた。
「このパッセージはこう演奏したいからオケの皆さん助けてください。信也と暮らしたいから手伝ってください。私が決心して私から動かないとダメなんだと思います……」
目の前の大好きな人は細かく頷きながら、信也に目を移して微笑んだ。
「さくらさんには電話しておいた。そうなると思ってたって。コンサートが近付けば通いじゃ無理だ。だが家を探す時間ももったいない。後藤家の離れを住めるようにしておいてくれた。子守りも問題ないが、奈緒子が自立したい、けじめをつけたいと思うなら、賃貸契約、ベビーシッター契約をすればいい。甘えじゃなくて、ギブアンドテイクだよ。さくらさんとしては、ゆくゆくは託児施設付きの音楽教室を目指すつもりだから、そのお試しをさせてもらえると嬉しいって」
「託児所付き音楽教室?」
「ああ。結婚とか出産したら活動を諦める音楽家、多いんだろう。プロレベルでなくても、子供の頃ピアノ習っていたのに成人して続ける人も少ない。いい目の付けどころだと思うよ」
さくらさん、ビジネスの才覚もあるなんて知らなかった。
「託児所代、僕から払ってもいいんだが、奈緒子はそれも嫌なんだろう?」
「はい」
きっぱり答えた。青造さんはまた微笑む。
「養育費という言葉は嫌いだが、今回だけは別だ。君は信也の養育費ならば僕から受け取らざるを得ない。僕は君宛に毎月所定金額を振り込むことにする。ご実家からの生前分与を受けたんだったね。その貯金と養育費とこれからの収入でやりくりして、他にも要り用ならどうか、言って来てほしい」
「ありがとうございます……」
「デビューコンサートの後は、君はもっと有名になるだろう。それを応援している。東京中心の活動になることも期待している。だから忙しくなっても、静香と僕に信也を会わせてくれ。月に一度でいい。それ以上は我儘言わないから……」
青造さんの切れ長の瞳から突然、一粒だけ涙が落ちた。
「そして、もう一度だけ言わせてくれ……、奈緒子、愛している……いつまでも」
「はい……」
これがこの恋の終末。このひとを恋求めるのはこれで終わり。
私が青造さんほど好きになる男性はこれからもいないだろう。泣き虫で雅な、私の神主さま。でもこの先は追いかけない。彼への思慕は、ゆったりと心に棲みついた愛情として一生抱えていく。
奥様の包容力には全く勝てないと私は白旗を上げて逃げ出すんだ。
私など、恋敵にもならなかった。青造さんを愛する気持ちも、信也を育てるということでも。
私はこれからどれだけ大変でも、信也と一緒に自分の音楽を追求する。赤ん坊とピアノ、どちらかを選ぶんじゃない。
信也の幸せは私のこの身、この指に培った私の音楽性が作っていくのだから。
私の膝に乗って無心にピアノに手を出そうとする信也、戸外では目に入る物何もかもに触れようと体を伸ばす信也、その純粋無垢な求道心。私の音楽はここから始まる。
指揮者さんにも楽団の皆にも信也に会ってもらおう。信也が欠けたら私の音楽は完成しない。産むと決心して育てると決めた私の大事な赤ん坊。後ろめたく思う必要ない、隠すなんてもってのほか。文句のある人は私のピアノで黙らせる。
だって、信也の命を育む音楽が私の表現なのだから。
それをまず聴いてもらおう。
全ては、それからだ。
―了―