信也の誕生
昭和40年にさしかかるところです。紙おむつはまだなかったです。(同年代の作者は布おむつで育ちました)
青造さんの家での江戸時代の大奥のような生活は、専ら静香さんの努力で快適に過ぎた。縁側の巡る広い和建築に、青造さんと静香さんは寝室を分けているようで、私の部屋も遠い。彼は何を言うでもなく微笑み、毎日神社に出るというルーティーンを変えない。どちらかに愛を囁くわけでもなく、どちらかにより優しいということもない。
妊婦ということで優しくしてくれるのは、静香さんのほうだ。
私は出産、育児の事前知識全てを、静香さんから習い、お包みやオムツも縫って、かぎ針での靴下や帽子の編み方も教えてもらった。
彼女は実家の呉服屋さんからいろんな端切れをもらってきては、パッチワークでブランケットを作った。絹地がふんだんに使われているのが可笑しい。
洗濯たくさんするから傷むと言っても、
「だってうちにあるのシルクばかりなんだもの。洗い替え用にたくさん作りましょ。生後1か月、2か月、だんだん大きくしていったら楽しくない?」
と笑い返される。
そういえば赤ちゃんというものは、はいはいできるようになるまでは寝てばかりで、いつも布に包まっているものだと実感が湧いた。
毎日の食事まで作ってくれている彼女に余りに心苦しくなって、私はどうしても「ごめんなさい」を繰り返してしまう。するとその度に
「娘の加代だと思えばすることをしてるだけ。大丈夫よ」
と合い言葉のような返事。
10月末が近づいて、突然破水した。青造さんが用意した借家で朝からひとりピアノを弾いていたので驚いて、静香さんに電話した。青造さんちから徒歩2分。
「とうとうね」
と、笑顔で現れた静香さんを見たら安心したのか急に陣痛が始まった。
タクシーで病院に向かいながら、青造さんの話を思い出していた。
予定日は6日後の文化の日、京都にどうしても行かなければならない、年に一度の神社の大祭だからと。彼は「早めに出てくるように願かけしてるから」と笑っていたんだ。
――神主の願いなら一番に、神さまも聞いてくれるのかしら?
「青造さんは……?」
呻く間に奥様に尋ねてしまった。
「うちにメモ残してきた。奈緒ちゃんの様子みてから連れてくるから大丈夫」
「京都は……?」
「赤ちゃんが先、親孝行ね、ちゃんと会ってからよ。心配ない」
大変な思いはしたけれど、きっと青造さんの名前を叫んでしまったと思うけれど、10月30日の午後、ぼうっとした私の腕の中に赤ちゃんが渡された。
大きな声で泣く男の子だった。
静香さんは泣きながらおめでとうと言ってくれた。
家に居るようにとメモしたらしいのに電話しても青造さんがでないから、
「こんなときまで神社にいなくても! まだ安産祈願してるのかも。捕まえてくるわ」
と言って姿を消した。
分娩室から病室に戻り仮眠を取ったのだと思う。目が覚めたら赤ちゃんが泣いていた。泣いていたから目が覚めたのかもしれない。抱っこしたらそれだけで泣きやんで眠ったようだ。
そこへ静香さんと青造さんが入ってきた。
「奈緒子……」
青造さんは赤ちゃんよりも私の顔を茫然と眺めていた。
髪の毛はいつも通りさらっとして手をかけてないのに、スーツ姿だった。神主装束で来るとは思わなかったけれど、背広にネクタイ。
「赤ちゃんに会うって何着ていいかわからなくて……」
頭を掻いて照れていた。
静香さんが、「もう、ほんと頼りない。ポロシャツにセーターでいいのに、こんな格好で神社に籠ってるなんて。それに、『赤ちゃん』じゃないでしょ、あなたの息子!」と突っ込んでいる。
私はクスリと笑ってしまって、ふたりに話しかけた。
「見てください……、さっきまですごい声で泣いてたの……、声が大きくて骨太だって……」
静香さんが吸いつけられるように近づいてきた。
「声が大きいのは長慶の発声方法で、骨が太いのは加藤のほうじゃない? 奈緒ちゃんのお父さん結構がっしりしてるんでしょ?」
「殴られたら気を失いそうなくらいには強そうだった……」
青造さんが後ろで苦笑する。
「青さんは太りたくても太れないもんね」
静香さんが赤ちゃんを覗きこむ。
「眠ってるとかわいいね。天使みたいだよ。指がちゃんとあるね。爪も。よかったあ」
「こぶしが羽二重餅みたいだ」
青造さんが初めて赤ちゃんについてコメントした。
ベッドに上体を起こした状態で、青造さんと静香さんというご夫妻を見ていた。静香さんが邪魔だと思ったわけではないけれど、青造さんの表情を欠片も見逃したくない。
「抱っこ、してみますか?」
ベッドから数歩のところで足を止めている大好きな人に声をかけた。
彼は予想通りおろっとして、言い訳のように尻込みする。
「いや、こんなちっちゃな赤ちゃん抱いたことがない。加代のときは遠巻きに見ていたし、春雄のときは傍にいられなかった……」
静香さんが肩を竦めて、「まずあたしがもらってもいい?」と訊いた。
「もちろんです、静香さん……」
面と向かって訊かれたら嫌だとは言えない。お父さんに、とは言い張れない。
静香さんは慣れた手つきで新生児を抱いて揺らした。
「赤ちゃんだー。あれ? 名前は? 考えてないの?」
「あ、一応、候補は上げてみたんですけど……、私が決めちゃっていいんですか?」
「名字は加藤なんでしょ?」
静香さんには悪気はないのに、きっとお産で疲れたせいだ、彼女の言動ひとつひとつに心の隅で引っ掛かりを感じる。
初めて会った頃、「もう1度赤ちゃんを抱きたい、おばあちゃんみたいな立場で」って言ってらしたけど、どこまで本気だろう?
赤ちゃんと私の間に物理的な距離ができ、「みふたつ」なった今、もしかして取り上げられるんじゃないかという恐れがもやっと湧いた。
「うん、加藤に似合う今時の名前がいい。アイディアがあるかい?」
青造さんが真っ直ぐ私を見てくれた。
「信也と呼びたいと思って……」
先に反応したのは静香さんだった。
「シンヤ、字は? 信じるに也? うん、信ちゃんね? かわいい。とってもかわいい」
「お前はかわいいとしか言わない」
「だって、こんなにかわいいんだもの。信ちゃん、お父さんに初めましてしようね……」
そう言うと静香さんは頼りない布の塊みたいな赤ちゃんを、青造さんの腕にのせた。
眠っていると思ったのに、振動のせいか、抱かれ心地が違ったのか、信也の睫毛が動いて、目を開けたようだ。
「信也……」
青造さんが慈愛の籠る声で囁いた。
目はまだ見えないはずなのに、信也はじっと父親を見ている。
「目は奈緒ちゃん似ね。ぱっちりしてかわいい……。よかった、青さんの冷たい目じゃなくて」
静香さんが夫の腕の中の信也に顔を寄せる。
「私の目は冷たいか?」
青造さんは信也から目を離さないで、奥さんに質問した。
「かわいくないわ」
静香さんも口だけで答える。
「お父さんの目はかわいくないんだって……、信也どう思う? よかったね、信也はかわいいおめめだねぇー」
青造さんが急に子供言葉になって、静香さんと顔を見合わせて笑ってしまった。