得られた答えは
「今のお気持ちにあった曲を奏でてもらえませんか?」
これが最後の頼みの綱。これで解り合えなかったら、彼の選曲と演奏に私が十分愛されていると感じられなかったら、お腹の子は生きられない。身を挺して守ってあげるだけの覚悟が、私の中にできあがらない。
青造さんはすっと立って奥に下がり、小型の筝を持って戻ってきた。初めて会った時小学校で弾いていた見慣れたお琴より小ぶり。
「これがうちの一族に伝わる元々のお琴なんだ……」
くっと背筋を伸ばして、私にか楽器にか頭を下げる。鼻からゆっくり空気を吸い込み肩を下げた。
♪ ツ、タラララ〜リロル、ル〜、ツ〜タ、タラララ〜リロララ〜……
ラフマニノフのアンダンテ・カンタービレだった。パガニーニの主題による狂詩曲第十八番変奏。
――私がピアノに惹きつけられた最初の曲。遠い記憶の中で母が弾いていた小さなアップライトの横顔。
まずはその選曲の偶然にやられた。そしてその儚さ。
お琴の音はピアノと違ってペダルもなく、長く音を保てない。早々とかき消えていく余韻を楽しむ楽器かもしれない。
掴むに掴みとれない夢のようなものが私の身体を抱きかかえた。
曲が次第に盛り上がり高音になる。私の勝手な解釈だけれど、愛の打診から陶酔へと移行するその最高当たりで音の流れが途切れた。
身体がひくりとして、青造さんを見つめた。彼はお琴に向け俯いたまま。
演奏はここで終わりかと思ったら、低音に戻ってきてまたメロディーが復活した。でも、足らない、メロディーより低い側で脈打つ伴奏、拍動が聞こえない。
この曲をきちんと弾くためには、6オクターブ欲しい。
3分少しの小品なのに、私は演奏が終わっても自分の考えに浸っていた。
やおら言葉が聞こえた。
「出せない音に意味があると思わないか? 言えない言葉に、もっと意味があると、思ったことはないか?」
発言者は真摯な瞳で私を見つめていた。
「言えない……言葉……」
陶酔と脈動、という2つの言葉が瞼に浮かぶ。
音楽を聴いて言語で説明したり理解するのは余り得意ではないけれど、この時ばかりは青造さんの言わんとするところが漢字になって脳にこびりついた気がした。
「恋しい……」
男の人の口から聞く言葉ではない気がした。でも青造さんにはよく似合う。発音すると心に痛みを感じる、大切な、そして言ってはならないだろう言葉。
「抱いても孕ませても、演奏しても愛を語っても、君は僕のものにはならない……。僕の渇望が君に伝わることはないのだろう。そして、伝えてはならない、のかもしれない……」
青造さんの切れ長の目から長く黒い睫毛が立ち上がる。
「奈緒子は安心して僕の気持ちを利用するつもりでいたらいい。僕の人生も感情も、その指1つでコントロールできる。10本の指駆使して奏でられたら僕は、降参するしかないんだから」
「言ってはならない言葉を面と向かって堂々と、一度だけ言ってください。私の人生が変わろうとしてるんです、今だけは、この場でだけは、言って……」
最後の懇願だった。
「愛している」
青造さんは躊躇なく、私が大事でたまらない、という瞳をした。
「それ以外に表す言葉が無い」
「わかりました……」
心が決まった。青造さんは合格だ、私の審査に合格。
「私のキーボード、あれですよね?」
壁際に置かれ千代紙模様の反物で作った埃除けが掛けてある。大事にされている。
私がすることをぼうっと見ていると思った青造さんはすっと立ち上がり、
「電源をつなごう」
と言って奥に入ると、延長コードを引き摺って戻ってきた。
神さま側に電源があるのが少し可笑しい。私に近付き過ぎないように、コンセントを楽器の近くに置いて座布団に戻る。
前回はバッテリーだけで弾いた。節分直後の私の告白の日。抱いてもらった日。命が……宿った日。
腰高の台の上のキーボードに向かう。ずうっと悩んでいたからピアノを弾いても音が冴えなかった。今ならきっと優しい音が出せる。肩を廻して身体の強張りを取り、敷居の向こうの青造さんに微笑みかけることができた。
グランドピアノ88鍵ほどではないけれど、5オクターブある、高音が入るようにすると左手をオクターブ上げなきゃならないところが出る。それでもアンダンテ・カンタービレ全音弾けるだろう。
「好きです」という思いを込めて弾いた。
青造さんは時に目を瞑り、時に私を見上げ、背筋の伸びた正座姿勢で聴いてくれた。
貴方が聴いていると思うと私の指は跳ねる。軽く優しく思うがままに我を忘れる。技巧も拍子も気にしなくていい。心から湧きあがる通りでいいんだよ、と言ってくれている気がする。
――私の陶酔も脈動も、ここにあります。貴方を前にして私は自分が女であることを識った。恋も愛も戸惑いも惧れも全て、音楽の底に流れる全ての感情を身をもって知った。私の音楽、そして私に宿った子供、一緒に実らせてくれますか? 見届けてくれますか?
オーケストラの伴奏が耳に蘇る。
ピアノ一台用に編曲されたバージョンを弾いているのに、弦楽の音が耳の奥に響く。低音側でドドドドドドと響く鼓動を琴が奏でていた。
青造さん、そう、これが私の愛した神主さま。初めて会った日、小学校の演奏で合奏する志乃ちゃんを羨ましいとまで思った。その人が私の一生を見ていてくれる。いくらでも音を添えると言ってくれている。
いいんだ、いい。こういう愛され方でいい。恐がらなくて……いい……。
演奏が終わって私はキーボードの後ろにへたり込んだ。
「大丈夫か?」
青造さんはとうとう私に駆け寄り腕の中に入れた。常衣の胸元に頭を預けた。
「あの時、手荒にされて痛いだけだったからもう一回して」
私はいたずら気分満載で囁く。青造さんはギクッとして私の顎を上げさせ目を合わせた。
「そうだよな、痛かったよな……すまない」
私は「もう一回して」にどう反応するか見たくて口にしたことだったのに、青造さんは青造さんらしく、私の発言の違う部分に反応する。
音楽はあんなにぴったり合うのに、とまた苦笑が漏れた。
緩んだ口元にキスが覆い被さる。
その後どこまでしてもらったかは、青造さんと私の秘密。
私は子供を産むことを告げ、彼はまた大泣きした。
今後のこととしては、コンクールまでは自宅、コンクール後は青造さんの家で過ごすことになりそうだ。結果次第ではあるけれど、もし優勝とか準優勝とかしてしまったときに、大きなお腹で加藤の自宅にはいないほうがいい。
「いろいろ心配だろうけれど、気を詰めずにまずはコンクールに臨んで」
涙を拭いた青造さんが照れる。
「長慶青造を恋に落とした特典は後から後から出てくるから」
私はこうして、大好きな人の子供を育て上げる一歩めを踏み出した。
お父さんには晴れやかな顔で報告ができる自信がある。腹が据わった。
「もう何も心配しなくていいから」と言おう。