八方塞がり
最初の2週間はぼやんと霧の中。いつも眠たい。泣かれておっぱいをあげておむつを替えて、うとうとしたかと思ったらまた起こされて。
青造さんの大きなおうちに信也の泣き声は響き渡り、静香さんも青造さんも寝不足。
良く通る声を遺伝させたらしい歌の得意な父親は、「全く神社に眠りに行ってるみたいだ……」と頭を掻いた。
信也はたくさんお乳を飲んで、よく吐いた。そしてまた飲む。粉ミルクが必要になったのも早かった。静香さんは哺乳瓶係になって私を支えてくれた。
「そろそろ指慣らし始めないと」
と、さくらさんからの伝言が来て、信也と静香さんと連れだってピアノの置いてある借家に通った。
毎日午前中に3時間ピアノを弾くこと、という約束をしたんだった。
私のデビュー公演は京都交響楽団だそうだ。ラベルとリストとドビュッシー。超絶技巧の大曲をがつんと弾くのではなく、感情を揺さぶる小品を重ねるラインナップ。スイスで表現力を高めてきたつもりだからそれでいいといえばいいのだけれど、ピアニストとしてショパンやラフマニノフが弾けないと思われるのは残念な気がする。
コンクールに優勝して、東京の大手オーケストラと組んだほうが、経歴にはよかったのではないか、と疑問がないわけではない。
――今さらそんなことを考えても仕方ない。
私がピアノを弾いていると、信也は概ねご機嫌さんだった。泣く間隔が間遠になる。静香さんに抱かれていても、目は音源を追おうとしているのか、私を見つめている気がした。
意識してかどうかわからないけどにっこりと笑いかけてきて、そんな時は、「ああ、もうピアノより信也がいればいい」と嘆息してしまう。
夕食時には青造さんに、今日は信也が何をした、どうだった、と静香さんが逐一報告する。彼はケットや座布団に寝かされている信也に指を握ってもらうのが大好きなようだ。
静香さんと私はわざとお皿洗いや洗濯物の片づけが忙しいふりをして、青造さんの膝もとに「ちょっと見ていてください」と信也を寝かせて、様子を窺ったりした。
おかなびっくり赤ん坊のほっぺをつつく彼はとても愛おしい。
2月、信也が生後3ヶ月になると、週1で私は底冷えのする京都に通うことになった。最初はさくらさんとピアノを弾くだけだったけれど、「うん、形になってきたわね」と太鼓判をもらうと、オケと常任指揮者に紹介された。
「6月の公演まで、一緒に音楽を作っていこう」
眼鏡の奥の瞳が優しい、人当たりのいい指揮者さんだった。ほっとすると同時に、そんなに甘くていいのかなという気もする。指揮者なんて気難しくてわけわからない注文ばかりする人種だと思っていた。
でもそれは私の第一印象のほうが間違い。オケの皆の顔を憶える頃には、音楽に関して一切の妥協はしない指揮者だと思い知らされた。
「ソリストがどう弾きたいかわからなくてどうするの? もっと突き詰めてきてよね?」
と何度も怒られる。そうなると私も、東京に戻っても自分の一番の表現を探して借家に籠ってしまったりもした。京都へ行く回数も週一では済まなくなる。
信也は静香さんにおむつを替えてもらい、抱っこされてどんどん大きくなった。私は京都から帰る度に信也を受け取ってその匂いを胸一杯に吸った。私の赤ちゃん。私の体の一部、私の信也の乳臭い温かさ。
離れたくない。
京都の桜並木がどこも花びらを吹き散らす頃になると、私は前途に行き詰まりを感じた。
「笑顔に気持ちが入ってきたみたいなの」静香さんが嬉しそうに語る。
「お腹がすくとすっごく泣いて、ミルク渡すとにんまり。両手伸ばして抱っこはせがむし、それも青さんに縦抱っこされるのが好きみたいなのよ」
「首がしっかり座ってきたんですね」
照れて笑う青造さんを見ながら、自分は何を見逃しているだろうかと焦ってしまう。
京都から日帰りしてみると静香さんに、
「今日、信ちゃんお熱あったのよ。でも麻疹でなくてよかった、お昼寝したら下がったから、もう大丈夫みたい」
と言われた日もあった。傍にいてやれなかった、教えてももらえなかった、という苦い思いが湧く。
ピアノに集中するためだとの配慮だとわかっていながら、知らされても何もできなかったとしても、心の波が収まらない。
演奏のほうもしっくりこなかった。
指揮者さんに「話をしよう」と練習会場の控室に誘われた。
「加藤くん、僕にはまだ君の音楽が見えてこない。あと2か月切った。君は確かに才能はあるんだろう。でも自分の音を世界に響かせたい、聴衆を魅せたいという情熱はあるのか? それとも京都のこんなちっぽけなオケではそんな気にならないということなのか?」
指揮者さんの言葉は「俺たちをバカにしてるのか?」と聞こえた。すぐには答えられない。
「京都に詰めるくらいの必死さを見せてほしい」
「申し訳ありません……」
――京都に詰めたら信也を奪られる。
私の心はその一言でいっぱいになった。信也は幸せそうだ。静香さんに抱かれて笑っている。青造さんの見守る中、何の心配もいらない。でもいらないから、私までも要らなくなってしまわないだろうか?
私は信也と生きていく決心をした。だから産んだ。青造さんは私だけのものになりえない。静香さんの夫だ。だからこそ、信也だけは渡せない。信也は、信也は……私の宝物。
「今日はこれで解散にしよう。何か悩みがあるなら身辺整理をして来週頭から毎日入ってほしい」
指揮者さんはそう言い渡して私を部屋に置き去りにした。
どっと疲労を感じた。信也のもとに帰りたい。まずはただそれだけ思った。新幹線に乗り東京へ、洗足へ、信也へ。
いつもならとっぷり暮れた時間の帰宅になるのに、5月半ばの初夏の午後。ゴールデンウィークも過ぎ去っていたことにやっと気付いた。
「ただいま……」
青造さんちの重たい玄関の引き戸をガラガラと開けると、静香さんが信也を抱いて出てきた。
「あ、信ちゃん、お母さんだ、よかったねー、今日はこんなに早く会えたねー」
三和土に靴を脱ぎ荷物を横に置いて上がると、静香さんは信也を私に差し出した。
その時、信也は……、
火が付いたように泣きだしたのだ。
体をぐねらせて嫌がっている。
「し、ん、や……?」
私は言葉を失った。
「信ちゃん、もしかして……、人見知り? もう始まったの?」
静香さんはなぜか微笑んで信也を抱き締めてあやした。
「やーね、信ちゃん、いつもお母さん夜に帰ってくるから違う人だと思ったんだあー」
私は打ちのめされた。京都でも、東京でも。分身だと思っていた自分の赤ん坊に全否定された気がした。
「奈緒ちゃん、スーツ脱いで部屋着に着替えておいで。ついでにお風呂済ませたら? 匂いが違うのかもしれない。信ちゃんちょっと驚いただけよ。心配ないから」
静香さんの優しい言葉も、勝者の悦びが混ざっていると邪推したくなる。
湯船に浸かると涙がぽろぽろこぼれた。あっちもこっちも前途が見えない。このまま中途半端に八方塞がりだったら、私のやっていることに意味があるのか?
これが自分の選んだ人生なのか……?




