奈緒子の疑問
今度は青造さんが前で私が下座に陣取った。
神官の常衣、白い着物に紫の袴を着ていて、今日は自分の知っている青造さんの気がする。他の神社では水色の袴をよく見かけるけれど、彼はいつも紫。色によって神官の格が違うらしい。
髪は自然体のさらさら。昨夜は整髪料で後ろに流していたから違和感があった。おしゃれなムースとかではなく、ポマードとかもしかしたらチックと呼ばれる古式ゆかしいものだろう。
洋服だとやはり髪をいじらないわけにはいかなかったんだと眺めた。
そして急に思い出し笑いになった。洋服だからじゃない。初めて会った日、セーター姿の頭の上で彼の髪はひょこひょこ跳ねていたんだ。
「笑えることが何かあったかい?」 姿勢よく座っていた神官さまが問う。
「僕はどんな答えを聞かされるのか、内心穏やかじゃないんだが……」
少しむすっとしたようだ。純粋だからなのだろうか、男の人はそういうところがあるのか、歳よりも子供っぽく感じる。
「独りで社にいるのは精神衛生上よくない。昨日僕がお義父さんにどんな失礼な態度をとったか、何度も何度も頭に蘇る。お義父さんの前で君が好きだとだだをこねただけな気がする」
私の気持ちはもうかなり決まっている。今日これから青造さんが発する言葉で覚悟を決めると決心したから、含み笑いをする余裕もやっと持てたのかもしれない。
――青造さんをテストする。合格、不合格を決めるのは私。審査員は私。
「昨夜私が本当に貴方を好きかどうか、と訊かれました」
「ああ、そうだね……」
「こっちこそ、貴方に愛されている気がしません」
青造さんの目が見開かれて俯き、膝の上にあった手を返すとその掌に言葉を落とした。
「それは予想外だ……そんなところを疑われるとは……」
「貴方が先に私を疑ったんです」
「How do I love thee? という詩を思い出した。僕がどう君を愛しているか、か。あの詩のようにはうまく言葉にできないだろうが……」
淋しげに首を左右に振ってからゆっくり話し出した。
「僕はね、籠の鳥なんだ。子供の頃から雅楽よりクラシックが好きで。和楽器を習いながらもラジオやレコードで聴く西洋音楽ばかりに心惹かれて」
何の話かわからなかった。青造さんは私を煙に巻くつもりかもしれない、と内心悲しくなる。
「一人前になってこの社の担当になって、毎日朝7時半と夕方5時、日に最低2回は歌うなり奏でるなりするのが仕事だ。もう20年続けている。僕の声を聞かないと1日が始まらないと言ってくれる人々がいるのは嬉しい、だがそれは同時に足枷、籠の中で啼くカナリアと同じ……」
顔を上げるとしっかりと目線を合わせてきた。
私は、「どうか、私が求める言葉を口にして」と祈ることしかできない。
「君のピアノを聴いて僕の心ぴったりに弾いてもらって、分身をみつけたと思った。ただのエゴだと言われるだろうが、ここから動けない僕を君なら外に連れ出してくれる。君が国内でも世界的にでも成功したら、僕の気持ちも音楽も、一緒に君の指に乗って行ける気がした。妊娠させるという重荷を負わせてしまったけれど、それ以前、君が訪ねてきてくれて音楽談義をしていた頃は、君を音楽界に送り出す手伝いができたらどれだけいいか、それが僕の使命だろうと思っていた。そういう愛し方をしようと……」
青造さんの綺麗事を遮った。
「私より、お腹の子供のほうが好きなのではありませんか?」
相手は驚いた分、失笑してしまったようだ。
「そんな比較に意味がある? まだ会ってない子供と目の前の奈緒子だよ? 奈緒子に決まってるじゃないか」
微笑んだ後で、全くもって遺憾だと顔をしかめた。
「奈緒子がいなけりゃ子供はいないんだから」
青造さんの論理では自明なのだろうけれど、私の心は「もっと貴方の言葉が欲しいの!」と叫んでいた。
「貴方には奥様がある。私には誰もいない。貴方が好きな限り私は他の男性に目を向けることもなく、たったひとりで生きて行かなきゃならない。修道女がイエス様を思いながら純潔を保つように、遠くから貴方を思って過ごせと仰るのですか? 幼子を抱えて、だれにも頼れずに?」
「だからいくらでも頼ってくれと言っている……」
「そうじゃなくて!」
――聞きたいのはそんな言葉じゃない。奥様が助けてくれるとか、音楽活動はできるとか、そんな言葉じゃない……。
例えば曲が上手く弾けず眠れない夜、コンサートで無様なミスタッチをした後、オーケストラと揉めたとか、指揮者と意見が合わないとか、ピアノ教室で生徒さんから嫌われたとか、誰も教わりに来てくれないとか、そんな1日の終わりに私を温めてくれる人は一生いないままで過ごさなくてはならないの?
貴方のミニチュア版の子供をもらっただけで、私は自分の生活も音楽も子供自身も何とかしていかなくてはならない。先の見えない孤独の中で足掻いていくしかないの?
「わかった、じゃあここを出よう。君が籠を開けてくれたんだ、尻込みしている場合じゃない。君と子供と守っていけるよう、何とかする……」
「違うんです……、そうじゃなくて……」
首を左右に振りながら涙が出てきた。音楽のことならあんなにも意見が合うのに、それ以外だと何も言葉が通じない……、気が遠くなりそうな……気がする。
「ごめん、また泣かしてしまった……。お義父さんの言われたことはもっともだ。僕が我儘を言っているだけ、嘘でも子供なんて要らないと言えたら、君は肩の荷が下りるだろうに……、そういう愛し方をするべきだろうに……」
それもまた違う。私が引っ掛かっていることはもっと単純。
「私は2度と抱かないんですよね? 奥様は……抱くのでしょう?」
反応が感じられなかった。2メートル向こうの人の気配がない。当然だということ。そんなことに拘泥する自分が余りに矮小で消え入りたくなる。でもこう訊かないと応えてくれない……。
俯いたまま涙を拭いた。
好きだからと言って私が操だてしても、目の前の人はお返ししてくれるわけじゃない。一緒に夜を過ごせないばかりか、結ばれない孤独を共に堪えてくれるわけじゃない。その程度にしか私のこと、好きじゃない。これは両想いじゃない。
だとすれば……、結論は……、私独りの想いだけでは、子供一人を育て上げるには足らない。
「言わないでいようと思ったんだ……、僕一人の問題ではないから」
青造さんの低い声でも最低レンジ辺りの音が聞こえた。
「誤解されるだけだろうし……」
私はゆっくり顔を上げ首を傾げた。
「静香は壊れた身体を見せたくないという。痛みもあるようだ。僕たちはもう、夜のことはしていない……」
「欲求不満で君を襲ったと思われるだろうから言いたくなかったんだが、抱くか抱かないかと訊かれたら、答えはノーだ」
「だが愛し合っている。友愛でも家族愛でもない。いや、それらでもあるんだが、それ以上に、今でも恋人として伴侶として愛している。好きな女だと実感できる。そのうえで、僕は君への気持ちも否定しない。抱く抱かないが僕の愛情の証拠にはならないから話さなかった……」
「私も抱かないけど静香さんも抱かない……?」
「それが君の気になっていることなら、そういうことだ。君が僕を思って淋しい夜を過ごすなら、僕だって同じ。静香がしたくてもできないのだから僕は静香ともできない。一緒だ」
沈黙が社に充ちた。私は自分でもどう判断していいかわからなくなっていた。
何かが違う。身体的にできないことと、選んでしないことは違う。