好きになった責任
音として響いてきた言葉は神主さまのお説教のように他人行儀だった。
「申し訳ないが、私の周りは、そして私も、普通ではないのでしょう。でも奈緒子さんも普通ではないと思います。私の心をこれ程かき乱したのです、普通のはずがない。奈緒子さんはピアニスト、アーティストです。本物なら世間など後から付いてきます。少々の醜聞が何だというのです? 将来結婚相手ができるかどうかなど、心配の必要がありますか? 奈緒子さんが誰にも求められないなんてあるわけがない。経済的には今のところお父さんの世話になっているでしょうが、貴女はもう自分の足で立って物事を決める大人の女性です。自分が落ちた恋愛をどう判断するか、ご自分で決めてください……」
「突き放すのか? 逃げるのか? おまえが言っていることは、奈緒子には手に職がある、これから職がつきそうだから未婚の母にしていいって意味じゃないか!」
青造さんは俯いて唇を噛んだ。
「自立できる女性だから安心して襲ったとでも仰りたいのですか……?」
唇の間から細く発音された言葉には、怒りが籠っていた。いつも柔和な青造さんが、知り合って初めて見せた怒りの感情。他のことでは何を言われても前もって検討済みで流すこともできていた人が、このことだけは譲れないらしい。
「順番が……逆です。それだけは信じてもらうしかありません」
次の瞬間には冷静さを取り戻したようだった。
「私が思うこと、できることは全て申し上げました。私に一番大事なのは、奈緒子さんがどれほど深く私を好きでいてくれるかです。残念ながら加藤さんは、娘さんの世間体だけ気にしているようにしか思えない。貴方自身の孫の命を消そうとされている……」
父ははっとして昨日言っていた質問を口にした。
「奈緒子が産んで、子供は加藤で育てる、私の子供としてすぐに養子縁組するとしたら?」
「私とは一切縁を切るということでしょうか?」
「ああ。金輪際関わるなと言ったら?」
「それでも殺さないでいただけるなら嬉しいです。陰から見守ることもできます。それも奈緒子さんの気持ち次第。奈緒子さんがもう一生私の顔も見たくないなら、そういう選択も出てくるでしょうね……」
「私の……気持ち……しだい……」
思いに沈む私の様子を見て、父が青造さんに面会終了を告げる。
「私も君に言うことは全部言った。奈緒子も考えたいだろうし、今日はこれで……」
「はい、お暇させていただきます。失礼なことも申し上げましたが、結論を導くためとどうかご容赦ください。奈緒子さんからのご連絡を待っております」
青造さんは正座でまた頭を低くしてからすっと立ち上がった。やっぱり足はしびれないんだ、なんて全く関係ないことが頭に浮かんだ。
玄関で靴を履くところをぼうっと見ていた。
「苦しめてごめん……」
急にふたりっきりで話すときの青造さんになった。
「本当に指切られちゃうんですか?」
一番気になっていた質問が口をついて出た。
「僕の立場で教団を抜けた者は教団史上明治時代に一人だけ。その人は切られた、それだけのことだ。今の時代にそこまで神官則を強いるかどうかは、なってみないとわからない。ただ、僕は指があってもかなり無能だよ」
淋しそうではあったけれど笑ってくれた。静香さんと同じこと言ってる、と思った。
頭を冷やしながらゆっくり歩いて帰るという彼を、エレベーターまで見送った。
父は私を近くの小料理屋に誘ったが、そんな気にもなれず自分の部屋で過ごした。
父は父で、自分の家に突然現れた青造さんという全く異質なものをどう考えるのか、独りの時間が欲しいだろう。
私は私で、責任ということをぼうっと考える。恋をした責任。私が青造さんを好きになった責任。確かに自分でお社に行って、自分でふたりきりになって、気持ちを伝える歌をうたって、抱いてもらった。青造さんの言い方を借りれば、「自分が望んでしたこと。恥ずかしいけど否定はできない」、私にとってもそれは同じだ。
でも、だからと言って、人生全て、投げ出さなくてはならないのだろうか?
私はまだ心許なく感じる自分の指を見た。人差し指と中指が無くなったら……。小さい頃から怪我をしないように気を付け大切にしてきた手が使えなくなったら、私の人生からピアノが無くなったら?
青造さんにそんなことさせちゃいけない。あのひとのほうこそ、舞楽の伝統を担う芸術家だ。
切断の話がもし作り話でも、騙されていても、それはもうどうでもいい。産むなら、結婚はなしだ。青造さんとも、恐らく将来的にも誰とも。
青造さんが言っていること、「私と子供に生活の苦労はさせない」というのは責任を取ったことになるのだろうか?
奥様との生活をのうのうと続けて、私一人を独りにして。
「愛し合った証拠として子供が欲しいと思った」と言った。
過去形なのか?
私のことは?
青造さんにも「私を好きになった責任」があるはず。
私は彼がその責任を果たすと言った気がしない。
長慶青造という男性は本当に私を愛しているのか? 今現在も好きでいてくれるのか?
そんな根本の疑問が浮かぶ。
私が子供と一緒に世間の目に晒されながらピアノ教師をして青造さんを思い続けるとしても、あのひとのほうは後ろ指さされることなく神主を続け、これからずっと私を好きでいてくれる確証もない。
一緒に暮らしたい、朝も昼も夜も共にいたい、という気持ちは無いのかもしれない。じゃあ最初から、二番手として好きなだけじゃないか?
ベッドに横になって、自分が眠ったのかどうだか定かでないうちに朝が来た。父は「朝はいい、駅でうどんでも食べる」と仕事に行った。
――今度は私が問い質しに行く番だ。
私はまた神社に向かう。