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父親の怒り


 青造さんは翌日、指定した夜8時ちょうどに現れた。一階に管理人のいるマンションではないから玄関のドアのすぐに立っていて、ネクタイに背広、全く見慣れず知らない人な気がした。


 ソファはあっても対面する肘掛椅子はない。リビングの四分の一はピアノに占められている。

「どうぞ」

 客人に入ってもらうと父がソファから立ち上がった。


 青造さんは膝を折ってその場に手をついた。

「この度はお嬢さんにとてつもないご迷惑をおかけしまして、申し訳ありません」

 土下座という屈辱的な体位であるのに、身のこなしに淀みがなく余りに美しい。

 既に一度見たことのある私の心には、「舞の一種みたい、ちょっと嘘臭い」と意地悪な言葉が首をもたげる。でも父はその所作に気圧されたようだ。


「そんなことされても、許せることでもない……」

 それだけ言ってソファに沈み込んだ。

「もちろんです」


 青造さんは顔を上げない。額がカーペットに付きそうだ。


「私は妻を亡くして10年になるが、自分より一回り以上も若い女性に手を出したことなどない」

「…………」

「見れば奈緒子より私のほうに歳が近いようだ。恥ずかしいと思わんか、長慶(ながよし)(くん)

「返す言葉もありません」

 父は職場では管理職、部長さんだったことを思い出した。部下を叱責するのは慣れているのかもしれない。思ったより威厳があった。


「娘さんがいると聞いた。君は私の立場になったらどうする?」

「殴ります。無理矢理だったら殺すかもしれません」

「じゃ、その覚悟で来たんだな?」

「はい」


「頭を上げてくれ。どんな顔で言っているのか見てみたい」

 青造さんはいつもの、背筋の伸びた正座に変わる。

「殴られる、殺されると思っている割には、堂々としているものだな……、厚かましいのか?」

「厚顔無恥という言葉でしたら、謹んでお受けします」


「泣いて謝ることもしないのだな」

 青造さんはちょっとはにかんだ。

「奈緒子さんの前でかなり泣かせてもらいましたので」

 父はお茶も出せずにダイニングチェアに座りこんだ私に目をくれた。


「卑近な話、避妊しようとは思わなかったのか?」

「手遅れでした」

 私はどっと赤面した。

「止まれなかったのか?」

「恥ずかしながら」

「全くもって、通り魔のようだな……」


 私が「最後まで続けて」と言ったことは口にしないつもりらしい。


「人の娘を傷つけておいて、そんな紳士面ができるのか?」

「傷つけただけではない、と思っておりますので……」


 父はやおら立ち上がるとソファを離れ、床に膝立ちになって青造さんの胸ぐらを掴んだ。

「言えよ、出来心だって。間違いだったと言え! そして泣いて謝れ!」

「……できません」

「なぜだ?」

「愛しているから……」


「軽々しく愛などと言うな、愛せる立場にないだろう?」

「なくても心は止まりません」

「なら心の中だけにしまっておけ。嘘でもいいから間違えたと言えよ。それが優しさだろう? それもひとつの愛し方だろう? おまえが悪者になれば奈緒子は自分の道に戻れるんだよ」


「どっちがいい? 奈緒子……」

 青造さんの声がぽっかりとリビングの空気に浮いた気がした。

 父は青造さんが「奈緒子」と呼び捨てしたことに驚いてか、はっとして手を緩めた。

「間違いだったと言って欲しいかい?」


「私は……」

 答えられなかった。二人が争っているのを遠巻きに眺めていた。争点は自分だと、意識できていなかった。二人が怪我したらどうしようなんて心配していた。


「おまえのせいで娘はこんなに混乱している。解放してやってくれ、頼む。恋愛経験もあるほうじゃない、ピアノの夢もある、母親なんてまだ無理だ」

「奈緒子さんは十分大人です」

「大人でも、私には娘だ。私は私の子供を守る」


「私もその点譲れません」

「譲れないって……何を?」

「私の子供の命です」

 父はギクっとして正座から尻を後ろに落とした。

「ま、まだオタマジャクシ程度の細胞分裂に過ぎない……」

「それでももう、命です」


「なぜそうも命に拘る? 宗教的なことなのか?」

「いえ、もっと原始的なことです。あの瞬間に奈緒子さんと愛し合った証拠が欲しいと心から願ってしまったので」

「孕ませようとしてしたことだというのか?」

「少なくとも、私が心から望んだ結果です。ですから、恥ずかしくはありますが否定はできません」


 父は目を白黒させてソファに戻った。

「奈緒子が好きなら結婚したらいいじゃないか……」

「その二者択一が私には理解できない」


 父はその場にすっと立ち上がる。

「本気で殺されたいのか?」

 怒気のオーラが湯気のように噴出していた。

「殺すのは、長男が跡を継いでくれるまで2年ほど待っていただきたい。加藤さんが貴方の孫を育て上げてくれるというなら、その時に、殺してください」

「結局、怖気づくんだな」

 青造さんは口角を少しだけ上げた。

「怖気づいての言葉かどうかはご覧の通りです」


 青造さんの姿勢は全く崩れない。困った人だと思う。ごめんなさいと言えれば、許してくれと泣きつくことができたなら、人生もっと楽だろう。

 このひとは「子供を殺さないで」と泣いた。もう父として、私のお腹の子供を守ろうとしている。私は母になるかどうかで迷っているというのに。

 きっと選択肢に無い。青造さんには思いも行為も命も、無かったことにするという選択肢は元々ないんだ。

 

「例えば奈緒子さんに兄弟がいて、加藤さんはどちらかを選びますか? 奈緒子さんのために、後から生まれる子供を諦められますか?」

「詭弁だろう? 私には奈緒子しかいない!」

「私にとっては、三人目の子です」

「おまえは認知しない、父にはならないそうじゃないか!」


「それは全く別の問題です。くだらない宗教団体を避けるための」



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― 新着の感想 ―
[良い点] なんだかんだ読ませる本作はすごい (;'∀')
[一言] お父さん辛い……(それしか言ってない)。 この、一番辛い道を選ばざるを得ない感じ、いたたまれないですね……。
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